第48話:経理の小松さん(ヒューマンドラマ)
瀬良部課長はため息をつきながら、経理部の小松遥香のデスクを見つめていた。小松は今日も残業をしていた。夜の九時を回ったオフィスには、彼女の机から漏れる明かりだけが、孤独に光を放っていた。
「小松さん、まだ帰らないのかい?」
「あ、課長……。あと少しだけ資料の確認をさせてください」
小松は優しく微笑んだ。彼女の机の上には、きちんと整理された書類の山が並んでいた。どの書類も端が完璧に揃えられ、付箋は全て同じ角度で貼られている。
瀬良部は小松の几帳面さを評価していた。入社三年目にして、すでに経理部の要となっている。しかし、最近の彼女は少し様子がおかしい。より几帳面に、より完璧に、そしてより遅くまで残って仕事をするようになっていた。
「君、最近よく残業してるね。何か気になることでもあるのかい?」
小松は一瞬だけ手を止め、わずかに震える声で答えた。
「大丈夫です。ただ、確認を怠りたくなくて……」
瀬良部は小松の机の引き出しに目をやった。そこには新品のペン立てが並び、使い古されたものは一つもない。消しゴムの粉は完全に払われ、一片も残っていない。この潔癖さは、以前の彼女にはなかったものだ。
「実は……」
小松は震える手で一枚の書類を取り出した。
「先月の会計報告で、私、間違いを見つけてしまったんです」
「ああ、あの一円の誤差か。すでに修正済みだろう?」
「はい。でも、それが怖いんです。一円の誤差が、いつか大きな損失につながるかもしれない。私、そんな重大なミスを犯してしまって……」
瀬良部は小松の机の上に置かれた写真立てに目を向けた。そこには彼女と老夫婦の笑顔が収められている。
「ご両親?」
「いいえ。祖父母です。二人とも元銀行員で、私の就職を本当に喜んでくれて……。でも祖父が、認知症で……」
小松の声が詰まった。
「祖父が担当していた口座で、計算間違いがあったそうです。それが原因で、お客様に多大な迷惑をかけてしまって。祖父は、それを悔やんで……」
瀬良部は小松の肩に優しく手を置いた。
「小松さん、完璧を求めすぎるのは、時として最大の不完全さになることもあるんだよ」
そう言って、瀬良部は自分の机から一枚の紙を取り出した。それは三十年前の新聞記事のコピーだった。
『銀行員の計算ミスが新システム開発のきっかけに』
記事には、若き銀行員の些細な計算ミスが、より正確な会計システムの開発につながったという内容が書かれていた。そして、その銀行員の名前は——小松遥史。小松の祖父だった。
「祖父さんのミスは、むしろ金融システムの進歩につながったんだ。完璧を目指すことは素晴らしい。でも、時には不完全さこそが、新しい価値を生むこともある」
小松の目に涙が浮かんだ。彼女は知らなかった。祖父の「失敗」が、実は多くの人々を助けることになったという事実を。
「明日からは、もう少し早く帰ろうか。完璧な仕事より、成長できる仕事の方が大切だから」
瀬良部の言葉に、小松は久しぶりに心から笑顔を見せた。その夜、彼女は九時半には帰宅の途についていた。
このお話から「時には不完全さこそが、新しい価値を生むこともある」を取り出して次につなげます。




