第23話:木霊の囁き(ヒューマンドラマ)
古びた工房の空気は、木屑の香りと漆の匂いで満ちていた。匠田蒼生は、手元の一脚の椅子を見つめながら、微かに首を傾げた。七十二年の人生で初めて、完成した作品に違和感を覚えていた。
「おかしいんですよね、この椅子」
弟子の河村晄に向かって呟く。二十四歳の青年は、師匠の言葉に首を傾げた。
「どこがですか? 匠田さんの作品としては珍しく、モダンで斬新な デザインだと思います」
蒼生は黙って椅子の背もたれに手を這わせた。なめらかな曲線を描く白木の表面は、まるで絹のように艶やかだった。
「確かにデザインは良いんだ。でも……何かが、違う」
工房の隅で、見習いの藤堂麻衣が黙々と木を削っていた。十九歳の彼女は着任したばかりだが、異常なまでの集中力で知られていた。
蒼生は立ち上がり、窓際に置かれた古い鏡台を見つめた。四十年前、亡き妻のために作った最初の作品だ。その横には、息子の純一郎のために作った学習机が置かれている。純一郎は今、アメリカで家具デザイナーとして成功していた。
「ねえ、河村君。私の作品には、いつも何かが宿ると言われてきた。使う人の心に寄り添うような、そんな温もりがね」
河村は頷いた。匠田蒼生の作品は、単なる家具以上の存在だった。使う人の人生に溶け込み、時には励まし、時には慰める。そんな不思議な力を持っていた。
「でも、この椅子には、その温もりが感じられないんです」
その時、工房の扉が開いた。
「お父さん」
純一郎が立っていた。十年ぶりの帰国だった。
「純一郎!? 純一郎じゃないk!」
蒼生は息子を抱きしめた。純一郎の目には涙が浮かんでいた。
「お父さん、認知症の初期症状が出ているって聞いたんです。麻衣から」
蒼生は凍りついた。藤堂麻衣——純一郎の婚約者であり、医師でもあった彼女を見つめる。彼女は木工を学ぶ見習いではなく、蒼生の様子を見守る専門家だったのだ。
蒼生は再び椅子を見つめた。そして、ようやく理解した。この椅子には確かに温もりが欠けていた。なぜなら、これは彼が作った椅子ではなかったから。河村が作り、自分が作ったと思い込んでいただけなのだ。
「私の腕が、衰えてきたんじゃないかと思っていたんだ……」
純一郎は父の肩に手を置いた。
「お父さんの作品は、いつまでも私たちの心の中で生き続けます。これからは、僕たちが
お父さんを支える番です」
工房に差し込む夕日が、古い鏡台と学習机を優しく照らしていた。その温もりは、まるで過ぎ去った日々の記憶のように、確かにそこにあった。
このお話から「認知症」を取り出して次につなげます。




