第61話:茉莉花の調べ(ヒューマンドラマ)
祖母の遺品整理をしていた私の手が、突然止まった。段ボール箱の底から、古びた漆塗りの箱が出てきたのだ。蓋を開けると、中から壊れたオルゴールが姿を現した。
「これ、知ってるの?」
母に尋ねると、彼女は息を呑んだ。
「まさか、まだ残っていたなんて……」
母、綾香は静かにオルゴールを手に取った。それは中国製らしく、側面には「茉莉花」という文字が刻まれている。
「これ、おばあちゃんの宝物だったのよ」
母は懐かしそうに微笑んだ。
「私が子供の頃、おばあちゃんはよくこのオルゴールを見せてくれたわ。でも、絶対に開けちゃダメって言われてたの。壊れているから」
私は不思議に思った。
「なんで直さなかったの?」
「そうね……。実は、おばあちゃんが他界する少し前、このオルゴールの由来を話してくれたの」
母は深く息を吐いて、昔を思い出すように目を細めた。
「おばあちゃんが二十歳の頃、上海の高級レストランでピアニストとして働いていたのよ。そこで出会ったのが、おじいちゃん……じゃない人」
私は息を呑んだ。祖父は商社マンで、祖母とは見合い結婚だと聞いていた。
「その人は料理人で、おばあちゃんの演奏する『茉莉花』が大好きだったんですって。二人は密かに想い合うようになって……。でも、動乱の時代。その人は政治的な理由で逮捕されて、おばあちゃんは日本に強制送還されたの」
母は一瞬言葉を詰まらせた。
「最後に会った日、その人はこのオルゴールをおばあちゃんに渡したの。『茉莉花』を奏でるオルゴール。だけど、その日すでにゼンマイは壊れていて……」
「なぜ?」
「その人が言ったんですって。『音は鳴らなくていい。君の心の中で、永遠に奏でられているから』って」
私は黙ってオルゴールを見つめた。祖母は、この小さな箱の中に、若き日の想いを閉じ込めて生きてきたのだ。
「おばあちゃんは、おじいちゃんを大切に思っていたわ。でも、このオルゴールもずっと大切にしていた。人の心って、そういうものなのね」
母の瞳が潤んでいた。私は祖母の写真を見た。いつも厳格だった祖母の、若かりし日の微笑みが浮かんでくるようだった。
その夜、私は思い切って母に提案した。
「ねえ、このオルゴール、直してみない?」
母は驚いたように私を見た。
「私、時計修理の上田さんと付き合ってるの。オルゴールの修理もできるんだって」
母は暫く考え込んでいたが、やがてゆっくりと頷いた。
一ヶ月後、修理を終えたオルゴールが戻ってきた。母と私は息を潜めて、ゼンマイを巻いた。
清らかな『茉莉花』の調べが、静かな部屋に流れ出した。母の頬を、大粒の涙が伝った。
その日から、このオルゴールは母の宝物になった。時々母は、祖母の思い出を語りながら、この曲を私に聴かせてくれる。そして私は、人の心の中で奏でられる音楽の意味を、少しずつ理解するようになった。
このお話から「上海」と「オルゴール」を取り出して次につなげます。




