第24話:月下の花(ヒューマンドラマ)
深夜三時、病院の廊下に蛍光灯が青白い光を落としていた。久保花菜は、手術室の前のベンチに座り、湯気の立たなくなったコーヒーを握りしめていた。三十二歳、芸大で日本画を教える彼女は、四時間前に緊急搬送されてきた母のことを考えていた。
「もう、こんな状況なのに……」
花菜は溜め息をつきながら、スマートフォンの画面を見つめる。そこには母、久保弥生との最後のメッセージが残っていた。
『個展、見に行けなくてごめんなさい。風邪で寝込んでしまって』
三日前の深夜に送られてきた謝罪の言葉。返信は「気にしないで」の六文字だけ。今思えば、あの「風邪」は重篤な肺炎の始まりだった。
「先生」
ふと、かすれた声が聞こえた。振り向くと、教え子の望月さくらが立っていた。
「望月さん……なぜ?」
「個展の片付けが終わってから、様子を見に来ました」
さくらは花菜の隣に座り、新しいコーヒーを差し出した。
「先生の作品、素晴らしかったです。特に、『月下の舞』が」
さくらは病院のロビーに飾られた生け花を見つめながら言った。花菜の最新作『月下の舞』は、月光の下で踊る着物姿の女性を描いた作品だった。
「ありがとう。でも、あれは失敗作よ」
花菜は冷めたコーヒーを捨て、新しいカップを受け取った。
「どうしてですか? あんなに美しい作品なのに」
「だって、あの作品のモデルは母なの。でも、私は母の本当の姿を描けていない」
花菜は天井を見上げた。
「母は、日本舞踊の家元だった。でも、私が絵の道を選んだ時、誰よりも応援してくれた。家元の跡取りよりも、私の夢を優先してくれたの」
さくらは黙って聞いていた。
「その代わり、私の作品の中でだけでも、母の舞を残したいと思った。でも、私には母の凛とした美しさが描ききれなかった」
その時、手術室のランプが消えた。扉が開き、医師が出てきた。
「ご家族の方ですか? 手術は成功しました」
花菜は深く息を吐いた。そして、ふと気づいた。病院のロビーに飾られた生け花が、朝の光を受けて影を作っている。その姿は、まるで月光の下で舞う人のようだった。
「先生?」
「分かったわ」
花菜は立ち上がった。
「私、もう一度描き直すわ。今度は、母の本当の姿を」
「でも、個展は……」
「次は、母に見てもらうの。今度こそ、私の目に映った最高の舞姫を」
朝日が昇り、病室の窓から差し込んでくる。母の寝顔は穏やかで、まるで舞台の後の安らぎに包まれているようだった。
このお話から「日本舞踊」を取り出して次につなげます。




