第47話:涙の理由(ヒューマンドラマ)
午後三時、オフィスビルの八階。私は締め切り間際の企画書と格闘していた。そんな時、廊下を駆けていく足音が聞こえ、女性の啜り泣く声が通り過ぎた。思わず顔を上げると、見知らぬスーツ姿の女性が女子トイレに飛び込むところだった。
「大丈夫かな……」
隣の席の後輩、篠崎が小声で呟く。確かにこの階は経理部なのに、彼女は見覚えのない顔だった。
仕事に戻ろうとした時、私のスマートフォンが震えた。母からのメッセージ。
「お父さんの手術、無事成功したわ!」
私は思わず声を上げそうになった。父は重度の心臓病で、今日、命がけの手術を受けていたのだ。
安堵の涙が込み上げる。私は立ち上がり、誰もいない廊下の端まで歩いた。深いため息をつきながら、窓の外を見る。外では桜が散り始めていた。
「すみません……」
突然、背後から声がした。振り返ると、先ほどのトイレに駆け込んだ女性が立っていた。まだ目元は赤く潤んでいる。
「私、経理の小松と申します。あの……ハンカチ、お持ちではありませんか?」
私は無言で自分のハンカチを差し出した。小松さんはそれを受け取り、軽く会釈した。
「実は今日、父の手術なんです」
彼女は思いがけない言葉を続けた。
「心臓の手術で、成功率は五割以下と言われて……でも、今連絡が来て、無事成功したって」
私は息を呑んだ。背筋に電流が走る感覚。
「もしかして、杏林大学病院ですか?」
「え? はい……どうして?」
小松さんが驚いた顔をする。私はスマートフォンを取り出し、母からのメッセージを見せた。
「私の父も、今日、同じ病院で同じ手術を受けていました」
沈黙が降りる。小松さんの目が、またたき始める。
「お父様は、手術室3番でしたか?」
「いいえ、4番です。でも……」
二人の間に不思議な空気が流れた。同じ日に、同じ病院で、同じ病気の手術を。しかも部屋は隣同士。
「実は……父が手術前に言っていたんです。隣の部屋の方と、病院の廊下で何度かお話したって」
小松さんの声が震える。
「その方も同じ手術を受けると聞いて、二人で『手術が終わったら、家族ぐるみで食事に行きましょう』って約束したんだそうです」
春の陽光が、廊下に差し込んでいた。私たちは言葉もなく、その光を見つめていた。
翌週の日曜日。桜の舞う街角のレストランで、二つの家族が顔を合わせた。メニューを見ながら、父たちは病院での話を笑顔で語り合う。私と小松さんも、あの日のことを思い出していた。
人生の糸は、思いもよらないところで結ばれるのかもしれない。あの日の涙は、きっと喜びが巡り会うための、小さなしるしだったのだ。
このお話から「経理の小松さん」を取り出して次につなげます。




