667 「熊との出会いで変わった女」
──シャイニーズ事務所、第五レッスン場。
ピカピカに磨かれた広い床と、少しボロのきた運動シューズが激しい二重奏を奏でる……そんな、所属するアイドル達の血と汗が染み込んだ部屋で。
「ワン、ツー、スリー。ワン、ツー、スリー……よし、そこまで!」
『はぁ……はぁ……ありがとうございました!!』
厳しいと評判の女性ダンスコーチの合図で、私達は息も絶え絶えにしながら頭を下げる。
かろうじて声を揃えてお礼を言えたのは……二人だけ。体力のない子は早々にリタイアして見学に回っていたり、最後まで残っていた子でさえ尻餅をついたりしている。
そんな一ヶ月に一度の事務所全体合同練習で、周囲の子達から尊敬と少しの嫉妬の視線を集めるのはもちろん──、
「さすがだな、煌栄。近頃は、笑顔以外の感情も身体で表現できている。まだまだ伸びるよ、お前は。バテてくる終盤には体幹を意識して、足を大きく動かすようにしてみろ」
「はぁ、はぁ……っス!!」
ピンクのポニテも素敵で、簡素なピンクジャージでもその輝きは色褪せない。
私達の大先輩にしてカリスマ、煌栄ガーネット先輩! 数年にも及ぶブランクを感じさせないその佇まいは、果たして彼女が表に出ない間にも、どれだけ自分の身体を苛め抜いていたかを感じさせる。それは一種の鬼気や、最早怨念すら……。
そしてそんな迫力が、更に先輩の美しさに花を添えてしまうのだ。この顔を見るために、この自由参加の鬼合同練習に参加する子さえいるくらいだ。
そして、そんな彼女の他に、最後まで厳しいレッスンを耐え抜いたのは……私だけ。
「いいじゃないか、河合カノン? 最近、特に頑張っていると評判だぞ」
「ふぅ……ふぅ……ありがとうございます……」
「全体と息を合わせるのが抜群に上手くなっている。音とも、人ともな。後ろに目がついているかのようだ」
「そんな……なんか、なんとなく"理解る"ようになったってだけで……」
とてもそう、不思議な感覚。
集中すると、感覚が研ぎ澄まされるようになって……。
「河合さん、なんだかすごい……」
「いつもふわふわしてる感じだと思ってたけど、いつの間にあんな顔もできるように……」
周囲の声も、どこか遠くに聞こえる。
羨望と嫉妬の入り交じるそんな囁き声の中、精悍な顔立ちをしたコーチは優しく瞳を細めた。
「良い才能だ、磨けよ。これならば、他の先輩達も安心してお前にバックを任せられるだろう。近頃、心境の変化でもあったのか?」
「……どうでしょう」
そんな、私。
ガーネット先輩とのユーコン川ロケも久しい……河合カノン、十七歳。
「……にひ♪」
「……ふふ♪」
憧れの先輩と、まるで競い合う相手かのような笑みを交換できるようになった私は、
「そうだな……特に見てもらいたい相手が──ふ、男でもできたか?」
「いいいいいいいえっ!?」
口では否定しますけど──まだまだ恋、してます!!
「ふぅ……先輩、大丈夫かなぁ」
体力に余裕のあった私は、最後にコーチの片付けを手伝っていた。そのおかげで、私は他のアイドルの子達とは遅れて更衣室へと向かっている。
少しウェーブのかかった栗色の長髪をふわふわとなびかせながら、私はレッスン中にも懸念していたことをふと呟いた。
その内容はもちろん、ガーネット先輩のことについてだった。
「……動き、ちょっとぎこちなかったよね?」
コーチは気付いてなかったみたいだけど……私の気のせいだろうか。特に下半身の動きが……。
「……お尻?」
というよりも、そこより前部分の……って、いやいや!
一瞬変な妄想をしてしまった私は、ブンブンと首を横に振る。
「ほら、先輩よくおトイレ行くから……」
もしかしたら単におトイレを我慢してたのかもだし。それか最悪、トイレに行き過ぎて炎症でも起こしてるか……うん、先輩ならあり得る。ユーコン川でも豪快にしてたし。私も人のこと言えないけど……"ジンジン"にアソコまで拭かれて……わぁわぁ!
「はぁ……ジンジン、どうしてるかな」
熱くなった頬をパタパタと扇ぎながら、私は想い人の名を呟く。
唐突に現れた、全然現地の人に見えない現地ガイド。熊を背負い投げしちゃうほどの強い人で……きっと、ガーネット先輩の好きな人。うぅん、確実に好き。キープ君って言ってたし。なんなら目の前で大人のキスを見せつけられちゃったし……ずるいずるい!
「連絡も来ないしなぁ……」
せっかく連絡先とか教えたのに、彼からの連絡なんて一度も来ていない。お部屋も片付けたのに!
「……」
分かっている。私なんか、彼の眼中になんてないことくらい。
彼の目には鮮烈なピンクの輝きしか焼き付いていないし、なんだったら先輩の目にすら彼しか……はぁ……。
「何が違うんだろう……」
最近は私も頑張ってるんだけどなぁ……頑張るのは好きだし、コーチにも褒められたから嬉しいんだけど……。
「何か、特別な……」
そう──"特別"。
あの二人を繋げる、特別な何かがある。それも分かる。だけど、それが何なのかは分からない。立ち入って聞いていいものなのかも……分からない。
「……いいなぁ」
そんな特別と秘密を共有する二人が、心底羨ましい。私には無い何かを持っている二人が……どこまでも、お似合いに見えて……見えて──そう。
「ドキドキ……!」
昂って、しまう──!!
逞しくてカッコいいジンジンも好きだけど! 彼にしか見せない恋する乙女の顔したガーネット先輩も、結構好き……!! なんならガーネット先輩を追いかけているジンジンも好き!! むしろそんなジンジンが好き!!!
「私、ちょっとおかしいな……」
思えば、ユーコン川で熊に襲われて命の危機に瀕してから、なんかちょっとテンションとか変かもしれない……あの時から、どこか神経が研ぎ澄まされているというか。
これは恋の力なのでしょうか。それとも火事場の馬鹿力なのでしょうか……だからついレッスンに打ち込んじゃったりもして──。
「はっ、いけないいけない」
廊下でついボーッとしてしまっていた。
誰も見ていないことをキョロキョロと確認し、私はコホンと咳払い。
「とりあえず着替えて、先輩がいたらご飯誘っちゃお」
お体の様子も心配だし。
「なにより、ジンジンにまたひょっこり会えるかもしれないし!」
打算的とは思いつつも、つい頬が綻ぶ。今日のレッスンだって『先輩がいるならジンジンもいるかも』って希望に賭けてたわけだし! まぁさすがにいなかったけど! いたら怖いね! でもロケにはいたんだよなぁ……。
「あぁ、私の王子様……!」
私のことは眼中にないけど、先輩には素敵なオスの顔をする私の王子様はどこにいるんだろう~♪ え、私拗らせてる? 拗らせてるかなぁ?
そんなちょっと屈折した想いを抱えつつ、私はルンルンとした足取りのままに、更衣室に続く扉へと手を伸ばし──、
『あんっ♡ ちょ、マジ……やめろってこんなとこで……!』
『こんなところだからこそ、だろう? 特に努力の足跡を見せぬお前が、これほど汗に濡れた身体を晒すことなどそうないものだからな……』
──咄嗟に手を引っ込め、熊との対峙で会得した気配を消す呼吸法を実践する。私は熊との出会いで色々と変わった女。やっぱりアイドルは一度、命のやり取りを経験すべきだよ。
そうしてスパイのように壁に背を預け、耳を澄ませる。扉は開いておらず、防音性も高い更衣室からは声が聞き取りづらい。だけど私は命のやり取りを経験したので、僅かな音だって聞き逃さない。その油断が命に関わると、私はもう知っているからね。
(先輩……そしてこの声、ジンジン……!!)
まさか本当にいるなんて! 更衣室にいるのはよく分からないけど! それもここ女子更衣室だし! でもロケにはいたしなぁ……いるものなのかも……そんな妖怪じゃないんだから。
馬鹿な考えに自分で苦笑しつつ、耳をより壁に近付ける。どうやらイチャイチャしているご様子。いいですよぉ~、もっとイチャイチャしてください。それがひいては私の力となるのですから……! 栄養にもなります……!!
『この変態不審者め……そ、そんな匂いとか嗅ぐなばかぁ……』
『ペロリ……甘酸っぱい』
『ひゃんっ♡ ちょい! コイツ脇汗とか舐め始めましたよ。成分的に考えていくらあたしが美少女だからって脇汗が甘いわけねぇだろ人体科学舐めてんのかオォン? 舐めてるのは脇汗なんですけどねっ! どっ。というかマジで脇とか舐める男いるんだ……エロ漫画の世界にのみ存在するものと……このファンタジー脇ナメがよ』
新しい妖怪が令和の世に誕生しました。
『俺ほど甲斐性のある男になれば、愛する少女の脇汗とて美味しくいただけてしまうのだ』
『キメ顔で言ってるとこ申し訳ないけど絶対死んだ方がいいよ』
『この香り……そしてコクと舌触り……うむ、ここ十年で最高の出来映え……』
『会ってねぇんだよこの脇とお前が十年以内によ』
『ふむ……これならば……?』
『おぉっと戦鬼選手、なにやら袖から弁当箱を取り出しました~。美少女アイドル達が使用した後のじめっとしたこの場において、緊張感ある手付きで箱を取り外し……これはぁ……? な、なんとーーー! 唐揚げです! そして唐揚げに脇汗をかけています! それはまるでレモンを搾るかのような手付きで! まぶされた脇汗は、まさにダイヤの煌めきを放っています! その輝きは味覚の万華鏡! そんな迷宮を前に喉を鳴らす戦鬼! 迷い込むのはただの愚者か! それともアリアドネの糸を携えた勇者なのか! ミノタウロスは今、お前が来るのを虎視眈々と待っているぞ! 合掌するのは己に向けてか、相手に向けてか、その運命は変態の神のみぞ知る! さぁいよいよ迷宮にチェックインです! 愚者か勇者か! 愚者か勇者か! お前はいったい、どっちなんだーーーー!!』
『っ! う、美味い──!!』
『馬鹿野郎』
恐らくジンジンの頭をはっ倒したのであろう乾いた音色が響く。
これ本当にイチャイチャしてるんだろうか……アブノーマルとも違う、いったいこれはどういうプレイに該当するんだろう……というか"センキ"って……?
『ったく、ツッコミにきぃ~……ちょうどあたしが下着とか全部脱いだ時に現れやがって』
先輩今まで全裸だったんですか!?
『気になるか?』
『お前みたいな露出狂じゃねぇもんで』
『分かった。では──俺も脱ごう』
なんで!?
『へぇ……全裸の開示、本気だね(ペロッ)』
なんの!?
『では……挿入れるぞ』
なにを!?
『あ、ま、待って……今日はゴム、つけて……』
ゴム手袋かな?
ほら、あれですよ……先輩は痔で(失礼)、ジンジンは座薬とかボ○ギノールを注入するのを手伝うためにここに来たんだよきっと……それを女子更衣室でやる意味はさっぱり分かりませんけど! レッスン中に悪化したのかなっ!!
『では、改めて……』
『ばか……一度ヤッたからって盛りやがって……あ、やだ……あたし、またこんな場所でヤられちゃう……♡』
本当ですよ。保健室に行ってください。そこで座薬でもボラ○ノールでも中で溶けてシュッ、フワァーって感じで──、
『んあぁぁぁぁぁぁぁあぁぁあ!♡ は、入ったぁぁあぁぁぁぁぁ!♡♡♡』
座薬の話! 座薬の話ですからねこれ!!
「くっ……!!」
このままでは色々とイケナイ!
私はそれを探るべく、更衣室の奥地へと足を踏み入れました──!!
「フリーズ! ドンムーブです!!」
しかし──、
「な、にィ……?」
思わず険しい顔と声が出る。
「いない……?」
そんな馬鹿な。
事務所内部にある、所属アイドルのためだけにある女子更衣室。所属も多いため、その空間はたっぷりと余裕を持たせた造りとなっている。
全体の印象は白く清潔感がある。中央には長方形型のベンチが鎮座しており、向かって左側の壁はメイクのための鏡面と机、椅子が並ぶ。右側の一面にはロッカーが設置されており、最奥にはブティックにあるようなフィッティングルームがある……姿を隠すなら、そこか、ロッカーか……。
「……先輩?」
しんと静まる室内で、呼ぶ。
さすがに、さっきの話し声を誤魔化すことはできないはずだ。すると──、
「あ、あ~、カノンちゃんおっすおっす」
やはりフィッティングルームから、先輩がひょっこりと顔を覗かせる。顔だけ。そこから下を隠すように、カーテンでしっかりと隠しながら。
頬は赤く、どこか疲れたような熱い吐息をついているようにも見える先輩。発汗も見られる。これは……果たして体調不良によるものなのでしょうか。それとも、その背後にいるであろう人によるモノなのでしょうか……?
私はとりあえず、静かに自分用のロッカーに歩み寄りながら、先輩に聞く。
「大丈夫ですか? 先輩。なんだかレッスン中も体調が悪そうでしたし……今も、なんだかすごい声が聞こえたような?」
「だ、大丈夫大丈夫! あれだよ……そう、痔! ちょっとケツとか拭きすぎてさぁ。すごいよ? 磨きすぎた泥団子みてーな光沢放ってるから今のあたしの尻」
「……へぇ」
予想通りの答えが返ってきましたね。でも、
「──ジンジン、いませんでした?」
「え? あ~……スマホで通話してた、よ? 晩飯つくっといて~ってね」
「まるでそこにいるかのような感じでしたけど」
「最近のスマホって音質すごいね」
「……そうですね」
……怪しい。そして嘘をついている。晩ご飯のお話なんてしてなかった。
(やっぱり……いる……?)
誤魔化すってことは、いるよね? ジンジンが。そこに。いや女子更衣室に男を連れ込んでる時点でそりゃ誤魔化しはするんですけども。
「じぃ~~~……」
「な、なんスか? カノンパイセン……」
「いえ、着替えないのかな~と」
「き、着替えるよ? 着替えるけども……そ、そんなに見られてると、恥ずかちぃ……♡」
「じぃ~~~~~~~~~~~~~~」
「う……っ……んぁっ♡……ちょ、なにデカくしてんだよっ」
「先輩?」
「はいっ! いやあたしの中のバイ菌がそのステージを上げちゃったっていうか!? 末期的な!?」
確かに、これは末期かもしれませんね。
私は先輩を見つめながら、パチ、パチ、と一定の間隔で手を叩く。
「ぜ~んご、ぜ~んご、ぜ~んご」
「あ、あぁ? ど、どったのカノンちゃん……ついにおかしくなった? あっ……ぅぁ……」
「それぜ~んご、ぜ~んご、ぜ~んご、はい、はい」
「んっ♡ んっ♡ んっ♡ んっ♡ んっ♡ んっ♡」
私の手拍子に合わせ、先輩の身体が不自然に前後する。先輩は途端に俯き、手で口許を押さえて甘い吐息を我慢していた。
うわぁ……ヤッてる~……これ絶対ヤッてる~。私が相手だからってジンジンも先輩も開き直ってるのだろうか。
(それとも……)
記憶を消すような手段が、この人達にはある……?
私が、先輩のマンションに遊びに行った時のような……。
……それにしても。
(私は何を見せられてるんだろう……)
憧れの先輩が、アイドルにあるまじき行為をしている。
好きな男の子が、他の女を抱いている。
目の前の光景に泣いていいはずなのに。怒っていいはずなのに。
「はっ……♡ はっ……♡ 先輩、かわいい……♡」
だけどなぜだろう……そう思うことも真実なのに、同時にすごく興奮してしまうのは!
混ざりたいとはあまり思わない。だけどこの光景をずっと見ていたい……もっと激しくさせたい……!
私の吐息まで熱くなってしまう。だけど先輩の桃色の吐息と比べ、私の吐息だけはどこか仄昏いように感じてしまう……。
「──」
そうして私は、ふらふらと誘われるようにして。
もっと近くでよく見たいという欲求に抗えず、そのまま足を進め──、
──コツン。
「ん……?」
靴先に何かが当たり、私の意識はふと下へと移る。
……ステッキだ。日曜朝に放送してるアニメの中で、キラキラな女の子が笑顔で握っていそうな、そんなステッキ。
「先輩? これ……」
「あ、ごめんそれあたしの。拾っといてくれる?」
「は、はい……」
……なぜか一瞬、それに魅入られそうになる。
「……?」
不思議な感覚に私は首を傾げながらも、先輩の私物を蹴ってしまったことを詫びつつ、それに手を伸ばし──、
カッ──!!
「へ?」
「何の光ぃ!?」
「ほぉ……?」
握った瞬間、ステッキが目の眩むほどの光を放ち始める……!
「こ、これは……!?」
この光は……!?
そして、指先から流れ込んでくるかのような……、
温かい、この不思議な力は──!?




