第16話:朝五時の約束(人情グルメもの)
明け方の空気が、厨房に染み込んでくる。古びた換気扇が、いつものように小さな音を立てている。店主の康介は、もやしの根を取りながら、今日も同じことを考えていた。
「もう四十年か……」
自分の手の皺を見つめる。包丁で刻まれた無数の傷跡。火傷の痕。これらは全て、この店が刻んだ時間の証だった。
古いラジオから、天気予報が流れている。今日も晴れ。湿度は平年より少し高い。康介は、スープの配合を微妙に調整することを頭に入れた。
「おはようございます」
五時十五分。アルバイトの美咲が来る。彼女は短大生で、一年前からここで働いている。
「ああ、おはよう。今日は野菜の仕込みからな」
二人は黙々と作業を始めた。もやしの根取り、キャベツの千切り、長ネギの斜め切り。美咲の手さばきは、最近少しずつ良くなってきている。
「店主さん」
美咲が、手を止めることなく話しかけてきた。
「どうやったら、いつも同じ味が出せるんですか?」
康介は包丁を置いた。それは、彼自身が若い頃から問い続けてきた質問でもあった。
「味は、決して同じにはならない」
康介はゆっくりと答えた。
「野菜は毎日違う。気温も、湿度も違う。水も、火力も、微妙に変化している。同じものなど、この世には存在しない」
美咲は困惑したように首を傾げた。
「でも、お客様はいつも『変わらない味』って」
「そう。それは、私たちが毎日、変化と向き合っているからだ」
康介は、スープの仕込みを始めた。
開店まであと一時間。朝の静けさの中で、スープが静かに煮立っていく。康介は、昔を思い出していた。
この店を継いだのは二十五歳の時。父が倒れて、急いで実家に戻ってきた。それまでは、東京のホテルで板前として腕を磨いていた。フランス料理やイタリア料理も学んでいた。
しかし、父の残した食堂は、そんな技術とは無縁の場所だった。定食と中華そば。値段は安く、客層は地元の労働者が中心。父は、その中華そばに人生を賭けていた。
「お前は、まだ分かっていない」
病床の父は、こう言った。
「同じ味を守ることは、易しいようで最も難しい。それは、時間との戦いなんだ」
その意味を、康介が理解するまでに十年の歳月を要した。
六時三十分。仕込みが終わり、スープの最終調整に入る。康介は、れんげで一口すすった。
(今日は少し塩味を抑えめにしないと)
湿度が高い日は、塩味を感じやすい。それを計算に入れながら、味を整えていく。
七時。開店の時間だ。最初の客は、いつもの土建屋の親方。三十年以上、毎朝同じ時間に来店する。
「いつもと同じで」
親方は、カウンターに座りながら言った。その後ろには、若い職人たちが続く。彼らの作業着は、まだ垢もつかず、新しい。
康介は黙々と麺を茹で、スープを注ぎ、具を盛る。その手順は、もう体に染み付いている。
「あいよ」
親方の前に中華そばを置く。親方は、いつものように最初にスープを一口。そして、目を細める。
「うん、今日も変わらんな」
その言葉に、康介は小さく頷いた。
店内には、朝の温かな光が差し込んでくる。美咲は水を運び、テーブルを拭く。換気扇は相変わらずの音を立て、ラジオからは交通情報が流れている。
九時を過ぎた頃、朝の混雑が落ち着いた。美咲が、不思議そうな顔で康介に近づいてきた。
「店主さん、さっきのお客様、毎日『変わらない』って言ってましたけど」
「ああ」
「でも、私、今日のスープ、いつもと違う気がします。塩味が……」
「よく気がついたな」
康介は微笑んだ。
「今日は湿度が高いから、塩味を抑えめにしている。でも、お客さんの舌に届く味は、いつもと同じなんだ」
美咲は、まだ半信半疑のようだった。
「つまり、『変わらない味』を作るために、私たちは毎日味を変えているってことだ」
康介は続けた。
「これが、父から教わった『時間との戦い』の意味だった」
美咲は、深く考え込むように沈黙した。その表情は、かつての自分に似ている、と康介は思った。
外では、街が目覚めていく音が聞こえ始めていた。今日も変わらない一日が、ゆっくりと流れていく。しかし、その「変わらない」を守るために、康介は今日も微妙な調整を重ねていくのだ。
それは、まるで人生そのものを映し出しているようでもあった。
このお話から「朝五時の約束」を取り出して次につなげます。




