788 「俺のマスターは吸血姫」
──英国、ブルームフィールド本邸、リゼットの私室にて。
夜明け前の最も深い闇を肴に、しばらく一人静かにグラスを傾けていれば……控え目な力で扉が開き、この部屋本来の主である少女が帰還する。今しがた、父親との交流を終えてきたリゼットだ。
「……」
後ろ手にそっと扉を閉める彼女は顔を伏せており、その表情のほどは伺い知れない。
「ジン……」
「ああ、お疲れ様だ。マスター」
だが、立ち上がって出迎える眷属の胸に、正面からポテッとおでこを預けるご主人様からは、優しく温かな熱が感じられた。どうやら、悪くない時間だったようだな。
「疲れた……」
「よしよし」
こちらの胸に顔を埋めたままくぐもった呻きを漏らす少女の頭を、労るように撫でる。
産まれし頃より己を冷遇する父の姿、しかし愛する母から聞く父の印象……その二つの乖離は、たった一夜で埋められるほど浅くはないはず。今はまだ少しずつ、その歩みを寄せられればそれでいい。この長い一日、俺のご主人様は本当に頑張った。
「ん……ちょっと元気出た。ジン、お茶を」
「承知した」
眷属吸いで"えねるぎーちゃーじ"を終えたリゼットは、少し頬を染めながらもご主人様らしく指示を下す。平日ならばもう眠っている時間だ、ここは寝入りを助ける茶にしよう。
日本の邸宅とは少々勝手が違うが、電化製品の類いなど造りはほぼ同一なもの。やれぬことはない。それにしてもこの部屋の彩りといい、日本の邸宅といい、吸血鬼という種族は紅と金と黒で周囲を彩るのが本当に好きなのだな。絨毯もカーテンもベッドの天蓋も真っ赤だ。血を思い出させ腹が減らぬのか甚だ疑問である。
そんな益体もないことを考えながら茶を淹れ、窓際に設置された席に座るリゼットの前へカップを置いた。
「ふぅ~……ふぅ~……んっ」
英国人は熱い茶を好むが、少々猫舌な彼女は飲む前に息を吹きかけそれを冷ます。ちょっぴり子どもっぽい仕草のそれを、正面の席に座り眺めるのが俺は好きだった。
まだ少し熱かったのか、ピクッと眉を動かしながらも喉を潤すご主人様。その姿を見守り、愛でる眷属。
優しい茶葉の香りでようやく人心地ついたのか、彼女はソーサーにカップを置き、長く長くため息などつく。その深紅の瞳は、少々憂いを帯びていた。
「……私、お父様のこと何も知らなかったんだなって。あんな風に泣くお父様なんて、初めて見た」
「見せぬようにしてきたのだから、それはそうだろうな」
「抱えるものなんて、誰にでもあるのよね。私があの人の子どもだからっていうのもあるのだろうけれど……お父様のこと、どこか特別に見てた。不要な悩みなんて、バッサリと切って捨ててるものだって」
「『同じヒトである』という視野を、時に関係性というものは曇らせてしまう。そういうものだ。とはいえその肝心な秘密は、内容さえ一切明かしておらぬがな」
「そう、それ。正直、めっっっちゃくちゃ気になるんだけど?」
真面目な顔から一転。
唇を突き出し、瞳を湿っぽく細めるご主人様だが、そんなに可愛い顔を見せても俺とて明かせん。
「ねぇ、それ本当に私が知らなくても大丈夫なやつ? 後々借金みたいに大きくなって降りかかってこない? 『やっぱり早い内に聞いておいた方がよかった~』って後悔しないタイプのやつ?」
「不安になる気持ちは分かるが落ち着け。秘密にも種類があり、これは『今更どうにもならぬゆえ、知らん方がいい』という類いのものだった。俺が保証する。マスターは、知らない方がいい」
「……今聞くと印象変わるわね、その台詞」
むくれながらも、その矛を収めるご主人様。
これまでは『知らない方がいい。お前には教える価値がないのだから』と聞こえていたのだろうが、今はきっと『知らない方がいい。お前を想っているのだから』と、そう聞こえているのだろう。
リゼットはやれやれと言わんばかりに、なだらかな曲線を描く肩を竦めた。
「なんて言うのかしら。『親の心子知らず』って、こういうことなのかもって」
「そう言ってしまえるご主人様を、俺は誇りに思う。普通ならば、己を虐げ、隠し事を続け、あまつさえ正面切ってそれを明かそうとしない親を、子どもは許しはしないだろう」
「……いいわよ、別に。あんな風に泣いてるお父様見ちゃったら……何も言えないし。それに、あなたが……いてくれるなら」
言葉尻が小さくなり、リゼットはモジモジと足を揺らす。
手持ち無沙汰にカップを両手で包む少女は、その瞳を上目遣いにして正面に座る男を見た。
「じ、ジン……?」
「どうした」
「……私、こっちに帰ってくる時は、もう『絶対縁を切る!』って思ってたの」
「そうだな。俺もそうしてやりたかったが、あのダニをボコボコにするだけで手打ちとしてしまった。許せよ」
「うぅん。だって、全然……私、こんな風になるなんて、思ってなかったから……なんだか、まだ不思議な心地で」
心がふわふわと浮わつくのだろう。リゼットが落ち着きなさげに身体を揺らす。
「まだ、ちょっと信じられないの。ねぇ、教えて。私の欲しい言葉を言って」
その言葉に、どこか悲痛な響きを感じた。
それはそうだろう。早々に母の温もりを手放し、周囲には誰も味方がいなかった。年頃の子どもであれば、いずれ望まずとも得られた温もりというものが彼女には無かったのだ。
それが今、因果にもすぐ傍にあると自覚した。だが約十年にも及ぶ孤独な時間は、少女を疑心暗鬼にさせるのに十分な時間である。
……ゆえにこそ。信じられる者の言葉で、今一度その背を優しく押してやらねばならないのだ。
「……いいだろう。『アーカード=ブルームフィールドは、シャルロット=ブルームフィールド及びリゼット=ブルームフィールドを心から愛していた』」
「うん……」
「『隠し事をするのも娘のためであり、そのためならば娘からどう思われようと構わぬ覚悟と自己犠牲を己に課していた』」
「うん、うん……」
「リゼット=ブルームフィールドが眷属、無双の戦鬼が今一度マスターに報告する。『たとえ愛人の娘であろうと、力の弱い吸血鬼であろうと……マスターは、父から愛されていた』。それが今明かせる、真実の全てだ」
「うん……うん……!」
ここに来るまでにも泣いていたのだろう、涙の跡を再び熱い雫が伝う。
不安だっただろう。さぞ苦しかったであろう。憎しみを募らせねば生きていられなかったであろう。
「お父様……お母様……私は……」
目を伏せ、父と母を呼ぶ小さな少女。
リゼット=ブルームフィールドは十七の齢にして……ようやく、家族の愛を信じられるようになったのだった。
「……マスターは強いな」
「すんっ……な、なんで?」
「強さというのにも種別があってな。俺はあらゆる敵を打倒する強さこそ持ってはいるが……生憎と、憎き相手を許せる強さは持ち合わせておらん。そうして持っておらん持ち物こそ、人にとってはより輝いて見えるものだ」
「……最初から持ってたわけじゃ、ないわ」
眩しく瞳を細めるこちらに、リゼットは微笑む。
「ずっと皆が……あなたが、一緒にいてくれたからよ。ずっと独りだったら、私は何もできないままだったわ」
「こちらこそ、だ。マスターがいてくれたからこそ、今がある。刀花に無二の友ができたことも、学園での数々の出会いも、その後のことも……マスターと出会えたことが、全ての始まりだった」
「私もよ。あなたと出会えていなかったら、今の私はなかった。お父様と相対する勇気なんてないままの、何かを許すこともできないままの……一人ぼっちの、女の子だった」
リゼットの紅い瞳が、眷属を射貫く。
その瞳は涙で潤み、いかな宝石でも敵わぬ輝きを秘めていた。
「──ありがとう、ジン……私の眷属になってくれて」
「──っ」
美しい。
その容姿も、流れる涙も、心の在り方も、紡がれる言葉も。彼女の全てを、美しく感じる。
(ああ……)
これ以上の宝を、俺はきっと生涯……見ることはないだろう。
「こ、こほんっ」
そんな確信を得ながら感動していれば、しかし彼女は纏う雰囲気を払うかのように咳払いをする。どこか照れ臭そうに。俺のマスターはツンデレだからな、この雰囲気に耐えきれなかったのかもしれん。
「と、ところで、なんですけどっ」
「ああ、どうした」
「ひ、日付、もう変わってるじゃない?」
「そうだな。そろそろ寝なければ、いかに夜の種族とはいえ明日に響こう。朝イチで日本へ帰るのだからな。帰りもまた行きと同様"眷属じぇっと"で帰ってもいいが、飛行機が用意できるのなら──」
「そ、そうじゃなくて……今日、何の日か分かる?」
「…………」
……ああ、分かっている。今回のゴタゴタで、あえて言及などしなかったが。
テレテレそわそわするご主人様に向け、俺は静かに頷いた。
「無論。──俺とマスターが、初めて出会った日だ」
「っ、こくこく……!」
何度も頷く可愛いご主人様。大事な記念日を覚えていてくれて嬉しいのだろう。こうした記念日チェックはたびたび指摘されるため、俺も手帳にちょっとしたことを記すのに余念がなくなってしまった。似た者同士だな。
ご主人様と過ごした蜜月を想っていれば、彼女は身体に宿る熱を上げていく。
「ん、んっと、ね?」
「ああ……」
「記念日だし……お父様からも正式にお許しが出たし……ジンも、今日は頑張ってくれたし……」
「……うむ」
「ごっ、ごごごごご褒美を、用意しなくちゃ、いけないんじゃないかしらって、ご主人様はそう思うのよねっ?」
「うむ、うむ」
「……もぉ、頷いてばっかり。わ、分かる、でしょ?」
くっ、なんといじらしいのだ我がマスターは!!
上目遣いで誘う可愛いご主人様に、最早辛抱たまらん。悪いが朝の便はキャンセルさせてもらう!
俺はパチンと指を鳴らし、彼女の衣装を変える。先刻に見た、黒のウェディングドレスへと。
そうして立ち上がり、部屋の中心で向かい合う。二人きりの式を執り行うべく。
「……思ったのだが、吸血鬼の女性というのは式でも黒を着るのか?」
「うぅん。これは私が選んだの。別に喪服とかでもないわよ? ちゃんと意味だってあるし」
「む。というと?」
「……黒のウェディングドレスを女性が着るのにはね、『あなた以外に染まらない』ってメッセージが込められてるのよ」
他の男と並ぶ結婚式であっても。
ご主人様は愛する男に、その愛を伝えてくれていたということだ。
「っ、マスター……」
「あ、ジン……」
今ここに至り、愛しさが最高潮に達する。
熱い頬に手を当てれば、彼女の瞳が蕩けていく。その瞳には、もう目の前の男しか映っていない。
「──愛している、マスター。これからも共に生きよう。共に過ごそう。永遠に、俺がマスターを幸せにすると誓う」
「──はい。私も愛してるわ、ジン。私だけの、最強の眷属。愛しいあなた……あなたへの永遠の愛を、誓います」
誰に促されるまでもなく、我々は唇を重ね、影が一つに溶け合う。
啄むような愛らしい口付けから、大胆に舌を絡める深い口付けまで。互いに抱く愛情をこれでもかと、今の口付けに込める。
「ふあ……♡ ジン……♡ ジン……♡」
「マスター……」
唇を離せば、彼女は乞い願うように男の名を呼ぶ。もう誰にも、俺達は止められん。
両膝に手を入れ、お姫様抱っこをする。電気を消し、そうして向かう先はもちろん……ふかふかのベッドだ。
花嫁衣装の女の子を、優しくベッドの上へ横たえる。上気した頬と瞳に、露出し火照った肩と胸元。その姿の、なんと艶やかなことか。
今一度、その小さな身体を抱き締める。すると彼女も控え目にだが、こちらの身体にその細い腕を回した。
「す、好きよ……ジン」
「ああ、俺も愛しているリゼット」
「や、優しく、してね……? お、お願い……」
「もちろんだ。宝物のように扱うと誓おう」
「う、うん……お、お姫様扱いしてくれなきゃ、ダメよ……?」
「……フ、クク」
「な、なによぉ……」
その言葉に、思わず笑ってしまった。
正真正銘、王族の血を引く少女が『お姫様扱いして』ときたものだ。知らぬこととはいえ、運命とは因果なものよ。
突然笑い出す眷属に、お姫様は不満げだが……いや、いいや。
その不満を溶かすように口付けをしてから、俺は小さく首を横に振った。
(ああ、そういえば……)
以前に、リゼットが言っていたことを思い出す。
『ねぇ。ニュアンス的になんだけど、あなた私のことたまに『吸血鬼』じゃなくて『吸血姫』って呼んでるでしょ。それってね? 吸血鬼界隈でも稀な"王族の血を引いてる女性吸血鬼"にしか与えられない称号なのよ?』
つまり、リゼット=ブルームフィールドは最初から──、
「ふ……すまない。少し感傷に浸っていただけだ。俺のマスターは吸血姫だったのだな、と」
「そ、そうよ? あなただけのお姫様、なんだから……ね♡」
「ああ、マスター……!」
「あっ──♡」
そうして全ての枷から解き放たれた我等主従は。
──闇に溶け合うかの如く、深く深く互いの身体を重ね、愛し合うのだった。
最終章「俺のマスターは吸血姫」 完
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
次回、エピローグにてメイン完結です!




