第22話:減衰係数(ヒューマンドラマ)
大気透過率の計算結果が、また変わった。私は疲れた目をこすり、モニターを見つめ直す。
「河原さん、気圧の変動データが出ました」
後輩の篠田が、プリントアウトを手渡してくる。彼女の目の下にも、クマができている。
「ありがとう。これで、やっと……」
言葉を飲み込む。「やっと父の夢が」と言いかけて、踏みとどまった。個人的な感情を、ここに持ち込むわけにはいかない。
国際宇宙ステーションとの可視光通信実験まで、残り六時間。私たちのチームに許された通信時間は、たった百十二秒。その間に、十年前の失敗したタンパク質結晶化実験のデータを、すべて送信しなければならない。
「篠田さん、大気層通過時の減衰係数、もう一度確認して」
「はい。今の予報だと、高度二十キロまでの水蒸気量が……」
ふと、父の最期の言葉を思い出す。
「光は、必ず届く。たとえ、曲がっても」
当時の私には、その意味が分からなかった。父は既に記憶を失いかけていて、まともな会話もできない状態だった。でも今なら分かる。
光は大気中で屈折する。でも、その屈折率は計算できる。むしろ、人の心の方が、予測不能な屈折をする。
「河原主任!」
管制室から叫び声が響く。
「ISSから連絡が。軌道修正が必要になったそうです。通過予定時刻が三十秒早まります」
背筋が凍る。今までの計算が、すべて狂う。
その時、篠田が駆け寄ってきた。
「主任、これを見てください」
彼女が差し出したのは、父の古い研究ノート。私が何度も読んだページが開かれている。
そこには、驚くべき計算式が書かれていた。軌道修正に備えた、予備の通信プロトコル。父は、この事態を予測していたのだ。
「まさか……」
喉が詰まる。涙が出そうになるのを、必死で押さえる。
「篠田さん、全地点に連絡して。予備プロトコルのファイルを開いて」
管制室が再び騒がしくなる。全国十二箇所の地上局が、新しいパラメータで調整を始める。当初の計画よりも地点数は減ったが、その分データの冗長性は増す。
モニターに、新しい軌道が表示される。
私は深く息を吸った。そして、父の写真に目を向けた。机の引き出しに、そっとしまってある。取り出すことはしない。今の私に必要なのは、科学者としての冷静さだ。
「残り十分」
篠田の声が遠く聞こえる。
「主任、大丈夫ですか?」
「ええ」
私は頷いた。でも、手は震えている。
「篠田さん」
「はい?」
「あなたのお父さんは、何をしている人?」
唐突な質問に、彼女は戸惑った様子を見せる。
「えっと、家具職人です。どうして……」
「そう。木を削るのも、光を削るのも、同じだと思わない? 細心の注意と、大胆な決断と」
篠田は、じっと私の目を見つめた。
「主任のお父様も、そうだったんですね」
私は黙ってうなずいた。
「開始二分前!」
管制室からの声で、私たちは慌てて持ち場に戻る。
レーザー通信装置が、静かに上空を指している。その先に、まだ見えない光の軌跡。
父が見つけられなかった答えは、この光の中にある。
「主任」
篠田が、そっと私の肩に手を置く。
「必ず、届きますよ」
私は、もう一度深く息を吸った。
「発信準備、始めて」
夜空に、新しい星が灯りはじめる。
このお話から「家具職人」を取り出して次につなげます。




