11話 戦下の親子
水夫二人を連れ、横須賀連秀は毘沙門堂を出て行った。結局、横須賀連秀から「船を止める」と確約は出来なかった。
伊井を巻き込み、風魔の手を借り、横須賀から強引に人質を奪ってなお、本懐は遂げられていない。
「難しいのう」
ため息と共に愚痴が漏れた。
「⋯⋯若」
「なんだ」
「ああいう時は嘘でも『必ず姫は助ける』って言うもんですよ」
盛昌がしたり顔で交渉術を伝授してくる。「出来ぬかもしれぬことを、約束出来るとは言えぬ」
頑なですな、と盛昌は苦笑いをして肩をすくめる。
「人の行動に絶対などありますまい」
「期待を持たせたら⋯⋯うまく行かなかった時に尚辛いだろう」
『清子という、わしの娘を救ってもらうことはできぬか』
あの言葉を言われた瞬間、小田原にいる伊豆千代丸の姿が浮かんだ。父としての気持ちがわかるからこそ、その場しのぎの方便は言えなかった。
「某の『出来ます』と若の『出来る』は重みも違いますからな」
「⋯⋯」
慰めているつもりなのだろうか。盛昌の言に氏綱は口角だけ上げる。
「さて。父上の本陣に戻るか」
気持ちを切り替えるように氏綱も扉を開け、外に出た。既に境内に連秀の姿はない。海は見えないのに、風に磯の香りが混じる。
もう、ここに自分のすべきことはない。
「はっ」
「伊井殿が船を出してくれるそうだが⋯⋯そなた、いかがいたす?」
仕返しとばかりに、氏綱は意地悪く言ってにやりと笑う。
「若と共に帰りますよ」
船酔いしやすい盛昌はうんざりしたように、そう言った。
船で三崎の港に戻り、十日ぶりに父の隊と合流する。
氏綱は宗瑞に、伊井と共闘し、船を奪ったことと、横須賀との交渉が保留になっていることを伝えた。
「そうか。連秀の返事待ちというわけじゃな」
氏綱の報告に宗瑞は満足げに頷いた。
「あと一押しが足りず⋯⋯、氏綱の不徳の致すところです。申し訳ありません」
「わしとて、連秀の立場であれば、同じことを致す。父の情は簡単に捨てられぬであろうよ」
宗瑞の手が氏綱の肩に置かれる。父の手に付けられた籠手が、かちゃりと鉄独特の音を奏でた。
夜になって、伊勢家の陣中に玉縄城の斥候からの報告が入った。扇谷上杉家の朝興が軍を率いて江戸城を発ったという知らせであった。
「三浦への援軍というわけか」
宗瑞は鋭く尋ねる。
「恐らく。現在江戸城から、鎌倉街道を南下している模様」
「いかほどじゃ」
「二千ほどかと見ました」
新井城に籠った兵数より多そうだ。
「上杉としても、配下の国衆の三浦が追い詰められて滅してゆくのを、座して見てるわけにはゆかぬのであろうな」
「それで当主自ら援軍でございますか」
「当主とは申せ、実権は未だ朝良が握っておるようだがな。⋯⋯まあ、三浦に容易く降られても困るのであろう」
宗瑞は皮肉に笑ってから、続ける。
「新九郎、玉縄の城にはいかほど兵が残っておる」
江戸から新井城までの道筋には、玉縄城がある。完成したばかりの城を攻められても厄介だし、領内を易易と行軍されても、伊勢家の沽券に関わる。
「千もおりません」
「扇谷上杉に援軍など来させて、これ以上戦を長引かせるわけにはゆかぬ。⋯⋯新九郎、そちは率いてきた兵を引き、一旦玉縄まで戻れ。上杉の軍を迎え撃て」
「はっ」
父の命を受け、氏綱は玉縄へ向かうこととなった。
夜明けを待って、氏綱の軍は玉縄を目指す。その日のうちに玉縄までたどり着いた。
いったん兵を休ませて、自分も具足を外す。朝興の動向を確かめようとした時だった。
「若殿」
氏綱を待っていたかのように、やってきたのは櫛間九郎景久という男だ。今回は玉縄城の留守を守ってもらった男なのだが、甲冑を着込み、手には籠手を嵌めている。
(暑くないのか?)
鎧帷子の襟元を手の甲で仰ぎながら、氏綱は景久を迎えた。
「お帰りなさいませ。三浦親子の首は取れましたか」
溌溂とした笑顔で、物騒なことを言ってくる。そもそも先触れで、上杉朝興の軍が三浦に援軍に向かっているから、一旦玉縄へ入る、と伝えていたはずなのだが。
「いや⋯⋯先に、朝興の援軍をどうにかしたくて戻って参った」
「ああ、そういえば。朝、そんな遣いが来てござったな。では、上杉朝興を討たれるのですな」
「⋯⋯」
とりあえず、状況を確認しないとならない。
直景、盛昌らも呼び、臨時の軍議となった。しかし、斥候がもたらした朝興の動向は氏綱の予想外のものだった。
「鎌倉街道を南下せず、藤沢に回っている……だと?」
今は片瀬川の手前に陣を張り、恐らく明日、全軍で渡河の予定なのだろうという。
真っすぐこちらへ向かってくると思ったのに、だいぶ大回りな道を選んだことになる。「城攻めを避けたか⋯⋯」
「でしょうな!」
氏綱の推測に間髪入れず合いの手を打ってから、景久は地図で海沿いの道を指し示す。
「迂回路にはなりますが、長谷、極楽寺と海沿いの道を行き、三浦半島に入るつもりでしょう」
「急がば回れということか。扇谷上杉軍にはこちらの動きが読めているのか?」
直景が不審そうに首を捻れば、氏綱は即座にそれを否定する。
「ばかな。我らはここまで一両日で引き返してきたのだぞ」
「少しでも早く援軍を向かわせられる道筋を選んだ結果なのでは。どれほどの兵力が残っているかわからぬ城の傍などわざわざ通る必要はございません」
景久の整理は簡潔で的確だ。だが。
「それは困る。我らが三崎より引き返してきた意味がなくなる」
どこかで朝興の軍を叩き、江戸まで押し返さねばならない。氏綱らはまた唸りながら絵図を見つめる。城から討って出て、朝興の軍の脇をつくつもりでいたのだが、計算が狂った。「若。私に兵を五百お預けくだされ。夜襲をしかけます」
「九郎殿」
櫛間九郎景久は元は父子揃って、今川氏親の家臣だった。かつ芙蓉の母方の従兄弟にあたる。つい、敬称をつけ呼んでは、景久に「おやめくだされ」と制されている。今も、景久は氏綱の抜けない癖に気がついたのか、口元に笑みを作る。
この際、呼び名はどうでもいい。いの一番に危険な任務に当たりたがるこの男を止めたかった。
「待たれよ。朝興は二千の兵を率いている。夜襲とは言え、五百では心もとない」
だが、氏綱の懸念を景久はおおらかな笑みで払拭する。
「けれどその五百は、ずっと玉縄の城に釘づけて、体力も気力も有り余っている者たちにございます。恐れながら先ほど城内に入った兵たちは、日中の行軍でお疲れでしょう」
「一番体力と気力が余っているのは、櫛間殿では」
盛昌が茶々を入れる。
「おっしゃる通り。城詰めは性に合いませぬ。今宵は玉縄の留守居だった兵を集め川を渡り、某が夜襲をかけ、敵を混乱させます」
朗々と景久は言う。困った男だ。しかし、景久の進言は理に適っている。氏綱としては任せざるを得ない。
「――わかった。では、九郎殿。城兵五百を率い、夜襲を仕掛けられよ。ただし、敵陣を乱したらすぐ退いてくだされ」
「逃げる敵は」
「追わなくてよい」
「⋯⋯何のための夜襲ですかな」
若干不服げに景久は氏綱に確かめる。
「朝興が夜襲で怖じ気づいて撤退すればそれで良し。しなければ、明朝、対岸でわしが叩く」
景久は顎に手を当て、絵図とにらみ合いをするように、しばらく押し黙っていた。
考えがまとまったのか、景久は「では」と、徐に口を開く。
「某は城に戻りませぬ」
「畳み掛けるのう」
景久の意図が明確で、氏綱は思わず笑ってしまう。
夜襲で撹乱した後、一旦兵を退かせる。しかし退却したと見せかけ、夜が明け、朝興の兵が渡河を始めたところで、背後からつくつもりであろう。
「万一、河口ではなく上流からの渡河に切り替えた際の備えにもなるかと存じます」
「いや、しかしそれではお手前の兵は⋯⋯」
景久の策は有用だが、兵の疲労を直景は心配し指摘する。
「敵の兵も恐らく今宵は眠れますまい。条件は同じにございます」
「兵が皆、櫛間殿のような無尽蔵の体力ではありませんぞ」
「左様ですか? はて、大道寺殿は夜通し戦はなされませぬか」
「某、夜戦は閨の中に限りとうございます」
「なさるではございませぬか」
盛昌の軽口に景久がおどけて応じ、場が軍議とは思えぬくだけたものになる。空気としては悪くない。
「九郎殿⋯⋯いや、九郎」
「はっ」
そして氏綱が話し出すと、景久はきっと表情を引き締める。この辺りの切り替えの早さも流石だった。
「片瀬川河口に野営する上杉軍を夜襲致せ。ただし、深追いは不要。一旦鵠沼辺りまで兵を退き、沙汰あるまで待て」
「承知」
では、と言うが早いが景久は立ち上がる。出陣の兵たちに号令を掛けると、夏の短夜に急かされるように、出陣していった。
結果、景久の策は功を奏した。わざわざ城を避け、敵との正面衝突を避けたつもりであったのに、ふいに闇の中襲われた上杉軍は、かなりの混乱を来したらしい。景久が城へ遣わした伝令の報告を氏綱は満足げに聞いた。
氏綱は未明に玉縄城を発ち、片瀬川の東側に陣を敷く。水平線の彼方に日輪が昇り始めると、対岸の様子が徐々に鮮明になる。
竹に雀。扇谷上杉の旗が海からの風に棚引いた。
朝興は真っ向からここを突破するつもりのようだ。
(そうはさせぬ)
昨夜、景久から遣わされた伝令の男に、意を含め景久の元へ戻す。
敵陣の法螺貝が鳴り、一斉に上杉軍がこちらめがけてくる。十分に上杉の軍を引きつけてから、氏綱は「かかれぇっ!」と号令を発した。
川を挟んでの対陣は圧倒的に渡河する側が不利だ。しかも、まだ川を渡りきらぬうちに、反対側から景久の軍が上杉軍の後方をつく。
朝興の軍は結局、片瀬川を渡り終えぬまま、撤退をせざるを得なくなった。
「お味方大勝利ですな」
遠山直景が氏綱に声を掛ける。
「そうだな」
景久の軍と合流したところで、勝ち鬨をあげた。だが、これで終わりではない。
最後の仕上げが残っている。
丸一日兵を休ませ、すぐにまた三崎に引き返した。三日後にはまた、宗瑞の本陣に戻る。蜻蛉返りの嫡男を労ってから、宗瑞は言い、陣幕の隅を指差した。
「そちに会いたいと言うものが来ておる」
伊勢家の兵ではない。甲冑姿の男は、氏綱と目が合うと、深々と礼をした。
年の頃は四十を越えたくらいか。
「横須賀家家臣川島吉隆と申します。これを」
吉隆は主、連秀からだという書を氏綱に手渡す。
補給船を止めること。川島という男を遣わすこと。そして、何卒清子の生命をお願い致すと綴られていた。読み終えた氏綱の前に川島は跪く。
「某の生命に代えて、清子姫をお救いいたしとうございます。どうぞお味方の陣にお加えくださいませ」
「うむ」
氏綱は短く頷く。
船は止まった。もう、新井城に兵糧は運び入れられない。
宗瑞は最後の降伏勧告の使者を送ったが、あっけなく蹴られて帰ってきた。
漸く、長い泥沼の戦いの終わりが見えてきていた。




