龍満楼の店主、異世界に転移する
焼き上がった餃子を皿に移して振り返ると、カウンターの端が空いていた。
「……あれ」
小田桐さんが座っていた席には、水の入ったコップと、割り箸の袋だけが残っている。箸はない。トイレかと思って五分待ったが、戻ってこなかった。
「あの人、食い逃げするような人じゃないでしょ」
女房が洗い物の手を止めて言った。そんなことは陳にも分かっている。十年近く通ってきて、頼んだものは必ず全部食べて帰った男だ。会計のとき陳が「腹いっぱいになったか」と聞くと、毎回腹をさすりながら「はい」と答えた。
その小田桐さんに、今日はまだ何も食わせていない。
陳は冷めていく餃子を横目に、中華鍋を火にかけ直した。次の客の炒飯を作らなきゃいけない。鍋に油を回したとき、鍋の底が金色に光った。
気がつくと、石の床の上に立っていた。右手に中華鍋、左手にお玉を持ったままだった。
壁には鍋や包丁がずらりと掛かっていて、大きなかまどが三つ並んでいる。どこかの厨房のようだが、日本ではない。白い帽子の男たちが野菜を刻む手を止めて、こっちを見ている。
一人が包丁を置いて床に膝をつくと、残りの全員がそれに続いた。
「炎の調理神様が、降臨なされた……」
「違う。中華屋だ」
誰も聞いていなかった。
目の前に、薄く光る板が浮かんだ。【中華鍋掌握】、【油跳ね無効】、【大盛り補正】と並んで、最後の行は【残すと罪悪感付与(範囲)】だった。
「なんだ、最後のは」
陳はお玉で板をつついてみたが、手応えはなかった。
廊下のほうから足音が近づいてきた。先頭は若い剣士で、その後ろから、見覚えのある中年が鼻をひくつかせながら入ってきた。鎧なんか着ているが、間違いなかった。
「この匂い……おやじ?」
「小田桐さんか」
二人ともしばらく黙った。
「あんた、餃子どうすんだ。冷めちまったぞ」
「すみません……」
小田桐さんは本当に申し訳なさそうに頭を下げた。若い剣士が、勇者様のお知り合いですか、と小声で聞いている。勇者だと言われても、陳にはカウンターの端で炒飯をかき込む姿しか思い浮かばなかった。
「とりあえず、ここでも大盛りやるか?」
「はい」
即答したあとで、小田桐さんの顔がこわばった。若い剣士が気まずそうに口を挟んだ。
「あの、勇者様は神託で、米と麦を止められていまして」
「……なんだそりゃ」
事情を聞くのに三十分かかった。米と麦の代わりに肉と卵は好きなだけ食べてよいと言われたので、小田桐さんは本当に好きなだけ食べたらしい。城の食料庫は十日で空になり、料理長は寝込んだ。困った宮廷魔術師たちが、腕のいい料理人を呼ぶ召喚陣を描いたのだという。
小田桐さんは床を見ていた。
聞き終わって、陳は厨房の空っぽの棚を見回した。
「肉ばっかり焼いてりゃ、そりゃなくなる」
かごの底に残っていた葉物を一つ取って、鍋の横に置く。
「野菜でかさを増しゃいい。それで腹いっぱいになる」
城の兵士の話では、魔王が倒れたあとも、残党の一隊が北の砦に居座っているという。何度か攻めたが、守りが固くて落とせずにいるそうだ。
陳は話を最後まで聞くと、鍋を拭きながら尋ねた。
「そいつら、何食ってんだ」
兵士はきょとんとした顔をした。
「籠城して半年になりますから……もう干し肉くらいしか残っていないかと」
「なら、話は早ぇ」
翌朝、陳は砦の前の野原に屋台を出した。城の厨房から借りた鍋と食材を、石を組んだかまどの上で使うだけの店だった。魔獣の肉を薄く切って、キャベツに似た葉物と一緒に強火で炒める。小田桐さんの分は、米も麺も抜いた肉野菜炒めを大皿に盛った。
風下が砦だった。
昼過ぎには壁の上に兵士の顔が並んだ。どれも頬がこけている。陳は火を強くして、鍋を振る音をわざと大きくした。
日が暮れる頃には、門から一人、二人と出てきて屋台の前に並び始めた。一人の若い兵士が、皿を受け取るなりかき込み始めた。泣いていた。何か月ぶりかの温かい飯だったのだろう。陳はその兵士の皿に、黙って肉を足した。
最後に出てきたのは、角の生えた大柄な将軍だった。剣を地面に突き立てて、屋台の前に立つ。
「これは罠か」
「腹減ってんだろ。食え」
皿を差し出す。
「残すなよ」
将軍はしばらく皿を見ていたが、やがて剣から手を離して、黙って全部食べた。空になった皿を返すとき、陳はいつものように聞いた。
「腹いっぱいになったか」
将軍は少し考えてから、小さくうなずいた。翌朝、砦の門は開いたままになっていた。
ひと月後、城下町の一角に赤い暖簾がかかった。龍満楼、異世界支店。入口には陳が自分で書いた「大盛り無料」の張り紙があって、その下に小さく「内臓脂肪は自己責任」と書き足したのは小田桐さんだった。
小田桐さんは今日も昼に来て、カウンターの端に座った。
「おやじ、今日は控えめで」
「肉野菜炒めの大盛りな」
「控えめって言いましたよね」
「うちの基準じゃ、それが控えめだ」
会計のとき、陳はいつものように聞いた。
「腹いっぱいになったか」
「なりすぎました。最後の一口を残そうとしたら、胸が痛くなって」
陳は、最初の日に見た板の、最後の行を思い出した。どうやら店の中まで届くらしい。
その頃、荒川区の龍満楼のシャッターには、一枚の紙が貼られていた。
店主不在のため、当分のあいだ女房が作ります。味は少し変わるかもしれません。
冷めた餃子は、まかないで女房が食べた。




