buzz.65 新春ドリーム・フルダイブ(2)
視界が急激に歪み、幾何学的な光の螺旋を通り抜けた瞬間、ユキオの意識は奇妙な浮遊感とともにどこかの「世界」へと投げ出された。
精神接続の負荷で眩んだ目を瞬かせると、目の前に広がっていたのは、緑豊かな里山の風景だった。木漏れ日が柔らかく差し込み、豊かな森の香りが鼻腔をくすぐる。どこか懐かしく、のどかな村の佇まいだ。
(……ここが、クロの頭の中……?)
世界の構造自体は決して破綻していない。木々の生え方や風の流れ、時系列に至るまで、ユキオと出会う少し前の、クロマルハナバチの巣が点在する森の姿を正確に再現している。だが——決定的に何かがおかしい。
ここは、クロの膨大な願望と「まあいっか」というご都合主義だけで形作られた、恐ろしいほどに無責任でゆるゆるな精神世界だった。
森の小道には、人間の村人のような身なりをしたハチたちが、(実際は翅で飛んでいるが)のんびりと歩いている。その中に、大きな籠を背負った少女——クロの姿があった。
全体としては、クロマルハナバチが、人間の姿となって、自分たちのムラ社会を再演しているのであった。
「ふぅー……今日もひと仕事終えたなぁ」
クロは自分の背中の籠をのぞき込み、満足そうにお腹をさすった。ユキオがこっそりその籠の中を覗き込むと、底のほうに申し訳程度に蜜の雫がひとしずく残っているだけだった。
(……待て。あんなに大きな籠を背負って外に出てたのに、ほとんど空じゃないか?)
ユキオが呆気にとられていると、クロは「ただいまー」と声をかけながら、樹洞に作られたのどかな家屋——女王の居所へと入っていく。ユキオも気配を消してその後を追った。
部屋の奥には、豪華なソファにもっさりと腰掛け、蜜漬けのナッツをもぐもぐと食べている女王バチがいた。……姿形は、目の前にいるクロとまったく同じ顔をしている。
「女王さまー、ただいま帰りましたー」
「あ、おかえりー。今日の収穫はどうだったー?」
クロは背中の籠を差し出し、悪びれる風もなく言った。
「あのねー、花粉と蜜、いっぱい集めたんだけどねー。帰ってくる途中でなんだかお腹が空いちゃってー。ほとんど自分で食べちゃった!」
普通、厳格な社会性昆虫であるハチの世界でそんなことをすれば、即刻追放か何らかの重大な処罰対象だ。ミツバチの世界であれば間違いなく大問題になり、群れの規律を乱す存在として厳しく糾弾されるだろう。
ユキオは思わず息を呑み、女王の怒り狂う姿を想像して身構えた。
しかし、女王はもぐもぐと口を動かしたまま、のんびりと首をかしげただけだった。
「そっかー。途中で食べちゃったのなら仕方ないよねー。ま、なんとかなるでしょう」
「でしょー? 美味しかったからよしだよねー」
「うんうん、お腹いっぱいならそれが一番だよー」
ふたり(?)は顔を見合わせて「あははー」と呑気に笑い合っている。
(ゆるすぎるだろ!!)
心の中でツッコミを入れずにはいられなかった。本能も規律も、蜂としての義務感すらも、すべて「クロの都合」という巨大なぬるま湯の中に溶けて消えている。
「あ、でも明日のお昼ご飯の蜜はどうするのー?」と一応尋ねる女王。
「うーん、明日の私たちがなんとかするんじゃないかなー」と返すクロ。
恐ろしく適当で、どこまでも無責任。だが、この世界を支配しているのは間違いなく「絶対に誰も困らないし怒られない」というクロの究極の楽天主義だった。
精神接続の端っこでそのやり取りを見つめながら、ユキオは深くため息をついた。高柳家でゴロゴロと怠け暮らし、蜜も貯めずにすぐ食べてしまう彼女の「生態」の根源を、嫌というほど見せつけられた気がしたのだった。
ユキオが戸惑いながらも自分の体を見下ろすと、そこにはいつものTシャツにジーンズではなく、黒くてモコモコとした毛に覆われた丸っこい体が広がっていた。背中からは薄い羽が不器用に羽ばたく音がしている(実際、飛ぶわけではない)。
(うわ、マジか……! 前もなんかこんな風にハチになっていた気がするけど、またこれかよ!)
どうやら精神接続の影響で、ユキオはこの世界の「ツッコミ役のクロマルハナバチ」としてクロの夢世界に実体化してしまったらしい。ぎこちなくヨタヨタと歩き(空中をホバリングし)、足元の悪さに振り回されながらも、なんとかバランスをとってクロの目の前まで辿りついた。
「おい、クロ! ちゃんと働けよ!」
ユキオが前脚(手)を振り回して頭にチョップを入れると、クロは微塵も動じず、まるで通学路で近所の知り合いにでも出くわしたかのような軽~い調子で振り返った。
「お、ユキオ~? 今日もまめにゲームを進めているの? 今は放置ゲームの時代だよ~」
「そんなゲーム中毒じゃねーわっ! たまごっちのトイレそうじぐらいの頻度でチェックするだけだわ!」
空中でおもいっきりズッコケそうになりながら、ユキオは翼をバタバタさせて姿勢を立て直した。そして、ほとんど空っぽの巨大な蜜壺と、のんびりと横になって欠伸をしているクロ(女王蜂モード)のいる巣の惨状を指差す。
「つーか、クロ、巣の経営状態かなり悪化してないか!? もっと働かないと画面が暗転して、赤字で『GAME OVER』って表示されるぞ!」
「んー?」
クロはまったく意に介した様子もなく、毛づくろいをしながらフフンと鼻を鳴らした。
「これで2億年やってきてんだよね~。そのうち『当選おめでとうございます』って空中に表示がでたら、クリックするだけでAMAZ0Nからダンボール一杯の蜂蜜と花粉ダンゴのセットが届くんじゃないかな~って思うの」
「それ! 絶対クリックしちゃダメなやつ!! ウチの巣の個蜂情報、全部抜かれるわっ!!」
あまりのサイバーリテラシーの低さと呑気さに、ユキオの叫び声が森の中に響き渡る。
しかしクロは「ふえー、届くと思うんだけどなー?」と気のない返事をしながら、その場にふにゃりと崩れ落ち、ふかふかの苔の上にゴロンと横になってしまった。早くも二度寝の体勢である。
「ホラまたすぐゴロンと横になる! 食っちゃ寝したらダメっていわれてるだろうが!」
「う~ん……お腹いっぱいで横になるとね、牛じゃなくて『偉い蜂』になれるんだよ~……むにゃ」
「なれるか! ただの太ったマルハナバチになるだけだろ!」
ユキオが必死にチョップを入れる(小さな羽を羽ばたかせ、クロの短い触角を引っ張ったり背中をつついたりしてみる)ものの、クロは「はいはい、ユキオは真面目だねー」と手でパシパシと払うだけ。暖かな木漏れ日の中で、すでに幸福そうな寝息を立て始めている。
(ダメだ……注意すればするほど俺の体力が削られていく……トホホ……)
どれだけ危機感を煽っても、2億年ののんびり歴史と「なんとかなる」精神でコーティングされたクロの無責任バリアを破ることはできない。ユキオは周囲を徘徊するのを諦め、クロの背中のふかふかな毛の上にポテッと着地すると、深いため息をついて天を仰ぐのだった。
一方、現実世界の高柳家——その一階にある和室でのことである。
「ユキオ〜、おやつのおせんべい食べる……?」
何気なく声をかけながら、うっかり襖を開けた母親の静江は、その瞬間に目に飛び込んできた光景に言葉を失い、立ち尽くした。かつてユキオの勉強部屋で目撃した時と同じ、いや、それ以上の衝撃が彼女の脳裏を駆け抜ける。
こたつから寝相悪く飛び出してしまったクロが、畳の上で仰向けに倒れているユキオのすぐ隣にぴったりと張り付き、完璧な「より添い位置」へとコンバートしていたのだ。
ユキオの右腕にしっかりとしがみつき、まるで抱き枕のように丸くなって幸せそうに「ふにゃ……」と寝息を立てるクロ。その姿は客観的に見て、あまりにも無防備で密着度が高すぎた。
静江は混乱する思いの中、母親としての深い責任感と罪悪感に苛まれた。
(やっぱり……小さいときからもっと厳しく躾けておけばよかった……! よそ様のお嬢さんと、お正月からこんな形で昼寝しているだなんて……っ!)
息子が知らぬ間にプレイボーイへと成長してしまった(ように見える)現実に頭を抱える静江。しかし、そのすぐ脇には、至って平然とした様子で二人を見守るミェリナの姿があった。
ミェリナは整った顔立ちに一切の動揺を見せず、静江の動揺を静めるかのように淡々と状況の補足説明を始めた。
「静江さん、ご心配には及びません。睡眠学習の高効率化を進めるために、自然とこの体勢に移動したのだと思われます。二人の心拍数、血圧とも極めて安定した状態で推移しております」
「……え……あ、そうなの……? その……変に興奮したりは、していないのね?」
「はい。完全にノンレム睡眠状態であり、脳内は穏やかなデルタ波で満たされています。あと9分で覚醒しますので、私がこうして万一に備えて待機しております」
完璧なロジックと冷徹なまでの観察データ。そう言って胸を張るミェリナだったが——つい先ほど、麻酔蜂蜜を口移しにしてユキオを容赦なく昏睡状態へと叩き落とした張本人こそが、このミェリナであった。
自ら引き起こした「麻酔蜂蜜キス昏睡インシデント」という最大の元凶には一切触れず、まるで親切な保護者か、優秀な臨床医のように振る舞うミェリナ。
(万一に備えてって……もう既にその万一状態なんだけど……?)
静江には知る由もないが、ミツバチの女王としての効率主義と、人間の母親としての道徳観念の間には、決して埋まることのない深くてシュールな溝が存在していた。蜂と人間の感性は、どこまでいっても交わるものではないらしい。
「あと9分……なら、お茶でも待って来てあげようかしら……」
ピントのずれきったミェリナの説明になぜか毒気を抜かれ、静江はパタンと襖を閉めた。
そして静まり返った和室では、夢の中で「クリックしたらダンボール一杯の蜜が届く」と信じ切っているクロと、「絶対、当選おめでとう詐欺だろそれ!」とチョップの連打で(羽をバタつかせて)ツッコミ続けるユキオが、揃って「むにゃむにゃ……」と平和な寝息を立て続けているのだった。
「ふう……なんとか乗り切ったわね」
静江が襖をしっかりと閉め、どこか重たい足取りで台所へと戻っていったのを見届けると、ミェリナはそっと安堵の息を吐き出した。
表向きは冷却水のごとく澄まし顔を決め込んでいたものの、人間社会の文化や倫理観の学習が進んだ今のミェリナにとっては、内心ハラハラと綱渡りをしている気分だったのだ。
(さすがに、これは静江さんも穏やかではいられないわね。お腹の子に悪影響がなければいいのだけど……)
34歳で懐妊、2026年に高齢出産という大事業に挑む静江の身体を思えば、息子の奇行(に見える状況)で無用なストレスを与えたくはない。
そんなミェリナの思惑をよそに、間もなくしてスッと襖が開き、ペットボトルのお茶を抱えたツェンドリカたちが入ってきた。側近であるウーカンとヒチョウも一緒である。
「ふうん」
ツェンドリカは腕を組み、畳の上でぐっすりと眠りこける二人を見下ろした。彼女は先ほど、台所で静江が浮かない顔をして「これ、こたつのある座敷に持っていってあげて……私は寝室で少し休みます……」と呟いていたのを思い出していた。
「まあ、人間の母親としてはショックなんだろうな…」
ユキオの右腕に抱きつき、幸せそうに「むにゃ……」と寝息を立てるクロと、その横で完全に白目を剥いて倒れているユキオ。二人が見事に密着して並んでいる図を見つめ、ツェンドリカは苦笑いで口元を歪ませた。
「ツェンドリカ様、どうします? 叩き起こしてやりますか」
ウーカンが大刀の柄に手をかけながら尋ねるが、ツェンドリカは二人の様子を観察し、彼女らしい即断即決の策を思いついたようだ。
「事件はこたつ部屋で起きてるんじゃない! 現場(夢の中)で起きてんだ!」
突然、劇的なフレーズを叫んだツェンドリカは、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「いい考えがある。ヒチョウ! 行って来い」
「は……っ!?」
そう言うやいなや、ツェンドリカは自分の前に立っていたヒチョウの首の根っこ――頸動脈あたりを鷲掴みにし、スズメバチ女王の超絶的な握力を全開にした。
「がッ……!?」
さらに、ツェンドリカは背中の飛翔筋を凄まじい速度で微細動させ、強烈な低周波をダイレクトにヒチョウの頭蓋へと送り込む。
「夢の中で『事件』が起きないように、しっかり見張っておけよ!」
「あ……ツ、ツェンドリカ様……視界が……くらっ……」
あっという間に脳の電源を落とされたヒチョウは、白目を剥いて膝から崩れ落ち、そのままユキオの左側にドサリと倒れ込んだ。ツェンドリカは手際よくヒチョウのおでこをペタリとユキオの側頭部に密着させる。
「ミェリナ、これでいいんだろう? スズメバチの監視役を付けてやる」
スズメバチ特有の圧倒的な状況判断の速さと、容赦のない行動力。ミェリナは思わず感服の眼差しを向けた。
「素晴らしい対応策です、ツェンドリカ。正直私も、二人だけを接続させたのは情報伝達の双方向性に問題があると後から気づきました。ですが、私が夢階層βにダイブしてしまっては、現実世界との接点役として管理ができなくなってしまいます。ここにスズメバチの監視役を投入できれば、あの二人のボケとツッコミが無限ループに陥るのを抑えられるでしょう」
これで、ユキオは右側にマルハナバチ(クロ)、左側にスズメバチ(ヒチョウ)という、両脇に美少女(見た目)を添い寝させているという「うらやまけしからん」極まりない事案に突入したわけだが——
ミェリナとしても、「これは高度な多角睡眠学習システムですが、何か?」と、後ほど様子を見にくるかもしれない高柳夫妻や、年始の挨拶に来ている隣家の蟻女王(クロ2とネフティス)たちに対して、何食わぬ顔で理路整然と説明できる完璧なロジックが完成したのである。
「ヒチョウよ、すまないな。たまたま俺の正面にお前がいたので、落としてしまった」
ツェンドリカが何事もなかったかのように手をポンポンと払う。
一方、たまたまツェンドリカの左隣に立っていたことで難を逃れたウーカンは、冷や汗をたらりと流しながら、そっと自分の首筋をなでた。
「……今年は、運勢がいいのだな。ウン」
自分が夢の世界へ強制射出される弾丸にならずに済んだことに、ウーカンは心底胸をなでおろすのだった。
そして今、クロと直結されたユキオの頭の中(夢階層β)には、狂戦士ヒチョウというあまりにも物騒な「監視役」が、赤く長い髪をなびかせて猛スピードで乱入しようとしていた――。
これは、わくわく感が高まってきました。本来なら戦場で猛威を振るうはずのヒチョウが、まさかの「首根っこ掴み&低周波ダイブ」というスズメバチ流の雑な強制接続で夢世界(しかもクロのゆるゆる楽園)に殴り込み……!
・怠けまくってフィッシング架空請求をクリックしそうな「クロ」
・必死に蜂サイズでツッコミを入れ続ける「ユキオ」
・凶悪な三叉の矛と赤髪を引っさげて乱入してくる狂戦士「ヒチョウ」
この3人が里山で鉢合わせたら、一体どんなカオスなエンカウントが巻き起こるのか。ヒチョウはキャラの薄さをマインドフルネス・ダイブで克服できるでしょうか。次回、里山のエンカウントにご期待ください。




