第21話:視度調整(ヒューマンドラマ)
望遠鏡の接眼レンズが曇っていた。私は息を吹きかけ、そっとハンカチで拭う。少し錆びついたネジを回すと、かすかな軋みが指先に伝わる。
「お母さん、これ、どうやって見るの?」
「そうねえ……」
娘の問いに、私は少し考える。二十三年前、誰かが私に教えてくれた言葉を、思い出そうとする。でも、その声は遠い。
「まず、この輪を回して……」
古い望遠鏡を見つけたのは、実家の納戸を片付けていた時だった。父が亡くなって、もう三年。母も施設に移って、家を処分することになった。
埃を被った段ボールの中から、それは現れた。高校の天文部で使っていた小さな望遠鏡。でも、不思議なことに、レンズは美しく磨かれていた。
「ねえ、お母さん。この人、誰?」
娘が拾い上げたのは、天文部の集合写真。後ろの方に、私が写っている。そして、その隣に……。
「先輩よ」
喉が詰まる。
「天文のことを、いろいろ教えてくれた人」
記憶が、突然の雨のように降り注ぐ。
真夏の放課後、誰もいない天文台。私は望遠鏡の使い方が分からず、途方に暮れていた。
「ここのネジを、こうして……」
後ろから、静かな声がした。白衣を着た先輩が、優しく望遠鏡を覗きこんでいる。
「視度調整って言うんだ。君の目に合わせて、焦点を変えていくの」
その言葉に、私は息を呑んだ。なぜって、先輩の横顔が、夕陽に透かされて、まるで宝石のように輝いていたから。
それから私は、毎日のように天文台に通った。満月の夜も、新月の夜も。先輩は決まってそこにいて、星の話をしてくれた。私は、その声を聴くのが好きだった。
卒業の日、先輩は私に言った。
「京都大学に行くことになったよ」
その時、私は初めて気付いた。先輩の目が、いつも遠くを見ていたことに。
それから二十三年。私は結婚し、娘が生まれ、そして……。
「お母さん?」
娘の声に、現実に引き戻される。
「ごめんね。ボーッとしてた」
私は望遠鏡を、ゆっくりとベランダに設置する。夕暮れが近づいている。
「あ、お母さん見て! 流れ星!」
娘が空を指差す。私も見上げる。
確かに、何かが光を引いて消えていく。でも、それは流れ星じゃない。
「あれはISS……国際宇宙ステーションよ」
思わず口をついて出た言葉に、自分で驚く。
「すごーい! お母さん、詳しいんだね」
娘は目を輝かせる。その横顔が、夕陽に透かされて……。
私は、そっと目を閉じる。
視度調整。それは、相手の目に合わせて焦点を変えていくこと。でも、時には、自分の心の焦点を変えることかもしれない。
今宵も、木星が昇る。
このお話から「国際宇宙ステーション」を取り出して次につなげます。




