第83話 ヴァサ北
ヴァサ北の初日、小迷宮に入る前に、魔物の情報を三人で共有した。
騎士団の地図によると8階層がサイクロプス、11階層がオーガ。
目的の指輪へ続く階層だ。
「師匠、騎士団によると、サイクロプスが現れるのは早くても明日、
オーガの方は四日後くらいになるそうです」
「そうすると、今日は無理に探さなくてもよさそうだな……」
「はい。ですので、今日は各階層の魔法陣を踏んで回るだけにしましょう」
「ねえ、お兄ちゃん。今日はこれ、使わないの?」
レオノールがマジックバッグから取り出して見せてきたのは、
昨日手に入れたウロボロス。
蛇が自分の尾を噛むように丸まった、あの妙な輪っかである。
「今日はまだ使わないかな。使う時は言うから、それまで大切に持ってて」
「うん! わかった」
ようやく手に入れた再戦用の切り札。
これで準備は一段階進んだ。
準備が進んだということは、それを使う相手に近づいたということでもある。
喜んでいいのか、悲しむべきなのか、少し判断に困る。
念願かなって購入した高級調理器具を目の前にし、
料理するのが億劫でコンビニ弁当を食べているような気分である。
例えが合っているかはともかく、気が重いことだけは確かだ。
「お兄ちゃん、今日は何階層まで行くの?」
レオノールが小屋の扉の前で、クロスボウの肩紐を確かめながら尋ねてきた。
「8階層までが目標かな。できれば11階層の魔法陣も踏んでおきたいけど」
「11階層まで……」
レオノールの兎耳がピクピクと少しだけ動いている。
怖がっているというより、どちらかというと楽しみにしているようだ。
「無理はしないよ。今日は敵を探す日じゃなくて、道を覚える日だ」
「うん、わかった」
「ノーラちゃん、危なかったらすぐ下がってね。ボクが前に出るから」
「うん。お姉ちゃんありがとう」
カーリナが嬉しそうに胸を張る。
その姿だけ見ていると、今から向かう場所が迷宮の奥ではなく、
近所の丘にでも出かけるように見えてくる。
実際には、石壁の向こうから魔物が出てくる、
たいへん健康によろしくない、下手をすると死んでしまう散歩道なのだが。
小屋を出ると、森の空気はまだ冷たかった。
ヴァサ西よりも木々が密に感じられ、朝の光が枝葉に細かく砕かれている。
鳥の声は聞こえるのに、迷宮の入口だけは妙に静かだ。
その黒い口を見ていると、毎回のことながら足が一瞬だけ重くなる。
慣れたと言えば慣れた。
だが、慣れたから怖くないわけではない。
怖さを抱えたまま歩けるようになっただけだ。
「よし、行こう」
自分の声に、カーリナとレオノールが頷いた。
***
初日は事前情報通り、サイクロプスにもオーガにも遭遇することなく、
11階層まで魔法陣を踏んで回るだけで終わった。
その甲斐あって、今朝は8階層まで一瞬で来られる。
中間部屋の魔法陣から光が消えた瞬間、レオノールの兎耳がぴんと立つ。
遅れて、通路から響く重い衝撃音が耳に届いた。
方角は……手前、いや奥か?
「お兄ちゃん、誰か戦ってるよ」
今日はサイクロプスのSランク魔物カーネイジアイがリポップする見込みだ。
誰かがそいつと戦っているというのか?
「レオノールちゃん、距離は?」
「んー、そんなに遠くないと思う。あっちの方」
レオノールが奥エリアを指差した。
大きな戦闘音――魔物同士のものと考えるには都合が悪い。
レオノールが言うように、冒険者の『誰か』が戦っているのだろう。
相手はアーマードサイクロプスか、はたまたカーネイジアイか。
どちらにせよ、中間部屋まで音が轟くとはかなり激しい戦闘なのだろう。
辺鄙な小迷宮だが、自分たち以外にも冒険者がいても不思議ではない。
それがカーネイジアイの現れる今日ということは、
『誰か』の狙いも自分たちと同じく指輪と考えておくべきか。
槍を握り直したカーリナが口を開く。
「師匠、カーネイジアイかもしれません。ここで逃すのはもったいないです」
「ちょっ、ちょっと待て。まず状況を確認するのが先だ。
誰かが戦っているんだ。下手したら邪魔になってしまうかもしれないぞ」
「あれ、この声。カーリナお姉ちゃん、ついてきて」
「ノーラちゃん待って、ボクが前を走るから」
何かを聞き取ったレオノールが急に走り出した。
カーリナがすぐに横へ並び、レオノールを追い越すように前へ出る。
おいおい、お兄ちゃんと師匠を置いてけぼりにするんじゃないよ。
まったく、冒険者同士の小競り合いなどごめんなのだが。
先を走る二人の後を追い、通路を走る。
奥に進むほど、戦闘音ははっきりしていった。
石床を打つ音は重いが、それだけではない。
短く鋭い金属音が続き、誰かが武器で受け流しているのが分かる。
壁には新しい傷が走り、床には砕けた石片が散っていた。
次の角の手前で、レオノールが急に足を止めた。
「リーザ! しっかりしろ、リーザ!」
聞き覚えがある声。
ヴァサ西の村で別れたばかりの、強くて真っ直ぐな声。
ボニーだ。
「師匠、ボニーさんです!」
通路の中央で、ボニーが片手剣を構えていた。
小柄な身体が肩で大きく揺れ、腕も脚も細かく震えている。
それでも、彼女は一歩も下がろうとせず、
背後の壁際に倒れているリーザへ声をかけ続けている。
ブロンドの長い編み込みが石床に広がり、ワンドが手から離れて転がっている。
出血はここからでは確認できないが、リーザから起き上がる気配を感じない。
ボニーと対峙するのは、葡萄染のロングドレス姿の人物。
右目を覆う革の眼帯、細身の体型だが、空気の圧だけが異様に重い。
片手に握られた斧は短いが、刃の角度が少し動くだけで、
首筋の皮膚が先に反応した。
カーネイジアイ
サイクロプスのSランク魔物――ノルデの迷宮30階層で戦ったことがある。
ロジャーたち『大過の天秤』の六人と共闘し、苦戦しながら倒せた相手だ。
音もなく間合いを詰め、左目でこちらの動きを測ってくる。
あの視線をまともに受ければ、体の自由を奪われてしまう。
足が止まれば、次に斧が襲ってくる。
ボニーが剣を振ると、カーネイジアイは静かに半歩ずれ、
片手斧で軽々と剣筋を弾いた。
軽く弾いたように見えたのに、ボニーの体勢が崩れかけた。
まずい、あのままでは、次の一撃を受ける場所がない。
「レオノールちゃん、リーザさんへ。呼吸と外傷を確認。
動かせそうなら壁際の奥へ寄せる」
「うん!」
「カーリナ、ボニーさんの前線支援。正面から受けるなよ。槍で間合いを作れ」
「はい、師匠!」
二人に指示を出してワンドを構えると、カーネイジアイの左目がこちらを捉えた。
まともに見返せば前と同じように身体の自由を奪われるので、
左目から視線を外して足元へ狙いを下げる。
刺さるような視線、本当に面倒な相手だ。
「アクア・バレット!」
水弾を低く撃つ。
狙いは身体ではなく、やつの足元だ。
石床で水が弾けると、カーネイジアイの足運びがほんのわずかに乱れた。
その一瞬で、カーリナが前へ入る。
槍の穂先がボニーの横から伸び、カーネイジアイの踏み込みを止めた。
「助太刀します!」
「!? なんでここに!」
「説明は後です!」
ボニーは驚いた顔をしたが、すぐに剣を握り直した。
声は荒く、呼吸も乱れているが、剣先は落ちていない。
リーザを背にして、ここまで一人で踏み止まっていたのだ。
レオノールは低く走り、リーザのそばへ膝をついた。
クロスボウを床に置かず、片手で支えたまま顔を寄せる。
小さな手がリーザの首元と口元へ動いた。
「お兄ちゃん、息はある。血も出てない」
「わかった、そのままそばについて。動かせそうならなるべく離れて」
「うん」
レオノールは壁に沿ってリーザを引きずりながら距離を取っている。
カーネイジアイが首を傾けた。
左目が、カーリナ、ボニー、自分の順に動いたように見えた。
感情は読めないが、どこから崩すかを測られているような感覚だけが残る。
次の瞬間、片手斧が静かに上がった。
「ボニーさん、横へ流します。ボクに合わせてください」
「おう!」
カーネイジアイの足音はほとんど聞こえなかった。
なのに、次の瞬間には間合いの内側に入り、二人に斧が斜めに落ちる。
カーリナが槍の柄で斧の軌道を横へ押し、
ボニーの剣が反対側から刃先を外へ逸らした。
自分は前衛二人の肩越しに撃てる位置を探す。
水弾ひとつで助けになる場面もあれば、邪魔になる場面もある。
便利な魔法ほど、使いどころを間違えると自分の未熟さを派手に晒してしまう。
一歩、左へずれる。
カーリナの槍とボニーの剣が作った隙間、狙えるのは足首付近だけだ。
「アクア・バレット!」
低く水弾が走ると、カーネイジアイの足元で弾けた。
石床が濡れ、静かな足運びが一拍だけ止まる。
カーリナが槍を突き出し、ボニーが片手剣で斧の手元を牽制した。
深くは入らなかったが、カーネイジアイの歩みは止まった。
「ボニーさん、下がれますか?」
「下がれるなら、とっくに下がってる!」
良い返事ではないが、状況はよく分かった。
ボニーはリーザを背にしているから、下がれないのだろう。
「ボニーさん、リーザさんは避難させました。
カーリナ、倒しに行かず、まずは隙を見て後退だ」
「はい、師匠!」
「ボニーさんはカーリナに合わせて。無理に一人で受け止めないでください」
「そんなの分かってる!」
分かっている声には聞こえなかったが、剣の位置は変わった。
カーリナの槍が正面の距離を取ると、ボニーの片手剣が斧の動きを追う。
二人の間に役割ができたようだ。
遅れて、自分の後衛位置も決まった。
レオノールがリーザのそばでクロスボウを構え直した。
幼い身体が壁に寄り、リーザを庇うように半身を入れていた。
救護を優先しながらも、矢を向けられる角度を探している。
「レオノールちゃん、撃つのは自分が合図した時だけ。
今はリーザさんを守って」
「うん。あたし、こっち見てる」
カーネイジアイの視線が、今度はレオノールの方へ流れかけた。
その瞬間、自分は水弾を床へ撃ち込む。
「アクア・バレット!」
水しぶきが上がり、カーネイジアイの目がこちらへ戻る。
後衛が注意を引くなど、できれば避けたい仕事だ。
だが、今はレオノールとリーザへ視線を向けられる方がまずい。
カーネイジアイが一歩踏み込むが、音は静かだ。
静かなのに、間合いだけが一気に詰まる。
片手斧の刃が横へ滑った。
「カーリナ、右!」
カーリナが槍を引き、ボニーが剣を差し込む。
斧の軌道がわずかにずれ、刃先が壁をかすめると、石が薄く削れ、粉が舞う。
重さに刃の鋭さまで加わり、壁が裂けた。
あれを腕で受けたら、骨が残っても使いものにならないな。
「師匠、止めます!」
「いや、無理だろ。流すだけでいい、深追いをするなよ」
カーリナが頷き、槍の穂先を下げた。
ボニーも横へ踏み直す。
その二人を見て、カーネイジアイの一つ目が細くなったように見えた。
次の一撃が来る……さっきより速いだろうな。
その予感は、嫌な形で当たった。
カーネイジアイが踏み込むと、先ほどより低い軌道で片手斧が滑った。
「カーリナ、下!」
「はい、師匠!」
カーリナが槍の柄を下げ、ボニーが片手剣を斜めに差し込んだ。
斧の刃は二人の武器に触れた瞬間、軌道を変え、石床を浅く裂いた。
受け止めたら終わりだ。
あれは重さで潰すだけの武器ではなく、
受けた武器の隙間へ刃を滑り込ませてくる。
「正面で止めるな。斧の向きをずらしてください」
「分かってる!」
「ボクが押さえます!」
カーリナの槍がカーネイジアイの胸元へ伸びる。
カーネイジアイは半歩だけ横へずれ、片手斧の柄で穂先を払った。
戦っているというより、こちらの失敗を待っているように見える。
カーネイジアイの視線が壁際へ流れ、左目がリーザとレオノールをとらえた。
「アクア・バレット!」
水弾を床へ叩き込む。
水しぶきが跳ね、カーネイジアイの視線がこちらへ戻った。
助かった、というより、狙われ直しただけだ。
判断としては正しいのだが……気分としてはまったくよろしくない。
カーネイジアイが片手斧を持ち替えた。
刃が上からではなく、横から滑ってくる。
カーリナが槍を引き、ボニーが一歩踏み込んで剣を当てた。
二人で角度を作り、斧を壁側へ逃がすと石壁が裂けた。
粉が舞い、頬に細かい痛みが走る。
「レオノールちゃん、撃てるか?」
「うん。狙える」
「斧を持つ手。外してもいい、動きを止めて」
レオノールが膝立ちのままクロスボウを構えた。
リーザのそばを離れず、身体だけをこちらへ向けている。
矢が放たれ、カーネイジアイの手首近くをかすめた。
深く刺さったわけではないが、斧の角度が一瞬だけ乱れた。
「今!」
カーリナが踏み込むと、槍の穂先がロングドレスの裾を裂き、足元へ走った。
ボニーも反対側から片手剣を振り、斧を握る腕へ圧をかける。
カーネイジアイの歩みが止まる。
「アクア・バレット!」
足元へ水弾を撃ち込む。
一瞬だけ視線を切れればいい。
飛び散った水が左目を覆い、カーネイジアイの首がわずかに傾いた。
その一拍で、カーリナの槍が胸元へ入り、ボニーの剣が脇腹を斬る。
どちらも浅いが、初めてカーネイジアイの姿勢が崩れた。
「押し込むな、離れて!」
言った直後、カーネイジアイの斧が跳ね上がった。
カーリナが身を引き、ボニーが剣で刃をそらす。
斧は空を切ったが、風だけで髪が揺れた。
近すぎる。
崩れた相手の間合いに、こちらが踏み込まされている。
カーネイジアイの左目が細くなり、今度は自分を見ている。
「アクア・バレット!」
視線に気を付けながら、水弾を足元へ連続で撃ち込む。
濡れた石床の上で、カーネイジアイの静かな足運びが乱れた。
カーリナはそれを逃さなかった。
「ボニーさん!」
「おう!」
カーリナの槍が斧の柄を押さえ、ボニーの片手剣がその下から腕を払う。
斧が完全に落ちたわけではないが、それでも刃の向きが外れた。
自分はもう一発、水弾を撃つ。
今度は足首で水が弾け、カーネイジアイの膝が沈む。
細身の身体が一瞬だけ前へ傾いた。
「カーリナ、今だ!」
「はい!」
槍が真っ直ぐ伸びた。
葡萄染のロングドレスの中央を貫き、穂先がカーネイジアイの胸元へ深く入る。
続けて、ボニーの剣が横から腹部を斬った。
カーネイジアイの左目が、こちらを見た。
怒りも苦痛も読めない。
ただ、最後までこちらを測っているような視線だった。
次の瞬間、輪郭が崩れた。
葡萄染のロングドレスも、革の眼帯も、片手斧も、黒い霧にほどけていく。
第二形態へ移る前に倒せたか。
あの二振りの斧を相手にせずに済んだのは幸運だった。
「リーザ!」
ボニーが剣を取り落とし、よろめくようにリーザに駆け寄った。
「おい、リーザ! しっかりしろ」
レオノールはリーザのそばで顔を上げた。
「安心して、リーザさんは息してるよ。寝てるだけみたい」
「そうか……リーザ……」
気が緩んだボニーが力なく床に座り込む。
「ボニーさん。一度、中間部屋まで下がりましょう。休むのは後で。
さあ、手を貸しますよ」
「ああ、大丈夫、ウチは歩ける。それよりリーザを運んでやってくれないか」
「わかりました。カーリナ、前を頼む。レオノールちゃんはボニーさんを頼む」
「はい、師匠!」
「うん!」
「ウチまで面倒見られるほど弱ってないぞ」
「弱っていない人は、そういうことを言う前にまっすぐ立てます」
ボニーが膝に手をつきながら立ち上がったが、足元は少し揺れている。
リーザのワンドを拾い、レオノールと一緒に身体を支える。
力の抜けた身体は自分で姿勢を保ってくれず、
重みがそのまま支える側へかかってくる。
リーザは細身の体型だが、これでは体重に関係なく、
人ひとりを運ぶのは荷物を持つのとはまるで違うのだ。
どこかに持ち手があれば別だろうが。
カーネイジアイは倒したが、勝ったと喜んでいる場合ではない。
意識を失ったリーザを、まずは中間部屋まで運ばなければならない。
ヴァサ北での二日目は、まだ終わってくれそうになかった。




