第17話:夜明けの道しるべ(ヒューマンドラマ)
駅前の時計台が、朝四時五十分を指している。真島洋一は、いつものように西口広場のベンチに腰を下ろした。まだ暗い空に、うっすらと明るさが混ざり始めている。
古いカメラをバッグから取り出し、レンズの汚れを拭う。デジタルカメラが主流の今でも、洋一は昔ながらのフィルムカメラを手放せないでいた。それは、写真館を営んでいた父から受け継いだものだ。
ゴミ収集車が、静かな町に低い音を響かせている。早朝の町を撮り続けて、もう十五年。変わっていくものと、変わらないものが、少しずつ見えてきた気がする。
五時になると、市場に向かう軽トラックが行き交い始める。八百屋の山下さんのトラックには、今日も孫娘が同乗している。小学生の時から祖父の手伝いを続けているその子も、今では高校生だ。
「よお、カメラおじさん」
山下さんが、いつものように手を振る。シャッターを切る音が、澄んだ空気の中に吸い込まれていく。
洋一がこの時間に写真を撮り始めたのは、定年後のことだった。それまで勤めていた印刷会社を退職し、何をするでもなく朝を迎える日々。そんなある日、父の形見のカメラを手に取った。
最初は、ただ気晴らしのつもりだった。しかし、ファインダー越しに見える風景は、昼間とは違う表情を見せる。人々の営みが、静かに、しかし確かに息づいていた。
「またあんたか」
交番の田村巡査が、今朝も声をかけてくる。彼は妻が亡くなってから夜勤を志願したと聞いた。早朝の町を見守ることが、自分の役目だと感じているらしい。
「今朝は冷えますね」
「ああ。でも梅の花は咲き始めてるよ」
田村巡査が指差した先には、確かに小さな白い花が見える。公園の片隅で、まだ固い蕾をいくつも付けている。
シャッターを切る。来月、この梅の木の下で家族写真を撮る約束がある。商店街の佐々木さん一家だ。毎年この時期に、三世代揃って撮影している。
五時十五分。パン屋の灯りが点き、甘い匂いが漂い始める。向かいの定食屋からは、出汁の香りが流れてくる。町が、少しずつ目を覚ましていく。
ベンチに座り直した時、見慣れない人影が目に入った。
小柄な老婦人が、バス停の時刻表を見つめている。迷っているような様子だ。洋一は、そっと近づいた。
「どちらかお探しですか?」
「あ、はい……」
老婦人は、おずおずと答えた。
「病院に行きたいんです。でも、こんな時間にバスが来るのかしら」
「ああ、まだ始発までは時間がありますね」
洋一は、自分の腕時計を確認する。
「差し支えなければ、タクシーを呼びましょうか?」
「いえ、そんな……」
老婦人の表情が曇る。財布の心配をしているのだろうか。
「実はね」
老婦人は、小さな声で話し始めた。
「主人が入院していて。今朝、容態が急変したって連絡があったの。でも、まだ動けるバスもなくて……」
洋一は、田村巡査の方を見た。巡査も既に気づいていたようで、こちらに向かってくる。
「おばあちゃん、パトカーで送りましょうか」
巡査の声は、優しかった。
「で、でも、お仕事の邪魔では……」
「いいえ、これも仕事です」
老婦人を送り出した後、洋一は再びカメラを構えた。東の空が、うっすらと明るくなってきている。
やがて市場からトラックが戻ってくる。山下さんの孫娘が、後ろの荷台から野菜を降ろし始める。
「今日も撮れました?」
少女が声をかけてきた。
「ああ、いい写真が撮れたよ」
洋一は微笑んだ。暗闇の中で、人々は確かに繋がっている。それを毎朝見守れることが、今の自分の幸せなのかもしれない。
六時を回ると、通勤の人々が行き交い始める。夜が明けていく。今日も町は、新しい一日を迎えようとしている。
洋一は静かにカメラをしまった。また明日、朝五時。いつもの場所で、町の目覚めを見守ろう。それは誰にも言わない、でも誰かのために守り続けている、小さな約束。
このお話から「梅の木」を取り出して次につなげます。




