16話 芙蓉と浅葱
一人の女が新しく芙蓉の元に侍ることになった。
「本日よりお傍にお仕え致します、浅葱と申します」
そう言って、女は芙蓉に深々と頭を垂れた。
挙措は丁寧で、声も落ち着いている。やや動きが俊敏すぎるのと、抑揚に東国の訛りが強いのが、芙蓉の気にかかった。
氏綱からは母の姪の侍女の娘と聞いている。
(殿の母御前は京都小笠原家出身のはず)
無論、浮かんだ疑問はおくびにも出さず、優雅な微笑みを返した。
浅葱は三十路にかかる頃だろうか。城主自ら「召し使ってほしい」などと奥に潜り込ませた女だ。
駿河から来た侍女達は、こぞって「殿の側女なのでは」などと噂していた。
「確証のないことを言うのはおやめなさい」
「お方様は気にならないんですか」
時々、居心地悪そうにしている新入りの侍女が気にならないと言えば嘘になる。
けれど、側女などではありえない。
「殿がそんな艶っぽいことされますか」
冗談めかして言うと、噂話をしていた侍女たちも納得の顔つきになった。
自分の手がついた女を正室に世話させるなどと、伊勢氏綱はそんな下卑た行動をする男ではない。もし、自分以外に側室などを持つとしたら、それは必ず自分にも宣言してくるはずだ。
だからこそ芙蓉は悩む。
(側女でないとしたら⋯⋯)
わざわざ出自を隠してまで、芙蓉の元へ送り込む。何のために。
問いたくても、既に氏綱は京への旅路の途中だ。冬の研ぎ澄まされた冷気に凛と聳える富士を見て、ため息をつく。
氏綱のいない小田原の城は広く静かに感じた。
浅葱は次第に城の中に馴染んでいった。特に部屋を整えるのが抜群に早くて上手い。
「お方様も浅葱に頼むといいですよ」
来た頃は側女かもなどと疑っていたのに、空木などは掌を返したように褒め称える。
「伊豆千代丸が散らかしたのを放っておいているのを見られるのは恥ずかしいから、今まで通り自分でやるわ」
やんわりと空木の提案を退ける。彼女に部屋に入られるのは抵抗があった。
それとなく浅葱を観察していて、芙蓉がふと思い出した出来事があった。
祝言の夜。宴席を抜け出した氏綱は、真夜中まで戻ってこなかった。
あの夜何があったのか。氏綱は最後まで語らなかったが、後で遠山直景からひっそりと聞いたことがある。
女の斥候が城内に紛れていて、それを捕らえていたというのだ。
(捕らえられた斥候はその後、どうなったのであろう)
誅したという話は聞いていない。
氏綱から文の一つも無いまま、年は明ける。伊豆千代丸が言葉らしきものを発するようになり、自分の足で歩けるようにもなった。
「たぁた」
と言いながら、芙蓉の着物の裾を掴んでくる小さな手が愛おしい。
「大きくなられましたな」
侍女たちが「若様」と手を叩くと、とてとてと覚束ない足取りで呼んでくれた侍女の方に歩みを進めるのだ。
その日もそんな風に城の中庭で遊んでいた時だった。石畳に伊豆千代丸の足がひっかかる。身体が大きく前に崩れる。
みなが動けず見守るしか出来なかった刹那、俊敏な影を芙蓉は見た。
どういう動きをしたかもわからぬまま、伊豆千代丸は浅葱の腕に抱きかかえられていた。
芙蓉は心底、安堵の溜息を漏らす。浅葱の方は、逆にしまった、という顔をしていた。
「浅葱――でしたね。伊豆千代丸をありがとう」
芙蓉は礼を述べてから、伊豆千代丸を浅葱の腕から抱き上げる。大きく真ん丸な瞳が、母を捉えると一気に細くなる。
(――何もなくて本当に良かった)
強く抱きしめてから、浅葱を見ると、左袖が破れていた。
地にこすれたせいだろうか。誰も動けなかったのに、彼女だけが伊豆千代丸を救えた。
普通の武家の女ではない。
芙蓉の疑惑は確信に変わる。
「小袖が破れてしまいましたね」
「あ」
「来なさい。新しい着物を用意いたしましょう」
理由は何でも良かった。二人きりで話をしたかった。彼女が何のためにこの城に来たのか――。
しっとりとした香りに満ちた部屋だった。
着物の件が口実なのは浅葱も承知している。二人きりにして、何を問われるのか。否応なしに浅葱の身体も心も固くなる。
「伊豆千代丸のこと、ありがとう存じます。まずは礼を申します」
凛とした声で芙蓉はまずはそう切り出した。
「いえ。若様ご無事で何よりでございました」
深々と礼をしてから、頭をあげた。対座しているこの人が、伊勢家跡取りの正室。
改めて、正面に向かい合う。年は、浅葱との方が明らかに年上だ。だが、落ち着きと品格が全く違う。
「お前がいなければ、伊豆千代丸は怪我の一つもしていたでしょう」
浅葱の動きの特異性を伝えたあとで、芙蓉はこう続ける。
「殿が存じているのなら、お前の出自などはどうでもよい。――けれど、お前がここにいる目的は教えてください」
浅葱は口を開こうとして、止まった。
何と答えればいい。氏綱の命で城に入った。それは本当だ。資高の使いとして戻った。それも本当だ。
だが、今は。
今、自分はここで何をしているのか。
「⋯⋯」
沈黙が続く。芙蓉は急かさない。待っている。その余裕が、浅葱には一番堪えた。
わからない。
その応えが喉元まで出かかった時に、氏綱の声が耳に響いた。
――うまく忍べよ。
どうやって。叫びたい気分だった。
どうすればいい。どう、立ち回る? 袖の中の手に汗が滲む。
固く拳に力を込め、浅葱は切り出した。
「恐れ入ります。殿がお方様にお伝えした母御前様との縁は偽りにございます」
「⋯⋯そうでしょうね」
伏し目がちに芙蓉は頷く。
「殿よりお方様及び伊豆千代丸様の護衛を仰せつかりました忍びの者でございます」
「⋯⋯真ですか」
芙蓉の目はまだ疑り深く浅葱を刺す。
「けして私や伊豆千代丸、引いては城に害なす者ではないと誓えますか?」
「――誓えます」
否の答えは言えるはずが無かった。
「わかりました」
芙蓉の声が柔らかくなる。浅葱は芙蓉に気づかれぬよう小さく息をつく。
芙蓉は静かに立ち上がると、長持ちの前に立った。
蓋を外し、中の着物を一枚取り出す。
「駿河より持ってきた物です。お前に相応しい色でしょう」
緑がかった青――浅葱色の生地に、裾に桔梗が描かれている。浅葱は自分の左袖に手を添えた。
「こ、このようなものは頂けません」
「お前は伊豆千代丸の恩人です。受け取って、堂々と着てください」
そう言って浅葱の腕に、着物を載せた。
「――能う限り、嘘はない方がよいですよ」
小声で囁かれて、浅葱の首筋に緊張がさっと走った。
自室で芙蓉から下げ渡された小袖に着替えた浅葱は、姿見の自分に自嘲した。
(桔梗の紋か)
――勘のいい女だからうまく忍べよ
最後の氏綱の忠告がしみじみと浅葱の脳裏に蘇り、江戸城が懐かしくなった。




