捕らわれの姫
亥の刻=午後九時~午後十一時頃
ガラガラ……
月が昇って、星が輝く※亥の刻。小さな川を挟んだ砂利道に、いくつもの牛車が静かに進んでいる。
どの牛車も普通……有り体に言えば、質素だ。
牛車ひとつひとつに、牛の角を額に生やした者たちが四人。四方を囲うように四人ずつ、車について歩いていた。
けれど彼らは何も語ることはない。終始無言で、無表情だった。
けれどただ一台だけ、先頭を行く牛車は一際豪華な作りになっている。先頭の窓には布が敷かれ、朱色の美しい外装をしていた。
そんな豪華な牛車の中では、全 紫釉が眠っている。銀髪につけていたはずの櫛はなく、纏めていた部分はほどけてしまっていた。
「…………」
人ひとりが横になっても問題ない程度に広い車内で、静かに横たわっている。
美しく、儚げな見目を失うことのない顔には、少しばかりの疲労という汗が流れていた。
意識を失っているのか、車が大きく揺れようとも目を覚ますことはない。
「……は、はう……え……」
目尻に涙を溜めながら、彼は夢を見ていた。それはとても懐かしくて、寂しい夢だ。
そこには何もない白だけの空間だけが、ポツンとある。
中心には全 紫釉と同じ銀髪を靡かせた美しい女性が、静かに立っていた。大きな瞳は黒真珠のよう。地面につくほどの銀髪を揺らし、優しい笑みを浮かべている。
『僕たちの愛しい子。お願いを聞いてくれる?』
その人は、今は亡き、全 紫釉の母だった。もう、顔も思い出せない。それでも優しくて、とても暖かな……お日様のように明るい笑顔をしていた。
『きっとあの人は、僕がいなくなったら悲しんでしまう。だからお願い。阿釉は、ずっと一緒にいてあげて。寂しがりやで、焼きもち焼きのあの人と──』
ざあー……
瞬間、女性は消えてしまう。柔らかく、灯籠のように淡い光を放ちながら。全 紫釉の前から、笑顔を見せながら消えていった──
□ □ □ ■ ■ ■
行方不明になった全 紫釉を探していた爛 梓豪は、途方に暮れていた。
町の隅にある古びた家屋の外壁に背をつけ、ズルズルと足から崩れていく。頭をくしゃくしゃになるまで掻き、ボーと空を眺めた。
「……月、きれいだなあ」
疲れ果てた彼は、現実逃避のように月を眺める。けれどすぐに立ち上がり、両頬を強くたたいた。
「……よし! 挫けるのはやめだ!」
──ここまで探していないってなると、この町から出た可能性はある。ただそうなると、俺だけの力じゃ無理だ。お袋に協力してもらうか。
普段のおちゃらけた様子など、どこにもなかった。あるのは全 紫釉を絶対に探すという、決意だけである。
──阿釉に好きだって伝えたんだ。ようやく、ようやく俺の本当の気持ちが言えた。その矢先にこれだ! ぜってーに許さねー!
全 紫釉の手を離してしまったとき、愛しい人を拐かす者の姿を目撃した。それは牛の角を持った大男で、彼自身も知っている存在でもある。
──間違いない。あの男、阿藤の父親だ。昔に数回会ったことあったけど……
だいぶ、雰囲気が変わっていた。
それを刻みながら、彼は急いで城へと戻って行く。途中で住人たちに挨拶をされ、その都度、何事もなかったかのように笑顔で返していた。
どんなときでも民には笑顔で。城主になれなくてもいい。けれど、笑顔だけは忘れてはいけない。
これは彼自身が子供頃から決めていたことだった。それを守りながら城を守る兵たちへ「ご苦労さん」と、笑顔を向ける。
「お袋、今どこにいるか知ってる?」
「城の中にいるかと」
「そっか。ありがとう」
飄々とした態度を崩すことなく、城内へと入っていった。そのまま迷うことなく、母の部屋へと向かう。
城主をしている鬼 伊橋の部屋は、最上階の一番奥にあった。爛 梓豪の部屋も同じ階にあるけれど、そこを素通りで進む。
そして、廊下の奥にある扉をたたいた。
「おふ……母上、爛 梓豪です」
母としてではなく、城主として。目上の存在として、礼儀正しく言った。
「……あら? 阿清がここへ来るなんて珍しいわね。いいわ。入りなさいな」
「失礼致します」
扉を開け、深々と頭を下げる。その姿勢を保ちながら拱手し、ゆっくりと中へと足を踏み入れた。
中は、爛 梓豪の部屋の数倍もあろうかというほどに広い。けれど置いてある家具は質素で、高価な物はあまりなかった。
「どうしたの阿清?」
部屋の奥、飾り窓があるところに鬼 伊橋はいる。昼間見た髪飾りはいっさいしておらず、長くて艶やかな黒髪を伸ばしていた。桃色の華服に身を包む姿は、子持ちとは思えないほどに若く美しい。
そんな彼女は机仕事をしているようで、たくさんの書物が山積みになっていた。
彼は机の前まで進む。足をとめて拱手を続けた。
「母上、実は──」
事の顛末を話し、非常事態に見舞われていると告げる。顔を上げて彼女を見れば、鬼 伊橋は驚いたように両目を見開いていた。
「……それ、本当なの?」
「はい。俺の目の前で、阿釉は……」
苦虫を噛み潰したような表情をする。
すると彼女は立ち上がり、爛 梓豪の肩に触れた。
「わかったわ。今から宦官たちを集合させて、色々と話してくるわね」
華服の上に、黒色の上着を羽織る。踵を返し、部屋の扉の前まで行った。かと思えば彼に振り向き、あることを伝える。
「お前の見たことがすべてなら、これは、とんでもないことよ。町の存続すら危うくなるわ」
「……え?」
彼は、聞き返そうとした。すると……
「ちょうど今日は、阿藤が泊まってるの。阿清の部屋に来るように伝えておくから、そこで詳しい話を聞きなさい」
「んん? ……いや。確かに、阿藤の父親のせいかもだけど……ってか、何で城に? 家に帰ったんじゃなかったのか?」
「それも踏まえて、阿藤から聞きなさい」
有無を言わさずに、彼女は部屋から出ていってしまう。
残された爛 梓豪はどういうことだろうかと、腕を組んで首を傾げた。けれどそれてま答えが出るわけもなかったので、言われたとおりに自室へと戻ることにした。
自室で待つこと数分、橋 鈴藤がやってきた。ただ、彼女の頬は腫れていて、泣き腫らしたような痕すらある。
爛 梓豪は驚いて橋 鈴藤に駆けよった。
「ちょっ! どうしたんだよ、その頬!?」
「…………」
彼女は無言で立ち竦んでいる。
彼が座るように促せば、橋 鈴藤は鼻をすすりながら腰かけた。
「……なあ、いったい何があったんだ?」
恐る恐る尋ねる。
「わ、たし、あの後、お父様に伝えたの。お見合いはなかったことにするって。そうしたら、突然怒りだして……」
両腕を包みながら、震える声で話していった。下を向いて頬を押さえ、鼻をすする。
「……っ! まさか、殴られたのか!?」
「うん」
彼女は声も、体すら震えていた。
爛 梓豪は驚愕しながら、彼女へと視線を向ける。
「……お父様の怒り方は尋常じゃなくて……私、怖くなって老师に助けを求めたわ」
「……だから、ここにいたのか」
肯定するように、橋 鈴藤は頷いた。顔を上げて涙を拭いながら、嗚咽混じりに話す。
「そうしたら、あなたと一緒にいたあの人が誘拐されたって話を聞いて……お父様がやったって思ったの」
「……なあ阿藤、ひとつ聞いていいか?」
「……?」
彼女に布を渡した。
橋 鈴藤は頷きながら、渡された布で涙を拭く。
「俺さ。子供の頃に何度か親父さんに会ってるんだよ。でもそこのときはすごく優しくて、怒ったりなんかしなかったんだ。むしろ、血の気の多い兵たちの間に入って、オロオロしてるだけって言うか……ぶっちゃけ、今の親父さんと全然違うんだよな」
いつからそうなったんだと、彼女の目を見て質問した。
橋 鈴藤は、首を左右にふる。
「お父様が別人のようになってしまったのは、今から数ヶ月ぐらい前なの」
「数ヶ月前? やけに明白だな?」
驚く彼をよそに、橋 鈴藤はため息をついた。
「……あの宴から戻った後だもの。お父様が、別人のようになってしまったのは」
潤んだ瞳のまま、再び目に涙を溜めてしまう。
「宴? 何の?」
「皇帝が亡くなったって噂された、あの宴よ。後で聞いた話なんだけど、あの宴には、お父様も参加していたらしいわ」
「──え?」
皇帝暗殺が囁かれた宴は、思わぬところで姿を現した。
そのことに彼は、驚愕の色を隠せなくなる。両目を丸くして、見張ることしできなくなっていた。