初任務 ⑤
初が気が付く頃にはもう部屋に日が差し込んできていた。カーテンはないので直に日差しが初を照らしている。モニターの右下に表示されている時間は五時半。勤務開始まであと三時間というところで準備の時間も含めて二時間半程度しか自由な時間はない。現実を知覚したことで急に空腹感と眠気が襲ってくる。
——あー、やばい。眠すぎる。いったん二時間寝て、あとの三十分で適当に飯を食おう。うん。それがいい。パンならすぐできるし、準備しながらでも食べられる。間違いない。とりあえず寝よう。
画面がついたモニターそのままに、初はのそのそと床にひいた布団にもぐって目を閉じた。
「初様、起きてください」
「んぅ」
「初様、起きてください」
「……う」
「初様、起きてください」
微睡みの中そんな声が初の耳に何度も入る。
——誰……? 起こしに来てくれた? いや待って! 今何時だ!
布団をガバッと捲って初は勢いよく体を起こす。しかし、辺りには誰もいなかった。モニターの示す時間は七時半の一分前で、初が起きようとしていた時間と一致する。
——あれ? 誰かに起こされたと思ったんだけど。気のせいだったか? 確かに聞こえたと思うんだけど。
記憶をたどっていると、突然携帯が鳴った。見ると初が自分で設定したアラームだった。
「やばっ、早く準備しないと」
初はすぐにパンを取り出してトースターに入れて着替え始めた。昨日引っ越し作業をしている間に買ってきてもらったものだった。しかしコーヒーをゆっくり飲むには少し時間が足りない。仕方なく初はここ数年で初めて自身のルーティーンを崩した。
「いってきます」
「いってらっしゃいませ」
「……は?」
いつもは返事がこない言葉に今日は返事がきた。その信じられない事実に初はいちもなく振り向いた。しかし、部屋に人は見当たらない。
「いってきます」
部屋を見ながらもう一度言う。
「いってらっしゃいませ」
初の勘違いでもなんでもなく、再び声が聞こえてきた。身構えて聞くとその声が機械の合成音声によく似ている気がした。AIの発展でもう機械の声であっても現実の人間の声とほとんど相違なく聞こえるほどになった。けれどその抑揚からなんとなくそんな気がしたのだ。
「えっと、どちら様ですか?」
「それはともかくそろそろ出ないと遅刻しますよ」
「いや、え、それよりも自分の部屋に誰か知らない人がいる方が問題じゃないですか?」
「大丈夫です。私は明確にホモサピエンスではございません。しかし誰かと問われるならばマドレと言えば分かるでしょうか。おそらく志乃様から聞いてると思うのですが」
「ああ、えっとはい。聞いてますけど、えっともしかしてマドレさんってこの寮の管理的なAIだったりします?」
「はい。その認識で間違いございません。初様は聡明なのですね」
「それでどこから喋ってるんですか?」
「それは初様が帰ってからにしましょう。今からですと始業の三分前に着く計算になります」
「やばっ。帰ったらまた話聞きますからね」
「はい。楽しみにしております。いってらっしゃいませ。鍵はこちらで閉めておくので」
「え、はい。ありがとうございます。いってきます」
——とりあえず始まって二日目で遅刻してしまうのはまずい。声の正体がマドレさんだとするなら問題ないだろう。
初はドアを閉めてから急いで階段を降りて職場に向かった。
「おはようございます」
新聞配達のバイトから仕事が変わっても初の最初の挨拶は変わらなかった。
「おはようございます」
しかし違うのは確実に返事が返ってくることだった。
「あ、初さんおはようございます! 重役出勤ってやつですね! まったく、新人なんすから誰よりも早く来て部屋の掃除をしないと……」
「みなみ、あなた遅刻常習犯のくせに何を言ってるんですか。別に初さんは遅刻ではありませんよ。まだ三分前です」
「むむ……」
みなみは自分の目論見が外れたのかむくれながら何かうめき声みたいなものを出している。初はそれを尻目に更衣室に行き、着替えを済ませる。戻ってくることにはすでにみなみは持ち直して幸せそうにお菓子をむさぼっていた。
「いつから運び出しますか? 一応、昨日の時点で相手方にはもう話を通しておりますので、今日一日は窓は開けさせています」
シロが出てきた初を見て言う。
「そうですね。いつでもいいですよ。今からでもやりますか?」
「私としては構いませんけど、大丈夫ですか? 準備とか……」
「大丈夫ですよ。昨日テストを行った部屋の映像を確認させていただければ。すぐにでも」
「それなら問題ございませんよ。こちらから見ることができますので」
備え付けられている古めのパソコンの方にシロは歩いて行って目の前の椅子に座った。しばらくカタカタと操作したと思うと席を立って、手で座る様に促した。初はそれに応じる形で席に座った。目の前のモニターに映るのは監視カメラの録画画面だった。初は下に表示してあるシークバーを操作して、自身が魔法を使った瞬間まで移動し、そこから再びボックスが現れるまで問題がないか確認した。魔法はしっかり発動していたようで、発動から二時間ピッタリでハンカチを揺らしながらボックスがもう一度現れた。
「大丈夫そうです。今からでも運びますか?」
「そうですね……」
シロは顎に手をあてて何か考え込んでいる。
「なにか問題とかありましたか?」
「いえ、そうではなく……。昨日は問題ないと言ったのですが、明後日までその仕事でスケジュール組んでいたのでこれからどうしようかなと」
「トクマの任務がない日は普段何をしているんですか?」
「そうですね……。パトロールとか、事務作業とか、あとは訓練とかですかね」
「訓練ですか?」
「はい。私たち魔法使いでも作戦に参加するときには体力が必要ですし、ないようにはしますが肉弾戦になることも考えられます。なので普段あの部屋で走り込みをしたり、体を鍛えたりしてるんです」
——まあ、確かに必要か。結局、無詠唱で魔法を使える人間がいないのなら肉弾戦が重要になる。あ、もしかしたら……。
「すみません。一ついいですか?」
「はい。なんでしょう」
「シロさんって魔法で体を強化できないんでしょうか」
「……初さんそんなことできるんですか?」
怪しむような眼が初に向けられる。
「ああ、いや僕はできないですけど。ほら、前にシロさん僕の頭を読んでいたじゃないですか」
「そうですね」
「予想ですけどそれは脳波を読んでいたのかなって、例えばそこに何らかの形で干渉できるなら怖い話、脳をコントロールできるのかなって」
「……えっと、あのですね初さん」
「はい」
シロは歯切れ悪く口を開く。
「実はそれ禁術指定されていまして。正確にはそれがというより脳みそに直接干渉するような魔法は公式な研究施設でも禁止とされているんですよ。しかもこれは国際会議で決定したものでしてどの国も破ってはいけないんです」
「でもシロさんは心を読む魔法使ってますよね?」
「そうですね」
「……それって大丈夫なんですか?」
初は訊いて良いか分からないながらも、もう後戻りはできないとおずおずと訊いた。
「一応大丈夫なんですよ。正確に禁止されているのは研究とそれに関する情報の拡散なんです。当時はまず魔法すらろくに発展してない時期だったのでそれで抑制できると思ったのでしょう」
「なるほど。でも」
「人の欲望には枷はかけられないんです。つまるところ色々あったんですよ」
どうやってその魔法を使えるようになったんですか。初がそう言おうとしたときシロが言葉を被せて遮った。初はそれ以上は突っ込んではいけないのだろうと口を噤んだ。
「では、改めてこの荷物の配達をお願いしてもよろしいでしょうか」
「はい。分かりました。とりあえず、玄関まで持っていきましょうか」
「いえ、玄関は人目に付くので裏手のちょっとしたスペースでお願いします」
「分かりました。じゃあ運び出しますね」
「私も手伝います。みなみ」
「ん? あ、はいっす! 運び出しですね! 任せてください! 私に任せればだいじょうぶいっす!」
みなみは力こぶを作ってタタタッと走り出した。
「転ばないでくださいね」
そう言ってシロはその後を追う。初も遅れてついて行った。




