13話 京へゆく
韮山への凱旋の途中、宗瑞は久しぶりに小田原城を訪れ、やっと伊豆千代丸と対面する。既によちよちと歩き、片言の言葉を話す初孫に、宗瑞も骨抜きだ。
「賢そうな子じゃ。そなたは相模の雄になるのだぞ」
宿敵三浦を倒し、宗瑞は上機嫌だ。満面の笑みで伊豆千代丸に語りかける。
「父上、気が早うございます」
思わず苦笑いしてしまう。
宗瑞の鋭い眼差しとは対照的に、伊豆千代丸の眼は無垢で、宗瑞の姿をそのまま映し出す水晶体のようだった。
「そうそう、横須賀連秀も伊勢の傘下に入ることとなったぞ」
「それは、よろしゅうございました」
「連秀がそちに礼を申しておった」
「礼とは清子姫のことでしょうか」
「ああ。落飾され、今は小さな庵で道寸殿の菩提を弔っているそうじゃ」
「⋯⋯」
新井城の地獄図を思い出すと、口のなかに咀嚼しきれなかった何かが残っているような苦味を覚える。
「どんな勝利であっても勝ちは勝ちじゃ」
辛気臭い顔をするでない、と宗瑞は高らかに笑って、腕の中にいた伊豆千代丸を氏綱に戻した。
宗瑞は三日程小田原に滞在していた。
「小田原の城は少し変わったのう」
馬出し口に歩きながら、宗瑞はあちこちを見やる。櫓を増やし、土塁を築き、堀を深くする。
氏綱がこの城の主になって以降、改修を加えているところが多々ある。その一々を父に相談したり、報告はしていない。
「城の防御を固めるは国を守る基礎と心得ます故」
「韮山に比べれば、攻めるに易い城じゃからな、よいことじゃ」
氏綱の言葉に宗瑞は深く頷いた。父の言葉に氏綱は更に己の存念を伝える。
「ゆくゆくは城下の街の整備などもしていきたいと考えております」
「小田原のか」
「はい。そこで父上にお願いの儀がございます」
兼ねてからの懸案を氏綱はここぞとばかりに切り出した。自分はまだ相模国しか知らない。この国を良くするために、もっと多くのことを知りたい。三崎から帰ってきて、ずっとその願いが頭の隅にある。
「何じゃ」
「見聞を広め、小田原の街の発展に活かす為、京の都を見てみとうございます」
氏綱の言葉が意外であったのか、宗瑞は顎髭を伸ばしながら「うーむ」と唸る。
「そちも幼き頃は京にいたではないか」
「無茶をおっしゃる」
五つの時までの話だ。断片的な記憶しかない。
「戦乱で荒れ果てようとも、都は都。学ぶへきことは多いと存じます」
「都のことや幕政については、父が色々と伝えて来たつもりではおるが、まあ百聞は一見に如かず――とも言うからな」
あっさりと宗瑞は氏綱の京行きを許してくれた。のみならず、親族の伊勢貞陸へも渡りを付けてくれ、在京中は貞陸の屋敷に滞在が可能になった。貞陸は幕府政所執事の男だ。改めて氏綱は父、宗瑞の出自の良さと人脈に敬服した。
「京に行かれると伺いました」
何処から情報を得たのか、氏綱の顔を見るなり、芙蓉が言う。その声は低く、物言いは硬い。
「すまぬ、まだそなたには伝えてなかったな」
太刀を芙蓉に預けて、氏綱は腰を降ろす。
「京の町を見聞してくるだけだ。それほど、長くは掛からぬはずじゃ」
芙蓉の勢いに気圧されたように、氏綱の言葉は言い訳めいたものになる。
「京など……荒れ果てて何もないと聞いております。わざわざ殿が足を運ばずとも良いのでは」
刀掛けに太刀を置くと、芙蓉は氏綱の前に座り、つまらなそうに呟く。普段、理知的なだけに、こうした物言いは珍しい。
氏綱は芙蓉の不機嫌を宥めるように手を取った。白く瑞々しい手は、初めて会った頃と変わらない。
「わしが城を開けるのが寂しいのか?」
「お戯れを」
芙蓉は満面の笑みでそう返してから、氏綱の手中にあるのとは反対の手で、氏綱の手の甲をつねって釘を差してきた。
「殿がゆかれるのであれば、駿河などの方が見るべきものは多ございましょう、と申し上げただけです。とはいえ、京のおなごに現を抜かしたら許しませぬ」
「そちこそ、戯れを申すな」
芙蓉の悋気を一笑に付して、芙蓉の肩を抱く。ふわりと鼻腔をくすぐるのは、もう慣れてしまった芙蓉の焚きしめる香の匂いだ。
「京にもそなた以上のおなごはおるまい。いらぬ心配はいたすな」
婚姻から四年。これほど長く城を開けるのも、芙蓉と離れるのも初めてだった。
「伊豆千代丸を頼む」
「⋯⋯承ってございます」
氏綱の胸に顔を埋めたまま答えた芙蓉の声は微かに震えていた。
氏綱が京への支度をしているさ中、浅葱が江戸より戻ってきた。
「遅くなりました」
そもそも戻ってくること自体、五分より低い確率だと思っていたのだが。
聞くと、一度戻ってきてのだが、氏綱が城にいないとのことで、再び江戸に戻っていたらしい。
「お役に立てませんでした」
手紙を氏綱に渡しながら、浅葱は先に謝って平伏する。
「断られたか」
「はい」
そうか、と言いながら、氏綱は資高の書状を開いた。墨痕あざやかな迷いのない筆だ。
「過去の柵は捨て、扇谷上杉に忠義を果たす所存――とあるな」
「は、はっ」
浅葱が悪いわけでも無いのに、声が上擦っている。
「一度きりで簡単に主家を裏切るような男、却って信用できぬ。そちを返してきたということは、糸は切れておらぬ。今はそれでよい」
鷹揚に言うと、浅葱の纏っていた緊張が解ける。
浅葱に伝えた言葉は負け惜しみでも、慰めでもない。太田資高という男が、氏綱の誘いをどう扱うか、見てみたかった。
(とは言えお互い簡単に肚の内は見せないもの)
短い文面から、氏綱はできうる限りの太田資高のひととなりを読み取ろうとする。
伊勢家を【他国の兇徒】と罵って止まない主家とは違い、この返書を見る限り、資高自身の伊勢家への感情は平らかだ。
(一番面白いのはここよな)
最後、資高の文は「――浅葱をよしなにお頼みいたす」と締めてあった。
「ところでそちの処遇だが、太田殿からは当家で預かってほしいとある」
「は⋯⋯」
浅葱の表情が刹那翳った。資高から、言い含められていたわけでは無さそうだ。
「捨てられた猫みたいな顔をいたすな」
資高からの手紙は燈明の火にくべ、燃やしてしまってから、顎に手を当て考え込む。あのような一文が添えられていたら、彼女を雑に扱えない。
「とりあえず今宵は休め。疲れたであろう。また沙汰する」
次の日、風魔の長の小太郎を召して、浅葱を再び預かれないか打診してみたが、「若の酔狂にはこれ以上付き合えませんぞ」ときっぱりと跳ねつけられた。
三日後、再び浅葱を召す。
「そちの今後だが、奥付きの女房として働いてもらいたい」
「⋯⋯」
浅葱は何か言いたげに、少しだけ面持ちを上げる。
「わしがしばらく上京することになってな。問題ないとは思うが、不審者などが城に入り込んでこないか護衛を頼む」
「かしこまりました」
「奥は、勘のいい女だからうまく忍べよ」
芙蓉には、母方の姪の侍女の身内を召し使ってほしい、としか伝えていない。
城内で浅葱の正体を知るのは氏綱だけだ。
氏綱が留守の間の小田原は遠山直景に任せ、供に大道寺盛昌を選んだ。旅路は小田原の港から舟で堺に出、そこから陸路で京へ入る。
着々と準備が進んでゆく。
永正十三年冬、氏綱は初めての京へ旅立った。




