↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/4

龍満楼の店主、異世界に転移する

焼き上がった餃子を皿に移して振り返ると、カウンターの端が空いていた。


「……あれ」


小田桐さんが座っていた席には、水の入ったコップと、割り箸の袋だけが残っている。箸はない。トイレかと思って五分待ったが、戻ってこなかった。


「あの人、食い逃げするような人じゃないでしょ」


女房が洗い物の手を止めて言った。そんなことは陳にも分かっている。十年近く通ってきて、頼んだものは必ず全部食べて帰った男だ。会計のとき陳が「腹いっぱいになったか」と聞くと、毎回腹をさすりながら「はい」と答えた。


その小田桐さんに、今日はまだ何も食わせていない。


陳は冷めていく餃子を横目に、中華鍋を火にかけ直した。次の客の炒飯を作らなきゃいけない。鍋に油を回したとき、鍋の底が金色に光った。


気がつくと、石の床の上に立っていた。右手に中華鍋、左手にお玉を持ったままだった。


壁には鍋や包丁がずらりと掛かっていて、大きなかまどが三つ並んでいる。どこかの厨房のようだが、日本ではない。白い帽子の男たちが野菜を刻む手を止めて、こっちを見ている。


一人が包丁を置いて床に膝をつくと、残りの全員がそれに続いた。


「炎の調理神様が、降臨なされた……」


「違う。中華屋だ」


誰も聞いていなかった。


目の前に、薄く光る板が浮かんだ。【中華鍋掌握】、【油跳ね無効】、【大盛り補正】と並んで、最後の行は【残すと罪悪感付与(範囲)】だった。


「なんだ、最後のは」


陳はお玉で板をつついてみたが、手応えはなかった。


廊下のほうから足音が近づいてきた。先頭は若い剣士で、その後ろから、見覚えのある中年が鼻をひくつかせながら入ってきた。鎧なんか着ているが、間違いなかった。


「この匂い……おやじ?」


「小田桐さんか」


二人ともしばらく黙った。


「あんた、餃子どうすんだ。冷めちまったぞ」


「すみません……」


小田桐さんは本当に申し訳なさそうに頭を下げた。若い剣士が、勇者様のお知り合いですか、と小声で聞いている。勇者だと言われても、陳にはカウンターの端で炒飯をかき込む姿しか思い浮かばなかった。


「とりあえず、ここでも大盛りやるか?」


「はい」


即答したあとで、小田桐さんの顔がこわばった。若い剣士が気まずそうに口を挟んだ。


「あの、勇者様は神託で、米と麦を止められていまして」


「……なんだそりゃ」


事情を聞くのに三十分かかった。米と麦の代わりに肉と卵は好きなだけ食べてよいと言われたので、小田桐さんは本当に好きなだけ食べたらしい。城の食料庫は十日で空になり、料理長は寝込んだ。困った宮廷魔術師たちが、腕のいい料理人を呼ぶ召喚陣を描いたのだという。


小田桐さんは床を見ていた。


聞き終わって、陳は厨房の空っぽの棚を見回した。


「肉ばっかり焼いてりゃ、そりゃなくなる」


かごの底に残っていた葉物を一つ取って、鍋の横に置く。


「野菜でかさを増しゃいい。それで腹いっぱいになる」


城の兵士の話では、魔王が倒れたあとも、残党の一隊が北の砦に居座っているという。何度か攻めたが、守りが固くて落とせずにいるそうだ。


陳は話を最後まで聞くと、鍋を拭きながら尋ねた。


「そいつら、何食ってんだ」


兵士はきょとんとした顔をした。


「籠城して半年になりますから……もう干し肉くらいしか残っていないかと」


「なら、話は早ぇ」


翌朝、陳は砦の前の野原に屋台を出した。城の厨房から借りた鍋と食材を、石を組んだかまどの上で使うだけの店だった。魔獣の肉を薄く切って、キャベツに似た葉物と一緒に強火で炒める。小田桐さんの分は、米も麺も抜いた肉野菜炒めを大皿に盛った。


風下が砦だった。


昼過ぎには壁の上に兵士の顔が並んだ。どれも頬がこけている。陳は火を強くして、鍋を振る音をわざと大きくした。


日が暮れる頃には、門から一人、二人と出てきて屋台の前に並び始めた。一人の若い兵士が、皿を受け取るなりかき込み始めた。泣いていた。何か月ぶりかの温かい飯だったのだろう。陳はその兵士の皿に、黙って肉を足した。


最後に出てきたのは、角の生えた大柄な将軍だった。剣を地面に突き立てて、屋台の前に立つ。


「これは罠か」


「腹減ってんだろ。食え」


皿を差し出す。


「残すなよ」


将軍はしばらく皿を見ていたが、やがて剣から手を離して、黙って全部食べた。空になった皿を返すとき、陳はいつものように聞いた。


「腹いっぱいになったか」


将軍は少し考えてから、小さくうなずいた。翌朝、砦の門は開いたままになっていた。


ひと月後、城下町の一角に赤い暖簾がかかった。龍満楼、異世界支店。入口には陳が自分で書いた「大盛り無料」の張り紙があって、その下に小さく「内臓脂肪は自己責任」と書き足したのは小田桐さんだった。


小田桐さんは今日も昼に来て、カウンターの端に座った。


「おやじ、今日は控えめで」


「肉野菜炒めの大盛りな」


「控えめって言いましたよね」


「うちの基準じゃ、それが控えめだ」


会計のとき、陳はいつものように聞いた。


「腹いっぱいになったか」


「なりすぎました。最後の一口を残そうとしたら、胸が痛くなって」


陳は、最初の日に見た板の、最後の行を思い出した。どうやら店の中まで届くらしい。


その頃、荒川区の龍満楼のシャッターには、一枚の紙が貼られていた。


店主不在のため、当分のあいだ女房が作ります。味は少し変わるかもしれません。


冷めた餃子は、まかないで女房が食べた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。