buzz.7 帝国のレギオ
前後を塞ぐ二頭の黒い影。その圧倒的な質量と野獣の体臭に、ユキオは死を覚悟した。しかし、隣に立つ邑人英二の表情は、凪いだ水面のように静かだった。
「観測士としての実力行使は、あくまで最後の手段だ。……幸い、ここには有事対応に優れた専門家がいる」
邑人は銀色の装置に指を触れ、淡々とした口調で続ける。
「ここは地球の専門家にお任せしようじゃないか。ユキオ君、せっかくの機会だ。彼らの戦術をよく勉強させてもらうといい」
「えっ……?」
ユキオが声を漏らすのと同時に、邑人英二は銀色の箱を両手で捧げ持ち、深く意識を沈めた。
パチリ、と硬質な音を立てて蓋が跳ね上がり、内部に鎮座する二つのカプセルが太陽を凌駕する輝きを放つ。
光の粒子が収束した先。そこに現れたのは、昨夜ユキオが幻視した黄金の少女――ミツバチの女王、ミェリナだった。
彼女は透き通った翅を高速で羽ばたかせ、小さな妖精のようにユキオの眼前にホバリングする。
「人間、私たちの戦い方をお見せしましょう」
凛とした声が響く。ミェリナは、驚くユキオの顔面に小さな羽虫のように迫ると顔に手をかけ、逃げる間も与えずその唇を重ねた。
「うっ……!」
唇の隙間から流れ込んできたのは、芳醇な花の香りと、脳を灼くような濃厚な蜜―――蜂蜜に含まれる糖分がインスリンの分泌をわずかに促し、脳内へのトリプトファンの取り込みを助ける。これにより、トリプトファンが幸せホルモンと呼ばれるセロトニンに変わる。これを原料として、脳の松果体で睡眠ホルモンのメラトニンが合成される―――大量のトリプトファンを含んだ甘いハチミツがユキオを眠りに誘う、ユキオの意識は急激な多幸感と共に暗転した。
次に目を開けたとき、世界は一変していた。
ユキオもミェリナと同様の小さな体となり、鈍く光る青銅の鎧を纏い、荒野に立っていた。
目の前には、同じくトリブヌス・ミリトゥム(千人隊長)を思わせる軍装に身を包んだミェリナが、毅然とピルム(短槍)を握っている。
「貴方は『観戦武官』として従軍してください。我が手勢を護衛として配属します。貴方は今、この百人隊の長です」
彼女が指し示した背後には、白銀の甲冑に身を固め、整然と隊列を組むミツバチ兵の軍団が、猛々しい羽音をエンジン音のように響かせて控えていた。
ミェリナは休む間もなく、空中に展開する無数の兵たちへ、矢継ぎ早に号令を飛ばす。
「マニプル(中隊)、ファランクス構え! 翼を閉じ、盾を連ねよ!」
白銀の兵士たちが空中で密集陣形を形成し、一個の巨大な槍へと姿を変える。
「コホルス(大隊)、集結! 直ちにレギオ(軍団)へ統合せよ。目標、前方20メートルのツキノワグマ! 呼吸を乱せ、視界を奪え。休む間もなく、連続飽和攻撃を加えろっ!」
突撃の喇叭が鳴り響いた。
白銀の奔流が、黒い巨躯へと殺到する。最初の一撃――数百の針が熊の鼻先と眼球を正確に穿った。巨獣が激痛に咆哮を上げる。その巨大な質量はなす術もなく背を向け、敗走を開始する。
しかし、ミェリナの瞳に慈悲はなかった。
「パシュート・フォース(追撃隊)、発進! 熊の逃げ足を削れ。死の恐怖を、消えないトラウマをその魂に植え付けろ!」
空を埋め尽くす黒雲の追撃隊が、逃げ惑う熊に容赦なく降り注ぐ。それは防衛という名の、完膚なきまでの殲滅戦だった。
(……この蜂たちを、絶対に敵に回してはいけない)
ユキオは百人隊の長としてその光景を見届けながら、戦慄と共に、深く胸を撫で下ろした。里山の静寂の裏側で、帝国のレギオは今も、完璧な秩序をもって勝利を刻んでいた。




