第45話:記憶の音色(ヒューマンドラマ)
このお話から「御手洗」と「走馬灯」を取り出して次につなげます。
真夏の陽射しが刺すように強い。私は古びた精神病院の前に立っていた。ここで十年前、私は母を見捨てた。
「お母さん、ごめんなさい」
かすかな風に乗って、白い建物からピアノの音が漏れてくる。母が好きだったショパンのノクターン。懐かしい音色に導かれるように、私は重い扉を開けた。
受付で看護師に尋ねると、彼女は不思議そうな顔をした。
「御手洗さまですか? でも……」
「十年前にここに入院していた母のことで来ました」
「少々お待ちください」
看護師は古い記録を確認し始めた。待合室に置かれた観葉植物の葉が、エアコンの風に揺れている。
「申し訳ありません。御手洗様の記録がございません」
「えっ? でも確かにここです。母は統合失調症で……」
その時、二階からピアノの音が響いてきた。間違いない、あの独特の弾き方。母は右手の小指が少し曲がっていて、そのせいで特徴的な音になるのだ。
「すみません、今ピアノを弾いているのは……?」
「ああ、御手洗先生のことですね。うちの音楽療法士です」
私は言葉を失った。
「でも、母は患者のはずです」
「いいえ、御手洗美咲先生は開院以来の職員です。患者さんたちからとても慕われていますよ」
看護師は不審そうに私を見た。
「申し訳ありませんが、どちらさまでしょうか?」
私は自分の運転免許証を取り出した。そこには確かに「御手洗陽子」と書かれている。しかし看護師の表情が凍る。
「これは……十年前に亡くなった御手洗先生のお嬢様のお名前です」
ピアノの音が止んだ。階段を降りてくる足音。振り返ると、そこには確かに母の姿があった。
「陽子……私の大切な娘」
母は微笑んでいた。その瞬間、記憶が走馬灯のように蘇る。交通事故。病院。母の悲しみに満ちた顔。そして私の魂が成仏できずに十年もの間、この場所をさまよっていたこと。
「ずっと、あなたを待っていたのよ」
母の手が差し伸べられる。温かい光に包まれながら、私はようやく安らかな眠りにつくことができた。




