第89話 夜戦
移動式ゲートを抜けた途端、胃の奥がぐっと持ち上がった。
足を止めて口元を押さえる。
短い間に二度も使用したせいか、やはりゲートは好きになれそうにない。
「ヒデキさん、大丈夫か?」
「ええ。少し気持ち悪いだけです」
トラヴィスに返事をしながら顔を上げると、
吐き気のことなどすぐにどうでもよくなった。
目の前に広がっているのは、
これまで見た難民キャンプとはまるで違う光景だった。
天幕の間を埋めるように大勢の人が座り込み、
その脇では、荷物を抱えた人たちが行き交っている。
地面に敷かれた布の上には、包帯を巻かれた騎士や冒険者が横たわり、
肩を借りなければ歩けない者の姿もあった。
泣き止まない子供を抱き、涙を拭いながらあやす母親。
片方の靴を握りしめ、同じ名前を何度も呼んでいる老人。
泥に汚れた服のまま、何もせず地面を見つめている人もいる。
コルボラで人や物資が慌ただしく動いているのを見たときとは違う。
ここには、その騒ぎが起きている理由そのものが集まっていた。
ラティスが陥落した。
さっきまで言葉でしか知らなかったことが、
ようやく目の前の光景とつながった。
レオノールがカーリナの腕に抱きつき、そのまま顔を押しつけた。
リーザが何も言わず、その頭をゆっくり撫でる。
ボニーは下唇を噛み、難民たちから目を逸らさなかった。
カーリナがレオノールの肩へそっと手を置いた。
「こんなに……人がいるんですね」
カーリナの声は、誰に聞かせるでもない小さな声だった。
トラヴィスがキャンプの奥へ向かって歩き出す。
「ここは前からある難民キャンプだ。
ラティスが落ちてから、一気に人が増えたんだ」
少し進むと、人が集まっている場所だけでなく、
キャンプの外側でも大勢が動いていることに気づいた。
何人もの騎士が木材を運び、立てられた杭の間を補強している。
そのさらに外では地面を掘り返している者が並び、
別の場所には大小さまざまな石が山のように集められていた。
避難してきた人を受け入れるだけの場所にしては、どうにも様子がおかしい。
「トラヴィスさん、あれは何をしているんですか?」
「ああ、防備を固めてるんだよ」
「防備……?」
「今はここも守らなきゃならねえからな。
柵を強くして、堀を掘って、使えそうなもんは何でも集めてる」
難民を守るための準備。
そう言われれば分かるのだが、
これだけの人数が休むことなく作業を続けている光景を見ると、
それだけでは済まない気がする。
トラヴィスが振り返り、自分たちを手招きした。
「団長のことを聞くなら、まず騎士団の連中に当たった方がいい。こっちだ」
その言葉に、カーリナがすぐに歩き出す。
自分たちも、その後を追った。
トラヴィスの後を追い、天幕の間を進んでいく。
「ユホ兄さん!」
カーリナが駆け出した先に、見覚えのある赤毛の男がいる。
呼ばれた男がこちらを向き、目を見開く。
「カーリナ?」
やはりユホだ。
最後に会ったときと違って鎧も服も泥に汚れているが、間違えるはずもない。
「どうしてここにいるの?」
「それはこっちの台詞だよ。どうしてカーリナが北部にいる?」
「師匠たちと来たんだよ。冒険者ギルドから支援の募集があって。
ユホ兄さんこそ?」
「それはだな……」
「そんなことより、御父様は?」
「そんなことって……」
ユホはすぐに表情を引き締めた。
「団長は無事だ」
カーリナの肩から、わずかに力が抜けた。
「本当に?」
「ああ。ラティスからは撤退している。ただ、まだここには戻っていない」
「どうして?」
「撤退する部隊と、ラティスから逃げてきた人たちをまとめている。
団長はそちらの指揮に残っているんだ」
「いつ戻ってくるの?」
「それは……分からない」
ユホが困ったようにカーリナを見る。
「まあ、団長が無事なのは分かったんだ。戻ってくるまで、少し待とう」
トラヴィスの言葉に、カーリナが小さく頷いた。
***
ユホに案内された騎士団の天幕で、団長の帰りを待つことになった。
ここまで付き添ってくれたトラヴィスとは、そこで別れた。
空に残っていた明るさはとうに消え、外では松明の火が揺れている。
不意に外が騒がしくなった。
天幕を出ると、近くにいた騎士たちが次々とキャンプの外側へ駆けていく。
ユホがすぐに駆け出し、カーリナがその後を追う。
自分たちも続いた。
人の間から、次々と騎士や避難民がキャンプへ入ってくるのが見えた。
肩を貸し合う者もいれば、泥だらけのまま歩いている者もいる。
騎士たちの先頭に、兜を外した見覚えのある顔があった。
赤毛に顎髭のユーハンだ。
鎧は泥で汚れ、これまで見たときよりもひどく疲れているように見える。
それでも足を止めることなく、周囲の騎士へ指示を出していた。
「避難民が優先だ。各隊、負傷者の手当てを済ませ次第、状況を報告」
近くにいた騎士が返事をして走り去った。
「御父様!」
カーリナが駆け出した。
声に気づいたユーハンが振り向き、驚いたように目を見開く。
「カーリナ?」
「本当に……無事だったんですね」
「ああ。心配をかけたな」
ユーハンが答えると、カーリナは何度も頷いた。
その様子を見ていたユホも二人のもとへ歩いていく。
「団長、お疲れ様です」
「ユホか。防備はどうなっている?」
「はい。柵の補強はほとんど完了し、今は堀の完成を急いでいます」
親子三人が揃ったというのに、やり取りはあっという間に騎士団の話へ戻った。
まあ、今の状況では仕方がないか。
ユーハンがこちらへ顔を向ける。
「おお、ヒデキ殿!」
「お久しぶりです」
「なぜここに……」
ユーハンの視線が、自分の後ろへ移る。
「レオノールたちも一緒だったのだな」
「はい。皆で北部の支援に来ました」
「そうか。それは心強い」
短く答えたユーハンが、周囲を見回した。
戻ってきたばかりだというのに、休む暇もなさそうだ。
「ヒデキ殿。カーリナたちも来てくれ。今の状況を説明する」
ようやくラティスで何が起きたのかを、直接聞けるらしい。
ユーハンの後について団長用の天幕へ入ると、中では数人の騎士が待っていた。
その中に、見覚えのあるフレデリックがいた。
フレデリックはユーハンを迎えるため一歩前へ出る途中で、
自分に気づいたようだが視線を止めただけで何も言わなかった。
「団長、お戻りになりましたか」
「ああ。待たせたな。フレデリック、堀の完成見込みは?」
「このまま作業を続けられれば、夜明けまでには」
「夜明けまでか……」
ユーハンの顔が険しくなる。
「間に合わない可能性がありますか?」
「ああ。ラティスを出たときに、すでに南下は始まっていた」
フレデリックの表情が引き締まった。
ユーハンが自分たちへ振り返る。
「ヒデキ殿たちにも聞いてもらおう。
これからここで戦ってもらう以上、状況は知っておいてもらいたい」
「分かりました」
返事をしたところで、後ろから小さな声が聞こえた。
「おい、ヒデキ。ウチらまで入ってていいのか?」
振り返ると、ボニーとリーザが天幕の入口近くに立ったまま、
こちらを見ている。
二人とも騎士たちから少し距離を取っていた。
ユーハンも二人へ目を向ける。
「そういえば、そちらの二人は?」
「ボニーさんとリーザさんです。
今日から私たちと同じパーティーになりました」
「今日から?」
ユーハンが少し驚いたように眉を上げた。
「はい。北部へ来る前に加入してもらいました」
「そうか。それなら二人にも聞いてもらおう。
これから共に戦うのであれば、知っておく必要がある」
「だそうです」
ボニーへ声をかけると、ようやく入口から離れた。
リーザもその横についてくる。
「まず、ラティスのことから話そう」
ユーハンが全員を見回した。
「ラティスは西の山脈方面から流れ込んでくる魔物を食い止めるため、
騎士団の前線拠点として使っていた。
方角でいえば、リヴァーサ地区側になる」
「魔物は突然増えたんですか?」
「いや。魔力禍発生直後から流入は続いていた。
ただ、それまでは騎士団で対処できる数だった」
ユーハンが一度息を吐いた。
「状況が変わったのは昨夜だ。深夜になってから魔物の数が急激に増えた。
討伐しても次が来る。部隊を立て直している間にも別の群れが接近し、
次第に押し返すことができなくなった」
昨日の深夜。
第一陣として北へ向かった冒険者たちは、
その頃にはすでにこちらへ来ていたはずだ。
それでも押し返せなかったということか。
「団長、Sランクはいるんでしょうか?」
カーリナが尋ねた。
「確認できたのは二体だ」
二体。
自分たちはSランクの魔物と何度も戦ってきた。
だからこそ、それが普通の魔物とはまるで違うことも知っている。
「その二体の進路は?」
フレデリックの問いに、ユーハンが頷いた。
「私が最後に確認した時点では、二体とも南へ進路を取っていた」
天幕の中が静かになった。
フレデリックもユーハンへ視線を向けたまま、口を開かない。
「今、どこまで来ているかは分からない。
だが、少なくともラティスに留まってはいない」
堀の完成を急がせる理由はこれか。
さっきまでなら、夜明けまでに完成なら十分だと思ったが、
その夜明けより先にSランクが二体こちらへ来るかもしれないのか。
「今朝になっても状況は変わらなかった。
団員や冒険者たちが疲労し、こちらの戦力は衰える一方、
魔物の流入はとどまるどころか、勢いを増し……
三の鐘頃、ラティスを維持するのは不可能だと判断した」
そこまで聞いて、ようやくノルデで聞いた話へつながった。
「それで、ラティスを放棄したと……」
口にしたあと、誰もすぐには話さなかった。
ユーハンが静かに自分を見る。
「ああ」
短い返事だった。
「住民はどうされたんですの?」
リーザが尋ねる。
「一度に全員を避難させるのは困難だった。
戦況が悪化してから住民をいくつかの集団に分け、
護衛を付けて順次こちらへ退避させた」
移動式ゲートを出たときに見た人たちが頭に浮かぶ。
泣き止まない子供を抱いていた母親。
片方の靴を握りしめ、同じ名前を呼び続けていた老人。
泥に汚れた服のまま地面を見つめていた人たち。
あの人たちは先にラティスを離れ、ここへたどり着いていたのか。
「最後に残った避難民と部隊をまとめていたため、私の帰還が遅くなった」
それなら、さっきユーハンと一緒にキャンプへ入ってきた人たちが、
最後の集団ということになる。
「ラティスを出た魔物は、全部こちらへ向かっているんですか?」
「いや」
ユーハンが首を横に振る。
「東へ向かう群れも確認している。そちらはコルボラ方面だ」
東にはコルボラ。
南にはこの難民キャンプ。
ラティスから逃げられたからといって、終わりではないようだ。
魔物が街を奪ったところで止まってくれたわけでもない。
「南下する群れがあることはこちらでも把握しています」
フレデリックが口を開く。
「ですが、Sランク二体まで南へ向かっていたとは……」
「あくまで私が最後に確認した時点での話だ。今も同じ進路かは分からない」
「つまり……」
もう一度、頭の中で整理する。
「ラティスが落ちたというより、
ラティスで止めていた魔物を止められなくなったということですか?」
ユーハンが頷く。
「そのように認識してもらって構わない」
ようやく全体がつながった。
ラティスという一つの街が落ちただけではない。
そこで支えていた防衛線そのものが崩れ、
北部全体がこちらへ押し込まれている。
そして、次に魔物を止めようとしている場所が、この難民キャンプなのだ。
ユーハンがフレデリックへ向き直る。
「夜明けまでには、何としても堀を完成させたい」
「はい」
外から杭を打つ音が響いてくる。
柵、掘りかけの堀、山のように積まれていた石。
防備が完成するまでに魔物が来る。
それなら、完成するまで前で止めるしかない。
「フレデリック、配置は任せる。堀が完成するまで、前で食い止める」
「承知しました」
「私は戻った部隊の状況を確認してくる」
ユーハンはそう言い残すと、数人の騎士とともに天幕を出ていった。
フレデリックが残った騎士たちへ次々と指示を出していく。
短いやり取りを交わした騎士たちは、それぞれ天幕の外へ出ていった。
最後の騎士を見送ったフレデリックが、ようやくこちらへ顔を向けた。
「ヒデキ殿、お久しぶりです」
「お久しぶりです」
「まさか、またこのような場所でお会いするとは思いませんでした」
それには同感だ。
前に一緒に戦ったときも魔物の群れを相手にしていた気がする。
どうもフレデリックと再会すると、のんびり話をする状況にはならないらしい。
「ヒデキ殿たちは、五人で一つのパーティーということでよろしいですか?」
「はい」
今日できたばかりの五人パーティーだ。
ただ、一昨日はオーガプリンセスと六十一回もの戦闘を繰り返している。
連携は十分なはずだ。
フレデリックがユホへ顔を向ける。
「ユホ」
「はい」
「お前もヒデキ殿たちと動け。右翼へ入ってもらう」
「分かりました」
いつの間にか五人から六人になった。
もっとも、ユホはパーティーメンバーになったわけではない。
今だけ同じ場所で戦う騎士ということだろう。
それにしても、右翼か。
街宣車など持ち合わせていないのだが。
「右翼ですか?」
「はい。防衛線の右翼をお願いします。
細かな陣形はヒデキ殿たちにお任せします」
フレデリックとは以前にも一緒に戦っている。
こちらの戦い方を知っているから任せてくれるのかもしれない。
それなら、特に騎士団の戦術を意識することなく、普段の戦い方でよいだろう。
「それだったら……
カーリナとボニーさん、それにユホさん。三人で前衛をお願いします。
私とリーザさんがその後ろ。レオノールちゃんは一番後ろの配置とします」
五人がそれぞれ頷いた。
三人だけだった頃と比べれば、ずいぶん厚みのある並びになったものだ。
特に前衛が三人いるのは心強い。
カーリナとボニーに加えてユホまでいるなら、
自分とリーザが魔法を使う時間も作りやすいはずだ。
ただ、相手は迷宮で待っている魔物ではない。
どれだけ来るのかも分からない。
次がいつ来るのかも分からない。
しかも、その中にはSランクが二体いる可能性まである。
「それでは、移動しましょう」
フレデリックに促され、団長用の天幕を出た。
外では松明の明かりの中、まだ大勢が作業を続けている。
誰も手を休めようとする者はいない。
夜明けまでには完成させようと、皆必死に働いている。
「急ぎましょう」
フレデリックの声に従い、自分たちは右翼へ向かった。
***
キャンプの明かりを背に、フレデリックの後を追っていく。
右翼へ着く頃には松明の間隔も広くなり、
辺りを照らす光はずいぶん弱くなっていた。
前方には暗い平原が広がり、
右手では数人の冒険者が丸太を組んだ腰ほどの柵のそばで武器を確かめている。
左手にも少し離れて騎士たちの姿があり、
そのさらに向こうにも松明の火が点々と続いていた。
暗闇へ目を凝らすと、その手前には尖らせた丸太を斜めに組んだ木組みが、
ところどころに置かれている。
松明の明かりを受け、突き出した杭の先だけがぼんやり浮かんでいた。
足元には浅く掘られた溝があり、その脇に木箱が置かれている。
蓋の隙間から水の入った容器や布に包まれたものが覗いていた。
フレデリックが、そこにいた騎士たちへ声をかける。
「ここはヒデキ殿たちに任せる。お前たちは中央へ回れ」
「はっ!」
騎士たちはすぐに武器や荷物をまとめ、
キャンプ沿いに中央の方角へ走っていった。
空いていた場所へ都合よく入れられたわけではないらしい。
自分たちが来たことで、別の場所へ人を回せるということか。
「ヒデキ殿、この一帯をお願いします」
「分かりました」
「ユホ、周囲との連携も頼む」
「はっ」
フレデリックはそれだけ告げると、今度は右翼のさらに先へ歩いていった。
少し離れた冒険者たちに声をかけ、その先でも別の騎士と話している。
中央も左翼も含めて、ああやって人を動かしているのだろう。
後ろを振り返ると、少し離れたところでは、
キャンプを囲む柵の外側で、今も大勢が堀を掘っていた。
松明の火に照らされながら土を運び、木材を打ちつけている。
その手前に自分たちがいる。
ここを抜かれれば、次はあそこだ。
「お兄ちゃん」
レオノールの声に振り返る。
兎耳が暗闇へ向いたまま、小さく動いていた。
「何か聞こえるの?」
「うん。いっぱい聞こえる。こっちに来てるよ」
早い。
まだ何も見えない。
「どっち?」
「前。少し右からも聞こえる」
ユホがすぐに暗闇へ目を凝らした。
「ヒデキ殿、知らせます」
そう言うと、左側にいた騎士へ駆け寄る。
短く言葉を交わした騎士が、さらに隣へ向かって声を張り上げた。
一つ先、そのまた先へと声が伝わっていく。
「カーリナ、ボニーさん、準備を」
「はい、師匠」
「おう」
カーリナが槍を構え、ボニーが武器を握り直す。
戻ってきたユホも二人の横へ並んだ。
自分とリーザも三人に続いて柵の前へ出る。
レオノールだけは柵の後ろに残り、クロスボウを構えた。
周囲も一気に慌ただしくなった。
右手の冒険者たちが柵の前へ出る。
左では騎士たちが盾を構え、その後ろに弓を持つ者が集まっていた。
それでも、まだ前方には何も見えない。
迷宮なら、進むのはこちらだ。
魔物がいる場所もある程度は分かっている。
ここでは暗闇の向こうから何かが近づいてくるのを待つしかない。
これは、どうにも落ち着かない。
やがて遠くの闇が動いた。
最初は目の錯覚かと思ったが、一つだった影が二つ、三つと増えていく。
その後ろにもいる。
さらに右にも、左にも。
レオノールの言ったとおり、いっぱいという表現が一番合っている。
「見えました!」
ユホの声が響く。
周囲からも怒号が上がり、弓を構える音が重なった。
それでも誰も前へ出ない。
魔物の群れだけが、こちらとの距離を縮めてくる。
まだか。
そう思った直後、中央の方角から一筋の炎が夜空へ上がった。
火矢だ。
弧を描いた炎が群れの中へ落ちる。
続けて、右から、左から、いくつもの炎が一斉に空へ舞い上がった。
暗かった平原が赤く染まる。
火矢が地面へ突き立ち、魔物へ突き刺さり、
揺れる炎の向こうに群れの姿が浮かび上がった。
「すごい……」
レオノールの声が聞こえた。
火矢だけでなく、投げ込まれる槍まで間が揃っている。
騎士団の防衛は、想像していたよりずっと組織的だ。
しかし、火矢を浴びても、群れは止まらない。
そのまま距離が縮まると、今度は低い軌道で何本もの槍が飛んでいった。
前列の魔物が倒れる。
だが、その後ろから別の影が乗り越えてくる。
先頭を走っていた魔物が、平原に置かれていた木組みへぶつかり、
横から来た別の魔物を巻き込んで倒れる。
その隣では木組みそのものが押し倒され、後続が踏み越えてきた。
ほんの一瞬だが、先頭の勢いが鈍った。
「来ます!」
ユホの声と同時に、前衛の三人が身構えた。
「レオノールちゃんはそのままで。リーザさんは私のそばをお願いします」
「うん」
「分かりましたわ」
炎に照らされた魔物の群れが迫ってくる。
迷宮なら、まず相手を見て弱点を考えるところだ。
しかし、これだけ入り交じっていれば一体ずつ考えている暇はない。
「カーリナ、無理に前へ出なくていい」
「はい!」
最初の一体へカーリナの槍が伸びた。
突きを受けた魔物の横から別の一体が飛び込んでくる。
そこへボニーが割って入り、さらにその脇を抜けようとした魔物を、
ユホが止めた。
三人の前で群れが詰まる。
ワンドを構える。
前衛へ近づきすぎない場所を狙い、魔法を放った。
横ではリーザも詠唱を終え、別の魔物へ魔法を撃ち込む。
後ろから弦音が響いた。
レオノールの矢が、カーリナへ迫っていた魔物へ突き刺さる。
「お兄ちゃん、右!」
「ありがとう!」
右へ向き直る。
ボニーの外側を回り込んだ魔物へ魔法を放つと、動きが止まった。
すかさずボニーが振り返り、追撃を叩き込む。
「助かった!」
「そのまま前をお願いします!」
視界の端で、別の戦いも動いている。
右手の冒険者たちが簡易な柵を挟んで魔物を押し返し、
左では騎士の盾へ魔物がぶつかった。
さらに遠くでは魔法の光が暗闇を一瞬だけ照らしている。
それでも、自分たちの前から目を離す余裕はない。
一体を倒しても、その後ろから次が来る。
正面を見ていたと思えば、横から別の魔物が飛び込んでくる。
五人でオーガプリンセスと戦ったときとは、まるで勝手が違う。
ただ、前衛が三人いるのは大きかった。
カーリナが正面を止め、ボニーが左右へ動く。
その二人の間をユホが埋める。
抜けそうな相手へ自分とリーザが魔法を撃ち込み、
そのさらに後ろからレオノールの矢が飛ぶ。
六人で戦うのは初めてだが、崩れてはいない。
「次、来ます!」
カーリナの声に前を見る。
火の残る地面を踏み越え、また別の影が近づいてくる。
まだいるのか。
ワンドを握り直した。
右から怒号が上がる。
左からも剣戟が聞こえる。
目の前だけではない。
この暗闇の中で、
横へ広がった防衛線のあちこちが同時に魔物を受け止めている。
そこから先は、どれほど戦ったのか分からなくなった。
前衛が止め、自分とリーザが魔法を放ち、
レオノールの弦音が響くうちにも、また次の影が迫ってくる。
それを何度も繰り返しているうちに、
前方を埋めていた影が少しずつ減っていった。
やがて、新しい魔物が来なくなる。
「終わりましたの……?」
リーザの声に、すぐには答えなかった。
暗闇へ目を凝らす。
火矢の残り火が地面で揺れているが、その向こうに動く影は見えない。
右側の戦闘音が止まり、少し遅れて左側も静かになった。
「レオノールちゃん、まだ聞こえる?」
「んー……近くにはいないと思う」
ようやく息を吐いた。
カーリナたちも武器を下ろすが、ユホだけは暗闇へ身体を向けたまま、
しばらく前方を警戒していた。
ボニーが柵のところまで戻り、置かれていた木箱を開ける。
「水、あるぞ」
その一言で喉の渇きを思い出し、自分も木箱へ近づく。
中には水の入った容器と、いくつかの包みが入っていた。
ボニーが一本を取り上げ、残った中身を覗き込む。
「これだけか?」
「補給が追いついてないんだ。大事に使ってくれ」
ユホが振り返りながら答える。
「へいへい」
そう言いながらも、ボニーは一口だけ飲んで容器を置いた。
レオノールが矢筒へ手を伸ばし、残った矢を確かめている。
そういえば、これまで矢を購入したことがなかったな。
これだけ撃ってきたのに、残りを気にしたこともなかった。
「レオノールちゃん、矢は足りそう?」
「うん。ローレンツさんにもらった矢が、まだいっぱいあるよ」
「ちなみに、どれくらい?」
レオノールが少し考える。
「たしか、二千本くらいって言ってたよ」
二千本。
どんだけ溺愛してるんだよ、あの人。
周囲を見ると、戦いを終えた騎士や冒険者たちも、
それぞれの持ち場へ戻っている。
倒れた者へ駆け寄る人影もあり、後ろでは堀を掘る音がまだ続いている。
「これで終わりなら楽なんですけどね」
思わず口にすると、ボニーが鼻で笑った。
「んなわけねえだろ」
「ですよね」
自分でも分かっている。
ラティスを落としたのは、今の群れだけではない。
夜明けまでは、まだ遠い。
今のは最初の一波にすぎない。
最初の波が去ってから、しばらくは何も来なかった。
その間にも前線では人が動き続けている。
負傷した者が後ろへ運ばれ、使えそうな矢が拾い集められ、
壊れた木組みのそばでは騎士たちが折れた丸太を脇へ退けていた。
こちらも休めるうちに休んでおこう。
カーリナとボニーは簡易な柵に背を預け、
ユホは立ったまま暗闇を見張っている。
リーザは木箱のそばに腰を下ろし、指先でこめかみを押さえていた。
顔色も冴えず、伏せた目元には普段より濃い陰りがある。
レオノールは柵の後ろで矢筒へ新しい矢を補充していた。
***
どれくらい経っただろう。
荒れていた息も落ち着き、身体の熱がようやく引いてきた頃だった。
レオノールの兎耳が、また暗闇へ向いた。
「お兄ちゃん!」
「来たか?」
「うん。またいっぱい来てるよ」
休憩終了だ。
立ち上がってワンドを握ると、カーリナたちもすぐに柵の前へ出た。
レオノールから伝わった情報が隣の騎士へ渡り、その先へ声が続いていく。
やがて暗闇の向こうに無数の影が浮かび上がった。
二度目の火矢が夜空へ上がる。
降り注ぐ炎に照らされ、魔物の群れが一斉に姿を現した。
最初の波で倒れずに残っていた木組みへ先頭の魔物がぶつかり、
尖った丸太が大きく揺れる。
その横では、すでに壊れて空いた場所へ何体もの魔物が殺到していた。
「来るぞ!」
ボニーの声と同時に、再び戦いが始まった。
そこから先は一度目と大きく変わらない。
だが、同じなのは自分たちだけだった。
右側では先ほどまで立っていた冒険者が倒れ、
仲間に肩を貸されながら後ろへ下がっていく。
その空いた場所へ別の騎士が入り、すぐに剣を構えた。
残っていた木組みも、魔物に押されて横倒しになる。
丸太を踏み越えた後続が、そのままこちらへ押し寄せてきた。
それでも、どうにか二度目の群れを押し返した。
だが、終わりではなかった。
息を整えているうちに、またレオノールの耳が動く。
しばらくすると火矢が夜空へ上がり、暗闇の中から新しい群れが現れた。
前で止め、魔法を放ち、矢が飛ぶ。
押し返して休んでも、やがてまた遠くから足音が聞こえてくる。
何度繰り返したのか、途中から数えるのをやめた。
魔物を倒すたびに黒い霧が立ち上がる。
一つが消えるより先に、その向こうで別の黒い霧が広がり、
さらにその後ろから新しい魔物が迫ってきた。
これだけ倒しているのに、まだ来るのか。
最初は平原のあちこちに置かれていた木組みも、
まともな形を残しているものは数えるほどしか残っていない。
右手にあった簡易な柵は傾き、そこで戦っていた冒険者の姿はもうない。
見覚えのあった騎士がいなくなり、代わりに別の者が立っているが、
騎士の数はかなり減っている。
冒険者たちも座り込んだまま立ち上がれない者が増え、
負傷してもすぐには運び出されず、その場に残されている者までいる。
自分たちだけが特別元気というわけでもない。
カーリナの呼吸は荒くなり、ボニーも波が途切れるたびにその場へ座り込む。
ユホは前を警戒し続けているものの、剣を握った腕を何度も振っていた。
レオノールも柵へ身体を預ける時間が増えている。
そしてリーザは、休憩へ入るたびに木箱のそばへ腰を下ろした。
こめかみに触れる仕草も何度か見ている。
それでも次の群れが来れば立ち上がり、自分の横で魔法を放っていた。
自分もワンドを握る腕が重い。
魔法を放つたび、身体の奥に溜まる倦怠感が少しずつ強くなっている。
休んでいれば多少は楽になるが、体力が回復するより先に次が来る。
また一つ、前方で黒い霧が上がった。
その向こうには、まだ魔物の影がある。
その波を押し返し、少しでも休もうと簡易な柵まで戻ると、
リーザが座り込んでいる。
呼吸を整えながら、しばらく何も言わなかった。
「リーザさん、大丈夫ですか?」
「ええ……まだ戦えますわ」
言葉とは裏腹に、その声に力を感じない。
自分もかなり消耗している。
それでも、休んでいるうちに多少は身体が楽になっていく。
そういえば、自分はMPの回復速度を上げていた。
迷宮では、これほど長時間にわたって魔法を使い続けることがなかったから、
あまり意識してこなかった。
しかし、こういう戦いになると、その差は思っていた以上に大きいらしい。
横を見ると、リーザは膝の上へ両手を置き、俯いたままだ。
「リーザさん、魔薬は持っていますよね?」
「ええ」
「使っておいた方がいいんじゃないですか?」
「そうですわね」
リーザが荷物から小瓶を取り出すと、栓を外して中身を口にした。
何度も魔法を使うことになるとは思っていたが、一晩中とは思わなかった。
北へ来る前に買っておいて正解だったな。
「師匠!」
声の方へ顔を上げると、
カーリナが柵の前で槍を持ったまま、こちらを見ていた。
「そろそろ来そうです」
まだレオノールは何も言っていないが、カーリナはすでに槍を構えている
立ち上がると、身体が異常に重い。
だが、魔法を使えないほどではない。
「リーザさん、いけますか?」
「もちろんですわ」
リーザも立ち上がった。
少し遅れて、また火矢が上がった。
夜空へいくつもの炎が弧を描き、その下に魔物の群れが浮かび上がる。
もはや驚くこともない。
どれだけ魔法を使ったか、どれだけ魔物を倒したかも分からない。
リーザは何度か魔薬を使った。
自分は休憩のたびに戻ってくる感覚を頼りに、できるだけ使わずに済ませた。
その差が少し申し訳なくなる。
同じように魔法を使っているのに、自分だけ条件が違う。
だからといって、今さら遠慮して魔法を減らすわけにもいかない。
魔法を受けた魔物が黒い霧へ変わった。
その向こうから来た一体を、ボニーが叩き伏せる。
「まだ来んのかよ!」
「文句を言って帰ってくれるなら、私も一緒に言いますよ!」
「じゃあ、ヒデキ、お前言ってみろよ!」
「なら、聞いてくれそうな魔物を連れてきてください!」
ボニーが何か言い返そうとしたところへ、別の魔物が迫る。
「おっと!」
すぐに武器を構え直した。
こんな会話ができるなら、まだ大丈夫だ。
少なくとも今は。
いつの間にか火矢の数も減っていた。
最初は夜空を埋めるほど上がっていた炎が、今では疎らにしか見えない。
投げられる槍も少なくなっている。
自分たちの持ち場の周囲にいた人数が、最初より少なくなっている。
後ろでは、今も堀を掘る音が続いている。
しばらくして、その波もようやく途切れた。
柵へ戻ろうとして、ふと違和感を覚えた。
暗闇が薄い。
最初は火矢の残り火かと思ったが、違う。
前ではなく、横から光が差している。
東の空が、わずかに白んでいた。
「朝……」
レオノールが呟く。
ようやくか。
夜明けまで、ずいぶん長かった。
カーリナが槍を下ろし、ボニーがその場に座り込む。
ユホも大きく息を吐いた。
周囲でも、空を見上げている騎士や冒険者がいる。
終わったわけではないが、それでも、一晩を耐えきった。
そう思った瞬間だった。
「お兄ちゃん」
レオノールの声がした。
先ほどまで空を見上げていた兎耳が、いつの間にか前方へ向いている。
「どうしたの?」
「まだいるよ」
疲れ切っていた身体が反射的に強張った。
カーリナも槍を構え直し、座り込んでいたボニーが立ち上がる。
ユホも剣を握り、暗闇の残る平原へ目を凝らした。
「どのくらい?」
「一人」
一人?
これまで何度も聞いた、いっぱい来ているという言葉ではない。
東の空が明るくなるにつれ、平原の輪郭も少しずつ見えるようになっていた。
壊れた木組みと荒れた地面の向こうから、人影がこちらへ向かって歩いてくる。
「人でしょうか……?」
リーザの声が聞こえた。
逃げ遅れた避難民か?
いや、団長が連れてきたのが最後の一団だったはずだ。
周囲でも、休んでいた騎士や冒険者たちが立ち上がり、
次々と武器を構えていく。
人影が近づくにつれて、その姿がはっきりしてきた。
カーリナやボニーよりも頭一つ以上は高く、かなり大柄に見える。
大きな身体を包んでいるのは、戦場には似つかわしくない派手なドレスだった。
朝の光を受けるたび、極彩色の生地が鮮やかに浮かび上がる。
さらに近づく。
顔には、遠目でも分かるほど濃い化粧が施されていた。
何だ、あれ?
見た目だけなら、人にしか見えない。
団長は、Sランクを二体確認したと言っていた。
目の前のこれが、その一体なのか?
鑑定スキルを発動すると、目の前に文字が浮かび上がった。
ドラゴンクイーン Lv.55
やっぱり魔物じゃないか。
しかも、名前からして嫌な予感しかしない。
一晩中戦ったあとに、これかよ。




