第62話:海の向こうの音色(ヒューマンドラマ)
上海の古玩市場で、春雨は一つのオルゴールに出会った。
錆びついた真鍮の外装。蓋を開けると、中から小さなバレリーナが姿を現す。ゼンマイを巻くと、かすかにメロディーが流れ出した。
「『ムーンライト・セレナーデ』ですね」
横から声が聞こえた。振り返ると、チャイナドレス姿の老婦人が立っていた。張夫人と名乗る彼女は、流暢な日本語で話し始めた。
「このオルゴール、私の姉のものでした」
1940年代、張夫人の姉は日本人将校と恋に落ちた。彼が姉にプレゼントしたのが、このオルゴールだった。
「戦争が激しくなり、彼は帰国を命じられました。『必ず戻ってくる』と約束して」
張夫人は遠くを見つめた。
「姉は毎晩このオルゴールを聴いていました。でも彼は、もう戻ってこなかった」
春雨は黙って聞いていた。
「文化大革命の時、西洋的なものは全て処分するように言われました。姉は……このオルゴールを市場に売らざるを得なかったの」
ゼンマイの音が止まった。
「その後、姉は上海交響楽団でバイオリニストになりました。『ムーンライト・セレナーデ』を演奏する時は、いつも微笑んでいたわ」
春雨はポケットから一枚の写真を取り出した。モノクロ写真には、若い日本人将校が写っている。祖父の遺品の中から見つけたものだ。写真の裏には、達筆な文字で「上海にて」と記されていた。
「これは……」
張夫人は写真を見て、手で口を覆った。
「私の祖父です。戦後、彼は家族に上海での日々を一切語りませんでした。ただ一度だけ、『人生最高の音楽を聴いたのは上海だった』と呟いていたそうです」
張夫人の目から、一筋の涙が流れた。
「姉は去年、亡くなりました。最期まで、バイオリンを弾いていましたよ」
春雨はオルゴールを手に取った。
「このオルゴール、買わせていただけますか?」
張夫人は静かに首を振った。
「買い取るのではなく、お返ししましょう。きっと、あなたのお祖父様もそれを望んでいたはず」
その夜、春雨は静かにゼンマイを巻いた。懐かしくも新しい音色が、上海の夜空に溶けていった。
数日後、春雨は上海を離れた。スーツケースの中で、オルゴールが静かに眠っていた。バレリーナは、まるで誰かを待っているかのように、少しだけ前を向いている。
このお話から「春雨」と「文化大革命」を取り出して次につなげます。




