第46話:最後の清掃(ヒューマンドラマ)
長年勤めた会社のトイレ掃除が、今日で最後になる。定年退職を迎える御手洗清子は、いつものように早朝の社屋に足を踏み入れた。誰もいない廊下に響く足音が、どこか懐かしい。
「おはようございます」
声をかける相手もいないのに、習慣で口から言葉がこぼれる。手には使い込んだモップと黄色いバケツ。
清子は三十年間、この会社の清掃員として働いてきた。特に御手洗、そう、自分の名字と同じトイレの清掃には人一倍こだわりを持っていた。
「きれいなトイレは、心も清める」
それは亡き母の言葉だった。母もまた、清掃の仕事に誇りを持っていた人だった。
最上階の役員用トイレから順に、清子は丁寧に清掃していく。光沢のある鏡、ピカピカの床、香りの良い芳香剤……。すべてが完璧でなければならない。
五階のトイレで作業をしていた時、突然めまいに襲われた。
「あら……」
視界が歪み、体が急に重くなる。モップを握る手に力が入らない。
「ここで倒れるわけにはいかないわ」
清子は意識を保とうと必死だった。しかし、体は言うことを聞かない。膝から崩れ落ちる直前、不思議な光景が目の前に広がった。
走馬灯——。
だが、そこに映し出されたのは、清子自身の思い出ではなかった。
見知らぬ女性社員が泣きながらトイレに駆け込む姿。新入社員が緊張の面持ちで身だしなみを整える様子。営業部長が大きな商談の前に深いため息をつく瞬間。プレゼンの練習をする若手社員……。
すべては、清子が三十年間見守ってきた、このトイレで起きた出来事だった。
「そうか……私は、みんなの人生の節目に、こうして寄り添っていたのね」
意識が遠のく中、清子は穏やかな微笑みを浮かべた。
翌朝、清子の後任として初出勤した山村美咲は、五階のトイレで倒れている清子を発見した。救急車が到着した時、清子の表情は実に穏やかだった。
後日、山村が驚いたことがある。清子の机から一冊のノートが見つかったのだ。そこには三十年分の出来事が克明に記されていた。社員たちの喜びや悲しみ、決意や迷い……。最後のページには、こう書かれていた。
「御手洗で見守った千の人生。それが私の誇りです」
このお話から「見知らぬ女性社員が泣きながらトイレに駆け込む姿」を取り出して次につなげます。




