第42小節目 ♫ ピアノと鑑と自由の左手
学院内で彼女は『練習曲エリーゼ』の異名で知られている。
生徒たちをとことん鍛えることで有名であり、とりわけ基礎には厳しい。
クロウリーは普段、自由にオカリナを演奏するタイプだ。
生まれながらの天才であり、即興や感覚を重視し、決められた型にはまるなど考えたこともなかった。
だからこそ、彼が一年生で必修講義『ピアノ基礎I』を受けた時は大変なことになった。
『その自由すぎる左手、即座に矯正する!』
ピシィ!
クロウリーの左手に鋭い一撃が飛ぶ。
長年使い込まれた、深い飴色の指示棒を片手に、エリーゼが彼を睨む。
(もっと自由に弾かせてくれたっていいじゃないか……。)
しおしおになりながら、何度そう思ったことか。
そんなわけで、彼はこの”牢獄”から一刻も早く抜け出すべく、必死に、時に音を上げそうになりながらも基礎を勉強した。
そして奔放な彼の割には一年も留年することなく、学院を卒業できたのであった____。
エリーゼの背を追いかけるように、二人はホールへ入り、ステージを登ったかと思うと、さらにその奥へと歩いていった。
研究室はピアノ棟のホールの舞台裏にあった。
そこは大型の楽器を搬入できるように設計されており、表舞台の華やかさとは対照的に、実用性重視の無骨な空間が広がっていた。
壁沿いには木箱や楽器ケースが積まれ、天井には照明や舞台装置のための機材が複雑に組まれている。
ここで本番を控える奏者たちは、楽器を運び入れたり、出番を待ったりするのだろうか。
ユーリはふと、そんな情景を思い浮かべる。
大きな舞台で演奏した経験のない彼女だが、想像すると胃がキュッと締めつけられるような感覚を覚えた。
誰もいない舞台裏を静かに抜けると、一つの小さな扉があった。
エリーゼがその扉を開ける。
そこが彼女の研究室だった。
つづく




