第14話:小さな光の重さ(ヒューマンドラマ)
待合室のやや硬めのソファに腰掛け、麻子は診察を待っていた。つい先ほど、陽性の二本線を確認したばかりだ。おそらく4週目だろうと、インターネットの情報から推測していた。
その事実は、まだ現実味を帯びていなかった。
「谷口麻子さん」
看護師の呼び声に、麻子は小さく息を吸って立ち上がる。
「まだ実感が湧かないんです」
診察室で、麻子は正直に告げた。
「そうですね。でも大丈夫ですよ」
産婦人科医の永井先生は、温かい笑顔を向ける。50代半ばくらいだろうか、その笑顔には経験に裏打ちされた安心感があった。
帰り道、麻子は地下鉄の中で母親に電話をした。
「お母さん」
「どうしたの? こんな時間に」
「うん、ちょっとね」
麻子は一瞬言葉を詰まらせた。
「妊娠したの」
受話器の向こうで、母親の呼吸が止まる音が聞こえた気がした。
「……そう」
一言目は意外にも冷静だった。しかし、その後に続く言葉は、まるで堰を切ったように溢れ出てきた。
「良かった! いつ分かったの? お父さんにも教えていい? つわりは大丈夫? 実は私ね、あなたの時はひどかったのよ。でも男の子だったらそうでもないって聞くわ。あ、でもまだ性別は分からないのよね?」
母親の声が弾んでいく。麻子は目を閉じた。子供の頃、この声で起こされた朝のことを思い出していた。
その夜、夫の智也に報告すると、彼は意外な反応を見せた。
「怖くないの?」
ソファに座りながら、智也が静かに尋ねた。麻子は黙って夫を見つめる。
「だって、これからずっと誰かの母親なんだよ。子供の人生に、永遠に責任を持つってことでしょ?」
その言葉は、麻子の中の何かを揺さぶった。そうだ。母になるということは、永遠に誰かの母である、ということ。
実感のなさは、少しずつ不安に変わっていった。
数日後、麻子は小学校時代の親友、沙織に会った。沙織はすでに3歳の女の子の母親だった。
「最初は絶対うまくいかないって思ってたよ」
カフェで向かい合いながら、沙織が言う。
「でも、必死になってるうちに、少しずつ見えてくるものがあるの」
「見えてくるもの?」
「うん。例えば、娘が泣き止まない時、私は必ず『大丈夫、ママがいるよ』って言うの。それは、きっと私の母さんが私にしてくれたことなんだって、最近気づいたんだ」
麻子は、自分の母親の声を思い出していた。確かに、同じ言葉を聞いた記憶がある。
週末、実家に顔を出すと、母は古いアルバムを持ち出してきた。
「これ、あなたが生まれた日の写真よ」
病院のベッドで、若かりし日の母が赤ん坊を抱いている。その表情には、喜びと不安が混在していた。
「私も、全然分かってなかったのよ」
母が静かに言う。
「母になるって、一朝一夕にはいかないの。毎日少しずつ、その子と一緒に母親になっていくのね」
麻子は母の横顔を見つめた。初めて気づく皺がそこにはあった。
夜、自宅に戻った麻子は、お腹に手を当てた。まだ何も感じない。でも、確かにそこにいる小さな命。
「大丈夫」
麻子は小さく呟いた。
「ママがいるよ」
その言葉は、まだぎこちない。でも、これから何度も何度も、その言葉を紡いでいくのだろう。母から娘へ、そしてまた次の世代へと。
翌朝、麻子は母に電話をした。
「お母さん、ありがとう」
「どうしたの、急に」
「なんとなく」
麻子は微笑んだ。電話の向こうで、母も笑っているのが分かった。二人の間に流れる静かな了解。それは、きっとこれから自分が紡いでいく物語の始まりなのかもしれない。
お腹の中で、小さな光が、確かな重さを持ち始めていた。
このお話から「共に生きることでわかること」を取り出して次につなげます。




