14話 三条西実隆
京都二条。室町御所の目と鼻の先に、伊勢伊勢守貞陸の屋敷はある。最奥の部屋で、貞陸は一人の男を待っていた。
春の気配はあるが、京の風はまだ冷たい。ふと紋白蝶がひらひらと貞陸の部屋に迷い込んで来る。手で庭へ追い払ったその時だった。
「伊勢新九郎様、おつきになりました」
侍女の浪路が知らせてくる。客間への案内を申し付け、貞陸は徐に部屋を出た。
目の前に平伏している男が、千代丸を名乗っていた頃を、貞陸は知っている。口数は少なく、それでいて何か尋ねると、回答は明瞭な子どもだった。
あの頃、父親の盛時は駿河にいた。
(まさか、伊豆どころか相模まで切り取ろうとはのう)
そんな活力と行動力に溢れた男の嫡男が今、目の前にいる。あの幼子がどう育ったのか。つい、観察するような目線になる。
「此度は、逗留の儀――忝のうございます。家臣の大道寺盛昌共々、ご厄介になります」
伊勢氏綱はそう言い、貞陸に丁重に頭を下げた。
涼やかな声と落ち着いた所作。父親ほどのぎらぎらした覇気は感じない。けれど。
(目が似ている)
切れ長の双眸に宿る光は、宗瑞に負けない鋭さがあった。
「懐かしいのう、千代丸殿。年上のはとこを覚えておいでか」
敢えて幼名で呼ぶと、氏綱は照れくさそうに目を細めた。
「恐れ入ります。幼少の頃故、京でのことは殆ど⋯⋯」
「さもあろうな。何度かこの屋敷にもいらしてたのじゃぞ。身内の間柄じゃ。堅苦しい挨拶はよしなされ」
「忝のうございます」
貞陸の言葉にも、氏綱は折り目正しい態度は崩さない。
「いかがかな。関東とは、勝手が違うであろう」
「まだ来たばかり故、右も左もわかりませぬが、はるばる来たからには、学んだものを相模に持ち帰りたい所存でございます」
「ほう。一番そなたが学びたいものはあるか」
「されば」
氏綱は言葉を吟味するように間を置いた。そして、自嘲気味な笑みを口元に浮かべて切り出した。
「妻が駿河今川の出故、京の文化や有職故実に詳しく、田舎者の某はついて行けず手を焼いております。可能であれば、京の文化に明るい方にお引き合わせいただきたいのですが」
「ほう⋯⋯」
貞陸はつい、愉しげな声を上げてしまう。
自嘲しながら妻を引き合いに出すが、つまり氏綱は公家の――それも、相応の家格の者に渡りをつけろと願っている。
「なるほどのう。奥方の為に、京の文化を⋯⋯」
「ご無理を申し上げますが、何卒お願いしたく」
「ふむ」
頷いた後、貞陸は暫し考え込む。沈黙の間、氏綱は微動だにしない。
公家衆に誼を通じて、この男が何をしようとしているのか。
(面白い)
会わせてみたい男がいる。手にしていた扇を貞陸はパチンと閉じる。
「内大臣三条西実隆殿はご存知か」
狙いはとうにつけていたのであろう。その名に、空気がわずかに締まる。
「無論にございます」
「公家の中でも、あの御方ほど“言葉”と“故実”を極めた者はおらぬ。いかがかな」
「願ってもないことにございます」
「おぬしの滞在中に実隆殿にお目文字の機会を作れるよう、骨を折ってみよう」
「ご配慮痛みいります」
深々と平伏し、氏綱は貞陸の前を後にする。氏綱の直垂の対い蝶が小さくなっていく。
(関東の伊勢家も面白くなりそうじゃ)
貞陸は扇の下で口を緩めた。
三条西実隆との対面が適ったのは三日後だった。想定外に早く、改めて氏綱は貞陸の人脈の太さを実感する。
訪れた実隆の屋敷は仕切りが少なく開放的だ。几帳で仕切られた板の間に通され、主を待つ。
「この梅の図の几帳なども、春を待つ風情が現れていいですねえ」
「わかった風なことを申すな、盛昌」
盛昌は肩を竦めて平伏する。既に待たされて四半刻は経つ。
(仕方なかろうな)
氏綱は小さく自嘲する。優先度の高い客でないのは承知の上だ。
実隆は極めて気難しい男だと、貞陸からは忠告を受けている。
奥から衣の擦れる音が幽かに響いた。先導の女房に導かれ、当代随一の文化人、三条西実隆が現れた。
実隆は御簾のうちにゆったりと腰を下ろすと、扇を膝に置き、品定めをするような冷ややかな視線を外へ向けた。
「伊勢伊勢守殿のお身内の方とか」
声も悠然としていて、抑揚がない。話し方から武士とは違う。
「伊勢新九郎氏綱と申します」
「無位無官の者か」
実隆の声が、急に険しくなる。名乗るべき位と官位の無い者など、人として認めぬような峻烈さがあった。
「恐れ入ります」
「文化を教えて欲しいとのことだが、東夷に理解出来るかのう」
あからさまな侮蔑であった。実隆は、氏綱が何かの拍子に激昂するのを期待しているのか、あるいは単に興味がないのか。氏綱の返答を待たず、実隆は腰を浮かす。
その時だった。
実隆の動きが、ふと止まった。御簾の奥で、主が小さく鼻を動かす気配がする。
「黒方か……」
実隆が、何事か独り言のように呟いた。
氏綱にも、控える盛昌にも、その言葉の意味は届かない。沈黙が、重苦しく広い部屋に満ちる。
「この香は奥方か」
「はっ。仰せの通りでございます」
生真面目な氏綱の返事に実隆は声を立てて笑う。
「ははっ。奥方が京風で⋯⋯と言うのは偽りではないようじゃな」
実隆は改めて座り直した。少し、風向きが変わってきたようだ。
「伊勢守殿のお身内とあれば、数字などには明るかろうか」
「多少は心得ております」
「実は勘定方がやめてしまって、わが家の収支を計算する者がおらなくて困っている。一つ、助けてはもらえぬか」
「某に出来ることであれば何なりと」
「しばし待たれよ」と実隆は言葉を残し、姿を消した。また、室内は盛昌と二人になる。
「殿」
ずりずりと氏綱の後ろに寄ってきて、盛昌は小声で話しかけてくる。
「なんだ」
「こくぼう、って何でしょうか」
実隆が呟いたあの一言から空気が変わった。
「香の一つ、だろうな。恐らく芙蓉が焚きしめておいてくれたのだろう」
直垂の袖を顔に寄せると、よく嗅ぐ白檀と似ているが、若干甘い香りがする気がする。
旅立ちの前、芙蓉が「お支度は芙蓉にお任せいただけますか」と請け負ってくれたのだが、こういった事態を想定していたのであろうか。
「頭が上がらぬな」
遠い地に残してきた妻の顔を思い出し、氏綱は小さく笑う。
「殿の香り、いつもより甘い気がしてましたが、なんか特別なんですかね」
「わからん。我ら武士は刀の意匠や弓の強さなどで、敵の身分や強さを測るが、貴族は纏った香や詠んだ和歌などで人となりを知るのだろうな」
「そんなのでわかるんでしょうか」
「そこが文化の違いなんだろう」
盛昌は腕組みをし、「ふーむ。よくわからんですな」と結論づけた。
静かな足音と共に、一人の男が入ってきた。両手で台を掲げ、その台上には料紙が山程載っている。
「三条西家の家司をしております、時康と申します。主より、仰せ使って参りました」
男は四十代半ば。氏綱の前に腰を落とすと、慇懃に頭を下げた。
「我が家の帳簿になります。先年より、家務を差配する者がおらず、私が引き継いでおりますが、何をどうしていいものやら」
時康と名乗った男の眉が情けなく八の字に下がる。持ってきた帳簿は綴じたものもあれば、走り書きのままのものもある。
「うわ、雑多な帳簿ですね」
盛昌が呆れて言うのを、氏綱は視線で制す。
「拝見させていただこう」
氏綱は台を引き寄せ、上から一枚一枚改める。確かに紙の形式も統一されておらず、未進も進上も区別なく、雑多にまとめられている。
難儀な仕事ではあるが、帳簿の整理であれば、氏綱にも出来そうだ。
「こちらの収支を検めればよろしいか」
「は、はい」
帳簿の中を見ると、初めこそきちんとまとめられていたものが、去年の春先から急に記帳がまばらになり、計算が合わなくなっている。
「盛秀がいれば、ものの一刻で収支を合わせそうだな」
氏綱はちらりと盛昌を見る。
「某に算術は期待しないでください」
「算術は期待せぬ。が、まずは進上(収入)と用途(支払)、未進(未納)に仕分けせよ。それくらいなら出来よう」
「某がですか?」
勘定の苦手な盛昌は主の前で露骨に嫌そうな顔をし、時康をはらはらさせる。
「若は人遣いが⋯⋯」
氏綱に背中を向け、盛昌は渋々床に綴じられていない料紙を並べ始めた。
その間に氏綱は、台帳の中身について、時康に尋ねる。
「紀伊国牟婁郡三栖荘こちら百貫入、と書かれておるのに、注記に未進とあるのは」
「その、三栖荘は⋯⋯。去年も一昨年も未納でして。現地の国人や守護代が戦乱を理由に押領してしまっているのです」
言いにくそうに指を弄びながら、時康は仔細を説明する。
「ああ⋯⋯」
本来、三条西家が手にするはずの富は、戦乱で権利が曖昧になり、現場の武士たちに食いつぶされている。在地に取り立てに行くのも難しく、行ったとて成果があるかは怪しい。
「さりとて、無い身上をあるものには出来ますまい」
朱筆でわかりやすく未進に丸をつける。
一方で、実隆には年貢以外の収入――武家からの献上品や、和歌・書の指南料がある。しかしその内訳は米、絹、香木と品目が雑多で、金銭に換算される前の「現物」が複雑に入り乱れていた。
「盛昌、仕訳が終わったら、これを品目ごとに勘定致せ」
紙束と算盤を隣の盛昌に突きつけると、氏綱は時康に視線を戻す。
「時康殿には、現在の屋敷内にある絹や米、香木の『実数』を確認いただきたい」
他家の家人に命を下すのは気が引けたが、実隆に言い含められているのか、時康は「承知いたしました!」と快く請け負った。
盛昌に仕分けさせ、時康には蔵の現物を改めさせる。氏綱はその数字を帳簿と突き合わせた。
どう計算しても収入より支出が多い。
「香木や贈答品などの用途が多いように見受けられますが」
「それは削れませぬ。貧窮しているとはいえ、当家にも格と矜持というものがございます」
この時ばかりはと時康は、力強く断言する。
氏綱にしてみれば贅沢品に映るが、公家の家であれば、必須の用途らしい。
「なるほど。実入りは少なくとも、家格を維持するための支出は削れぬ、というわけか」
「仰せの通りでございます」
勘定方がやめてから今日までの収支の計算と、帳簿への記載は終わった。氏綱は、今後は収支を都度都度書き記し、折に触れて勘定していくべきだと丁寧に諭す。時康は熱心に氏綱の説明を聞いていた。
実隆にも同様のことを伝え、現状の収支と在庫を記した帳簿を返す。実隆は御簾の内側で、かなり長い間帳面をめくっていた。
家人が入ってきて、御簾の中と氏綱の脇の灯明に火を入れる。炎の回りがぼんやりと明るくなった時だった。
「伊勢殿」
実隆の声がして、直衣の袖が御簾の裾を上げる。
「忝ない。真にありがたく存じる」
御簾の内より出て来た実隆は、深々と頭を垂れた。
「微力ながら、お力になれて何よりでございます」
「次はわしの番じゃな。とは言え、今宵はもう暮れた。明日、今一度お越し頂けるかな」
無論、氏綱に否はない。
翌日、実隆の屋敷を再び訪れると、実隆は所蔵の文庫へ氏綱を案内する。
古今、新古今、源氏物語、更級日記。平安の古より一つ一つ書き写され、守られてきた文化がそこにあった。
「俄に身につけられるものではございませぬな」
文化に歴史に歯が立たないほどに圧倒されつつ、氏綱は昂ぶった声で思ったままを口にする。そんな氏綱に実隆は満足そうに微笑んでから、切り出した。
「伊勢殿。実は三日後に連歌の会を我が屋敷で催す予定じゃ。連歌師宗長殿もおいでじゃ。貴殿のご都合はいかがかな」
にこやかな笑みで誘いかけたと思うと、実隆は瞬時に真顔になり、扇で口元を隠して囁く。
宗長ならば、今川館でも会ったことがある。
「お忍びで関白殿もいらっしゃる予定じゃ。貴殿にも実りあるものとなろう」
氏綱は一瞬言葉を失い、無言で実隆を見る。これ以上はない破格の誘いであった。
「私の如き武骨者でよろしければ、喜んで末席にお加え頂きたく存じます」




