第23話:時計の針のように(ヒューマンドラマ)
真夜中の十二時。銀色の月が窓から覗いていた。九十二歳の春野千鶴子は、また目が覚めた。枕元の古い目覚まし時計が、かちかちと無機質な音を刻んでいる。
「お母さん、まだ起きているの?」
娘の音羽が、また心配そうに顔を覗かせた。六十五歳になる娘の髪には、もう白いものが目立つ。
「あら、音羽。丁度良かったわ。和也の晩ご飯の支度しないと」
音羽は息を呑む。和也は千鶴子の夫で、十五年前に他界している。
「お母さん、もう真夜中よ。それに、お父さんは……」
「まあ、何言ってるの。和也はもうすぐ帰ってくるのよ」
千鶴子は立ち上がろうとする。音羽は静かに母の手を取った。
「お母さん、今日はもう遅いわ。お父さんも、きっと明日を楽しみにしているはず」
千鶴子は不思議そうな顔をした。そして、ふと目覚まし時計に目をやる。それは結婚祝いに和也から贈られた品だった。長針と短針が、互いを追いかけるように刻む時を、和也と共に四十年以上見つめてきた。
「そうね。もう遅いものね」
千鶴子はベッドに腰を下ろした。
「でも音羽、不思議なのよ。私、和也の顔が思い出せないの」
その言葉に、音羽の目に涙が浮かぶ。
「私も最近、記憶が曖昧で。和也とどんな暮らしをしていたのか、時々分からなくなるの」
千鶴子は窓の外を見つめた。
「でも不思議ね。和也の温もりだけは、まだ覚えているの。彼が私の手を取った時の、その感触が」
音羽は母の横に座り、その手を優しく握った。
「お母さんの手って、昔からこんなに温かいのね」
千鶴子は微笑んだ。
「そうそう、和也もいつもそう言ってたわ」
時計の針は、ゆっくりと時を刻み続ける。千鶴子は目を閉じ、和也の温もりを思い出していた。それは確かな記憶として、今も彼女の中で生き続けている。
「音羽」
「はい?」
「私ね、和也に会いたいの。でも、それは寂しいことじゃないの。だって、和也はいつも私の中にいるから」
音羽は黙って頷いた。月の光が二人を優しく包み込む。時計の針は、今日という日を終えようとしていた。
このお話から「母と娘の関係」を取り出して次につなげます。




