buzz.66 新春ドリーム・フルダイブ(3)
「今やろうと思ってたんだよ、働けばいいんでしょ! あーっ、働きたくないわ。働けって言われるほどやる気なくなるんだよねーっ!」
「自分の巣のタメだろ!? なんで俺がパワハラで仕事を強制しているみたいになってるんだよ!」
夢の世界ののどかな里山に、クロの逆ギレとユキオの悲痛なツッコミが響き渡る。
ユキオはミェリナの麻酔蜂蜜によって意識を失い、クロの夢の中へ強制的にダイブさせられている。当然、元に戻る方法など分からない。当のクロはといえば、クロマルハナバチとしての「ワークライフ・バランス」を土足で乱されたことに腹を立て、すっかりふて腐れてしまっていた。
その時、遅きに失した「チュートリアル・イベント」が発動したようだ。
しかしそれは、厳かな神や高次元知能の管理者ではなかった。あえて言えば、運転免許センターで軽微な違反のある一般更新者向けに行われる安全運転講習というイメージがピッタリの、穏やかな表情で解説してくれるインストラクターであった。
【ビジネスコンサルタントの解説ナレーション~社内教育動画風】
『では、ご覧ください。これが現場のモラル(士気)が崩壊する典型的な瞬間です』
画面中央には、つい先ほどまで繰り広げられていたクロとユキオの不毛な押し問答が、まるで社内研修用のカリキュラム動画のように映し出されていた。不機嫌そうに頬を膨らませたクロの顔で、映像がピッタリと静止する。
『まだバイト経験すらない高校生の高柳ユキオ君には酷な話かもしれませんが、ビジネスの世界において、このような職場環境を作り出してしまう人物に店長やバイトリーダーを任せることは到底できません』
ユキオはまだ、一般的な人間社会でのアルバイトというものを経験したことがない。
あえて言えば、ツェンドリカ率いるスズメバチ軍団という極悪ブラック企業のもと、体育会系の理不尽な泥臭い作業に付き合わされた経験がある程度だ。しかしそれは、現代社会の労働基準法など一切通用しない、圧倒的パワハラと暴力で支配された単なる奴隷労働に過ぎなかった。
『Z世代ならぬ「2億年世代」の女性従業員・クロさんの機嫌やメンタルログを巧みに察知し、自発的なエンゲージメントを引き出すアプローチ……それこそが現代のリーダーシップに求められる必須スキルなのです』
『たとえば、経験豊富な現場マネージャーであれば、ここで以下のような『承認と協働のアプローチ』を展開します』
脳内に、どこかのビジネスコンサルタントが吹き込んだような、洗練された理想のお手本ボイスが朗々と響き渡る。
『クロさん、いつも本当によく頑張ってくれていますね。ウチの巣がこうして回っているのは、やっぱりクロさんの存在があるからこそですよ。実はね、女王様も「クロさんは本気を出せばすごい子だ」と深く信頼されているんです。「次はきっと、驚くような成果を持ち帰ってくれるはずだ」ってね。さあ、私も現場に入って全力でサポートしますから、一緒に最高の蜜を集めに行きましょう!』
【修正過程の解説ナレーション】
『お分かりいただけましたでしょうか。ポイントは大きく4つあります。
① 過去プロセスの承認:『今日の成果』という結果をいきなり詰めるのではなく、『これまでの貢献』を言葉にして承認する。
② 上位評価の伝達(ピグマリオン効果):経営層(女王)からの期待値を伝えることで、自己肯定感を高める。
③ 目標の再設定:強制ではなく「もう少し積み上げよう」というポジティブな目標提示。
④ 伴走型の姿勢:「やれ」ではなく「一緒にやろう」。これでチームへのロイヤリティ(愛着)が劇的に向上します。
成果主義を振りかざして怒号を飛ばすだけのユキオ氏のマネジメント手法では、現場の反発を招くだけです。このままでは難関資格”恒星域観測士”どころか、人間社会のまともな中間管理職にすら就任することは難しいと言わざるを得ません。
私からの解説は以上です。職場環境と人間関係の改善ポイントを押さえて、豊かな「ワークライフ・バランス」を実現してまいりましょう!』
【――ナレーション終わり】
「知るかよ!! なんで俺が蜂の夢の中でマネジメント研修受けなきゃいけないんだよッ!?」
どこから聞こえてくるのか分からない脳内の謎ナレーションに、ユキオは足をバタつかせながらブチ切れた。
しかし、ふてぶてしく苔の生えた岩の上で横になり、完全に「体調不良による早退」をチラつかせているクロの背中を見ていると、背に腹は代えられない気もしてくる。
「……くっ、仕方ない……!」
ユキオは組んだ前脚を胸の前でキュッと握りしめ、揉み手の構えで息を整え、ぎこちない営業スマイルを貼り付けながら、ふてくされるクロの耳元へと慎重に歩み寄った。
「あー……コホン! ク、クロさん……? いつも本当によく頑張ってくれていますね……!」
「……ん?」
クロが片目をうっすらと開けて、胡散臭そうな目つきでユキオを見る。
「ウ、ウチの巣がこうして存続しているのは、やっぱりクロさんの……その、キャパシティのおかげというか……! 女王様もさっき『途中で食べちゃったなら仕方ないよね』って……君のポテンシャルを誰よりも評価しているんだよ! だから……さあ、俺も手伝うから……一緒に蜜、集めに行かないか……?」
必死で作り出した「理想の店長」のふるまい。……が、相手は2億年もの間、適当とぬるま湯の中で生き抜いてきた伝説のマルハナバチである。
クロは「ふーん」と鼻先で答えると、くるりとユキオに背を向け、さらに丸くなった。
「ユキオ、なんか棒読みで心がこもってないんだよね~。あと、それ『今からサービス残業頼むよ』って言われてる感じ~」
(見破られてるじゃねーか!!)
ユキオの付け焼き刃なコンサル手法は、クロの「圧倒的怠惰バリア」の前にあっけなく打ち砕かれた。
【解説ナレーション・2】
『残念ながら、マニュアル通りの言葉掛けだけでは、長年積み重なった悪しき職場風土を打破することはできませんでした。真のリーダーシップとは、相手の価値観に寄り添う泥臭い対話から始まるのです。頑張れ、ユキオ君。君の管理職への道は、まだ始まったばかりです』
「だーかーら! 俺は管理職になりたいんじゃない! 早くこの夢から覚めて家に帰りたいだけなんだよーーーっ!!」
哀しいユキオの叫びが、今日も平和な里山の空へと虚しく吸い込まれていくのだった。
◇ 今、世界を知る意味
(あ……そういえば、俺は何のためにここ《夢の世界》にいるんだっけ……?)
脳内で繰り広げられた謎のビジネスコンサル風ナレーションとクロの塩対応に頭を抱えていたユキオだったが、ハッと我に返った。
そもそも、この異次元すぎる状況は、ミェリナたちが導入した「睡眠学習」という最新のメソッドによるものだったはずだ。妊婦となった母・静江のサポートを最優先で担うと決心した彼女たちが、同時に、宇宙最難関資格「恒星域観測士」の合格を目指すユキオの教育に劇的な成果をもたらすべく仕掛けた、超効率的な教育システム——。
その時、再び脳内に響いたナレーターの声が、ユキオのふとした「気づき」を静かに評価した。
『――これまでの学習成果により、ユキオさんは自身の人間関係ポリシーを再構築され、より効果的で洗練されたメソッドを構築されました。では、実際に演習を始めて頂きましょう。本講習は、講義内容の暗記だけでは成しえない、自らの「気づく力」を身につけることを最重要課題としております』
(そうか……! 夢の中で次々と発生する不条理なイベントをクリアしていくことで、俺自身の『恒星域観測士』としての適性や、問題解決能力のレベルが上がっていく仕組みなんだな! それなら、こんなところで愚痴を言っている場合じゃない。腹を括って積極的に取り組んでいくしかない!)
覚悟を決めたユキオの瞳に、ついに毅然とした確かな光が宿るのだった。
彼は体を屈め、ふてくされて丸くなっているクロの目線の高さまで顔を下ろし、静かに、しかし心のこもった声で語りかけた。
「クロ、さっきは気を悪くさせたなら謝るよ。ごめん。……でもさ、あんなに優しくて大きな心で包んでくれる『クロ女王』に、俺たちが甘えてばかりじゃいられないだろ? 巣のことも、女王のことも、俺たちが守らなきゃいけないんだ」
「えっ……」
不意に真摯な言葉を投げかけられ、クロはぱちくりと大きな目を瞬かせた。
「俺、これから蜜を集めに行ってくるよ。クロは今日までいっぱい頑張ってきたんだから、ここで少し休んでいていいよ」
まるで憑き物が落ちたかのように凛とした表情を見せると、ユキオはくるりと向きを変え、クロマルハナバチとしての決意を持って、一人で森の奥へと歩みを進めた。
その背中には、先ほどの付け焼き刃な管理職ムーブではない、生態系の一員としての自覚が備わっていた。
その場に取り残されたクロは、去っていくユキオの小さな後ろ姿をぽかんと見つめていたが――やがて、慌てたようにむくりと立ち上がった。
「ま、待ってよユキオ〜っ! ユキオ一人じゃ、どの花に美味しい蜜があるか分からないでしょーっ! アタシが行かないとダメなんだから~っ!」
クロは大きなしょい籠を担ぎなおすと、必死にユキオの隣まで追いついた。
「あ、クロ? 来てくれたのか」
「当たり前でしょー! 途中でユキオが迷子になったら困るからねー!」
ぷんぷんと怒ったフリをしながらも、その表情にはどこか嬉しそうな色が混ざっている。
「ありがとう、クロ。頼りにしてるよ」
「えへへ~、任せて~!」
木漏れ日が柔らかく降り注ぐ里山の森。いつの間にか二匹の丸っこいマルハナバチは仲良く肩を並べ、黄金色の蜜が待つ森の奥深くへと、爽やかに飛んでいくのだった。
◇ 澱みより生まれし献血募集人(Blood donor recruiter)
しばらく二人で緑豊かな里山の景観を切り開くようにして歩いていくと、森の奥の開けた場所に「それ」は佇んでいた。
静けさに包まれた木々の中で、明らかに時代錯誤で不気味な異彩を放っている。およそヨーロッパの中世には似つかわしくない古びた木製の屋台なのだが、人が引くための太い取っ手がつき、車体の側面には塗料の乾ききっていないような鮮血色の大きな「赤い十字マーク」がデカデカと書き殴られていた。
「献血にご協力お願いしまーす!」
森の空気を冷たく撫でるように、場違いでどこか虚ろな呼びかけの声が響く。
そこに立っていたのは、中世の修道女を思わせる全身白い修道服に身を包んだ女だった。頭からすっぽりとベール被り、優しく微笑んでいる。左腕にはやはり血のように赤い十字の腕章が巻き付けられている。
「ただいま、血液が深刻に不足しております……。人間に限らず、虫、動物、血液型は何でも構いません。ご協力いただいた方には……上質なブドウ糖を進呈しております」
「……なんだ、ありゃ……?」
ユキオとクロは、修道女の呼びかけに思わず木製の献血屋台の前で歩みを止めた。
この夢の世界は、クロの「楽園主義」によって成り立っているはずだ。それにしては、目の前の屋台と修道女から漂う空気があまりにも生々しく、胡散臭い。
「ねえねえユキオ~、あのお姉さん『ブドウ糖』って言ってるよー? 蜜貰えるのかなー?」
危険を察知するセンサーが欠落しているクロは、よだれを垂らして屋台へと近づこうとする。
「待てクロ! どう考えてもおかしいだろ! こんな森の中で献血なんてあるわけないし、全身の血液を抜かれたらひとたまりもないぞ!」
ユキオが慌ててクロの襟首をつかんで押しとどめた、その時。
カサリ、と修道女の首が奇妙な角度でこちらへと向いた。ベールの奥から、ギチギチと関節が軋むような不快な音が漏れ聞こえる。
「あら……元気の良さそうな、丸々と太ったマルハナバチさんたち……。素晴らしい……とても質の良い『献体』になりそうですわ……」
修道女がそう呟くと同時に、木製屋台の側面がギィと音を立てて開き、奥には、血が満杯になったパックがいくつも吊るされている。
「……ユキオ、近づくな!!」
その瞬間、背後から危険を知らせる声、赤い長髪を荒々しくなびかせたヒチョウが三叉の矛を構えて滑り込んできた。
「あの気配……聖職者などではない! 血を吸い上げる異形の類に違いない!」
以前は甲冑や、警備員の戦闘作業着であったが、眼前のヒチョウは、生態系の守護者のような、先住民族の衣装を纏っている。
普段は狂戦士として三叉の矛を振り回している彼女だが、よくよくその顔立ちを観察すれば、整いすぎた涼しげな目元と豊かなオーバーン(auburn:赤褐色)の髪、そしてどこか浮世離れした透明感を持つその容姿は、ミェリナに次ぐほどの、作中屈指の正統派美少女なのである。
しかし、登場の経緯が理不尽そのものだったため、その神秘的美しさはあまり意識されず、登場の仕方も唐突だったので、見事に台無しであった。
修道女は不敵な、どこか機械的な薄笑いを浮かべたまま、ゆっくりと赤い十字の腕章を撫でた。
「ふふふ……威勢が良いですね……。ですが、拒否権はありませんよ……。さあ、あなたたちの命のしずくを……捧げなさい……」
修道女の背後から、無数の細い管が生き物のように蠢き出し、ユキオたちを取り囲むように伸びていく。
ミェリナが構築したはずの「睡眠学習システム」の中で発生した、あまりにも不穏で、そしてどこか歪んだイベント。
ユキオの「レベルアップのための試練」は、早くも命がけの怪異とのエンカウントへと突入しようとしていた――。
「な、なんだぁぁあ!? 設定盛りすぎだろ! エルフとアイヌのハーフみたいなシャーマン風情の格好で降ってきたと思ったら、なんで毎回そんな雑に登場するんだよ!!」
ユキオが全力でツッコミの声をあげる。しかしヒチョウは、そんな御託には一切耳を貸さず、ふっと息を整えると、左手に握りしめた禍々しい「三叉の矛」を地面に突き立てた。その瞬間、彼女の瞳が冷徹な戦士のそれに変わる。
「……周囲の脅威、確認。ターゲットの危機に際し、ツェンドリカ様の直命を受けし守護者・ヒチョウ、ここに参る!」
凛とした声が森の静寂を切り裂く。その姿は、以前の荒々しい狂戦士とは打って変わって、まるで神聖な儀式を執り行う巫女のようだった。
「あら……? 新しいお供え物ですか……? その血も、とても美味しそうですね……」
不気味な木製屋台の修道女シスターが、ねっとりとした視線をヒチョウへと向け、無数の管を蠢かせた。
ヒチョウは一瞥して冷たく鼻を鳴らす。
「ふん。薄汚い吸血鬼崩れの妖め。我が矛のサビにしてくれるわ!」
「お、おいヒチョウ! 一応そいつ、ただのモブじゃなさそうだぞ! 気をつけて……って、うわっ!?」
シスターの操る管が、鞭のようにしなってユキオに襲いかかる。
だが、ヒチョウは幽鬼のような身のこなしでそれを矛の風圧で払い除け、流れるような美しい所作で薙ぎ斬った。その一撃で、襲いかかる管の束が鮮やかに両断される。
(……あれ? ヒチョウって、こんなにカッコよかったっけ……?)
そのあまりのスタイリッシュな戦闘描写と、ピンと張り詰めた神秘的な美しさに、ユキオは思わず言葉を失う。同じスズメバチの筋肉ダルマ——いや、威風堂々たる女王のツェンドリカや、直情型のウーカンとは一線を画す、まさに「ミスティックなモブヒロイン」としての格が、今まさに急上昇していく瞬間だった。
「ユキオ、ぼさっとしていないで下がりなさい。この程度の雑魚、一息に駆逐する!」
赤髪を美しく靡かせながら、静かに矛を構えるヒチョウ。
その背中を頼もしく見つめながら、ユキオは、ヒチョウがツェンドリカ直属の戦士であることを、今さらなが納得するのであった。
「前世害虫の正体見たり! 吸血鬼ヒトスジシマカよ、我が矛の光を見よ!」
ヒチョウがそう叫んで三叉の矛を天へと掲げると、刃先から眩いばかりの反射光が解き放たれた。それはまるで、真夏の太陽が照りつける苛烈な猛暑の光そのもの——ヤブカの天敵たるスズメバチの威光線(リフレクション)であった。
「熱いぃぃッ!?…焼かれるっ」
白く艶めかしかった修道女の皮膚が、矛の光を浴びた瞬間にじわじわと焼け焦げ、不気味な煙を上げ始める。
淑やかだった修道服のベールが破れ落ち、その下から現れたのは、禍々しい複眼と尖った口先を持つ、醜悪極まりない魔女の顔であった。
「ばーれーたーかーあぁぁぁっ!!」
魔女は金切り声を上げると、人間の筋力では不可能な跳躍をした。直前まで立っていた木製屋台を蹴り飛ばし、頭上5メートルもある巨木の太い枝へと一気に飛び上がる。
木の枝の上に立ち上がり、ギチギチと黒い翅を震わせるその姿は、かつて人間界で無数の害を振りまき、多くの仲間を人間によって叩き殺されてきた、血を吸う羽虫——ヒトスジシマカの怨念が実体化した。まさにおぞましき「前世害虫」の真の姿であった。
「ヒッ……!! マジで蚊のバケモノじゃねえか!!」
ユキオが恐怖で顔を引きつらせ、クロの背後に隠れる。
だが、ヒチョウは一切の動揺を見せない。赤く長い髪は神技の護摩の炎のように立ち上がり、シャーマンの装束を風にはためかせながら、冷徹な美貌に刃のごとき冷笑を浮かべた。
「ふん……正体を現したな。白亜紀より続く我ら蜂族の歴史において、血を啜るのみの羽虫など庭の雑草も同然。ユキオ、目を覆っておきなさい。この不浄なノイズ、我が一撃で塵へと還して見せよう」
三叉の矛をくるりと回すヒチョウの佇まいは、先ほどまでの「首絞めノックダウン」で飛ばされたとは思えないほど、神々しくも儚いミスティックな魅力を放っていた。
「吸血鬼ヒトスジシマカよ、我が矛の光を見よっ!」
ヒチョウの叫びとともに、三叉の矛から放たれたのは、夏の猛暑そのものを凝縮したような、狂暴なまでの苛烈な閃光であった。
「ギィィヤアアアッ!?」
巨木の太い枝の上で魔女・ヒトスジシマカの異形が、鼓膜を切り裂く悲鳴を上げる。直前まで白く美しかった肌は瞬く間に焼けただれ、醜悪な漆黒の皮膚と、おぞましい黒白の斑紋が曝露した。
「逃がさぬ……! 命を貪るのみの羽虫に、このヒチョウの矛を避ける術などない!」
地面を力強く蹴り、ヒチョウの身体が文字通り「光の弾丸」となって上空へ弾けた。
シャーマンの装束が風を孕んで大きく翻り、赤く長い髪が夜空を焦がす炎のように棚引く。その手に握られた三叉の矛が、空中で幾重もの軌跡を描いて踊った。
閃閃閃閃閃閃ッ——!!
「な、なんだあのスピード……ッ!? 見えない!!」
地上で見上げるユキオ(クロマルハナバチ仕様)の眼に映ったのは、もはやヒチョウの姿ではない。枝の周りを縦横無尽に交差する、数重の「光の斬線」そのものだった。
「ひええぇえ!? 速いよー! 眩しいよー!」
クロが短い前脚で目を覆う中、空中で極小の爆発音が連続して弾ける。
ヒチョウの矛先から繰り出される猛威は、音速を超えた連続斬り——いや、もはや空間そのものを光の刃で刻む「神速の屠殺」であった。
ドドドドドドカァァンッ!!
「アガッ……!? ガ、ハッ……!?」
魔女の悲鳴すら、切り刻まれる速度に追いつかない。
鋭利な鋸状の針口が、漆黒の翅が、そして血を肥やしにしてきた肥大した腹部が——一瞬のうちに三十、四十という無数の断片へと細かく分断されていく。
だが、それだけでは終わらない。
切断面から溢れ出そうとした黒く腐爛した血液は、滴り落ちる余裕すら与えられなかった。
三叉の矛が帯びる苛烈なまでの「激光」——猛暑の威光線が、分断された肉片の全てを瞬時に灼熱の業火で焼き尽くしていく。
ジュウッ、と肉の焦げる不快な音が空中で爆ぜ、数十に分断されたヒトスジシマカの肉体は、地面に落ちる前に一片残らず「黒い灰」へと変わり果てていった。
「神聖なる生態系を汚すノイズめ。風に散れ」
ヒチョウが流れるような身のこなしで宙を舞い、軽やかに着地する。
背後では、パラパラと漆黒の灰が残光に照らされながら舞い散り、まるで最初から何も存在しなかったかのように、サラサラと風に流されて消滅していった。
あまりにも圧倒的、かつ凄絶な数秒間の戦闘劇。
地上に取り残されたユキオは、ポカンと開いた口が塞がらないまま、呆然と彼女を見つめることしかできなかった。
静寂を取り戻した森の中。
シャーマンの頭飾りを揺らし、三叉の矛を背に回してフッと息を吐くヒチョウの横顔は、冷徹な戦士の凄みと、息を呑むほどの神聖な美しさを同居させていた。
「……ふぅ。ユキオ、無事か? 害虫の駆除、完了したぞ。―――生態系の中には、このような危険が至るところに潜んでいる。……正平のような包丁捌きの術も持ち合わせないユキオでは、この世界で一年と持つまいよ……」
三叉の矛をゆっくりと収めながら、ヒチョウが冷徹な、しかしどこか憂いを帯びた瞳で言い放つ。風にたなびく赤髪とシャーマン装束の神聖な佇まいは、まさに圧倒的な「主人公(ヒロイン)」そのものだった。
すると、その横で一部始終を見ていたクロが、目をきギラギラと輝かせた。
「凄い! こんな身近に『真ヒロイン』がいたなんて! アタシ、正ヒロインの座をヒチョウちゃんに譲ります! 今日から私は『ユキオのクラスメイトのおせっかい親友ポジション』に下がりますね! ……あ、それと、ついでにサインくださいっ!」
ふんふんと鼻息を荒くしながら、どこから取り出したのか色紙とマジックペンを差し出すクロ。
その完璧すぎる「メタモルフォーゼな身の振り方」に対し、ユキオは堪らず全力のツッコミを叩きつけた。
「なんだそのストーリー中盤テコ入れキャラ登場で、影が翳んで一線から後退した元正ヒロインのような言い方ぁ!? しかもちゃっかり終盤で正ヒロインに復活できる伏線をにじませたキャラ補正にオマエの強靭なメンタルを感じるしかないわっ!!」
「えー? だってヒチョウちゃん、ミェリナちゃんの次に美人だし、バトルもできるし、ミスティックだし完璧じゃないー? アタシは横で『ユキオ〜、あの子と最近どうなの~?』ってニヤニヤしながらジュース飲んでる枠で十分だよー」
「勝手にポジションチェンジして楽な位置に逃げようとするな! そもそもお前、この『夢階層β』の主だろうが!!」
「む……? サイン、とな……?」
差し出された色紙を前に、当のヒチョウは三叉の矛を抱えたまま固まっていた。冷徹な刺客としての威厳はどこへやら、アイヌ・エルフ風の頭飾りの下でパチパチと瞬きをし、酷く狼狽している。
「こ、このような異国(夢世界)の地で、我が花押(サイン)を求められるとは……。ツェンドリカ様からは『監視と排除』のみ命じられており、ファンサービスについてのプロトコルは明確な指示を受けておらんのだが……っ!」
「真面目か!! そこ真剣に悩むところじゃないから!!」
呆れるユキオをよそに、クロは「えへへー、ヒチョウちゃん可愛い~」とすっかり「おせっかい親友ポジション」を満喫し始めている。
不穏な「ヒトスジシマカ」の脅威を退けたはずの夢世界は、結局のところ、いつも通りのカオスで賑やかなテンポへと戻っていくのだった。




