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女王蜂に育てられた俺~宇宙最難関資格に挑む  作者: 和子


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buzz.64 新春ドリーム・フルダイブ(1)

 新年の匂いは、冷たく澄んだ空気の中にほんのりと混ざるお屠蘇(とそ)の残り香から始まる。


 澄み渡る初空の下、どこかの家から漏れ聞こえてくるような、あるいは頭の中で心地よく響いているような『春の海』の調べ。優美な箏(こと)の音がたゆたう波のように滑らかに鳴り響き、そこに尺八の悠久の息吹が重なる――そんな、静かで、どこか誇らしげな正月三が日の昼下がりであった。


 日差しは冬の低く穏やかな光を縁側に落とし、鏡餅の上にちょこんと載った橙(だいだい)をあたたかく照らしている。雑煮の出汁がふんわりと湯気を立て、静寂に満ちた高柳家の空間を柔らかく包み込んでいた。


 その静けさを軽やかに破るように、カチャリと玄関のドアが開く音が響いた。


「「あけましておめでとうございまーす!」」


 元気いっぱいの明るい声が二つ重なって、正月の凛とした空気に賑やかな彩りを添えた。


 三和土(たたき)に立っていたのは、晴れ着姿……ではないもののきちんとした装いに身を包んだクロ2と、その隣で少し胸を張りつつも居丈高な視線を送るネフティスだった。


 落ちているものを反射的に拾ってしまう習性から、高柳家の靴やサンダルの向きを直して揃え、使っていないものは下駄箱にしまってしまうクロ2と、「冥界の王女たる私が、挨拶に赴いてやったのだぞ」と言わんばかりに顎を引くネフ。蟻の共同統治女王ふたりが揃って、新年の訪れを告げにやってきたのだった。


「あけましておめでとう。今年もよろしく。さあ、ミェリナたちも今日は全員いるから、リビングに入って。おせちもあるし、お雑煮もあるよ。餅はいくついれようか?」


 出迎えたユキオの言葉に、二人は顔を見合わせた。寺田家でしっかり食事を済ませてきたはずの二人だったが、そこは育ち盛りの(そして体内に膨大な群体を抱える)女王たちである。別腹どころか、腹八分目すら遥か遠くにあった。


「わたし、5個で」


 クロ2がごく当然のように指を五本立てると、負けじとネフティスが人差し指をピンと立てて補足する。


「私も5個。3個は雑煮で、2個はきな粉か小豆餡(あずきあん)で」


「あ、わたしも同じの食べたいです」


 クロ2がすかさず乗っかる。一瞬にして合計十個の餅焼きミッションが下された高柳家のキッチンでは、バルミューダとアラジンのトースターが同時に赤々と光を放ち、フル稼働の重連砲火を浴びせていた。

ブレーカーは昨年の内に「60Aアンペア/ 100V・200V対応」の最新設備へと交換済みであり、相撲部屋の家電機器でも運用できる体制ができている。


 二人は手慣れた足取りで廊下をすり抜け、高柳家の奥へと進んでいく。


 途中で通りかかった台所の前。ふと中を覗き込むと、そこには異様な密度の静寂と緊張感が漂っていた。

挿絵(By みてみん)

 無言でまな板に向かって包丁を振るうのは父親の正平だ。熟練の手つきで魚を捌き、美しくお造りを盛り付けている。安定期に入った静江の台所作業の負担を減らすということもあるが、一般的に、新年は奥さんが働かず、旦那さんが調理の大部分を担うのだ。日持ちのするおせちを始め、年末までに一週間分の惣菜は用意してあり、こうして生ものの盛り付けなども正平がやっているのだ。

 そのすぐ横で、ツェンドリカがまるで獲物を狙う猛禽類のような真剣な眼差しで、包丁の刃先と切り身をじっと凝視していた。


 そして、そのツェンドリカの背後。


 黒のタクティカルベストにニーパッド、まるで特殊部隊のような戦闘作業着(タクティカルギア)に身を包んだ、異彩を放つ二人のスズメバチ戦士が直立不動で控えていた。


 龍の意匠が施された大きな青龍刀を構える褐色肌のウーカンと、鮮やかな赤髪を揺らしながら凶悪な三叉の矛を握りしめるヒチョウ。平和なお正月の民家の台所にはおよそ不釣り合いな「関わってはならない狂戦士」たちの威圧感が漂っている。


 正平が魚を一口サイズに引くたびに、タクティカルギアに身を包んだ二人も『スッ』と目線を同期させる。言葉は一切ない。ただ包丁が刺身を裁断する「トン・トン」という音だけが響く、完璧な無声映画(サイレント・ムービー)の空間がそこにあった。


 一瞬、ウーカンと目が合った。キリッとした鋭い眼光でこちらを一瞥する警備員に対し、クロ2は(あ、先日はどうも……)というようにチョコンと小さく会釈を返す。


 一方のネフティスはといえば、プトレマイオス朝の王女であるかのように意に介した様子もなく、ツカツカと素通りしてリビングへと進んでいく。


 言葉のない静寂の中、トースターのチンという焼き上がりを告げる音だけが、シュールに廊下に響き渡っていた。


 リビングに入ると、そこには静江とミェリナが並んでソファに腰かけていた。ミェリナが手に持ったタブレットの画面を静江に示しながら、何やら今後の予定や段取りを教え込んでいるかのようだった。


 その奥に続く和室へと視線をやると、そこではクロがこたつに顔の半分まで埋もれて二度寝に入っていた。すでに朝食として食パン一斤、丼二杯分のお雑煮(お餅は六個)、そして仕上げのデザートとしてあんこ餅ふたつの計八個をきれいに平らげ、至福の満腹感とともにこたつのぬくもりに身を委ねていたのだ。


「むにゃむにゃ……おせちもいいけどカレーもね……」


 昭和の懐かしいCMのような寝言を呟きながら熟睡するクロの脳内は、完全にデルタ波で満たされ、最も深いノンレム睡眠(徐波睡眠)の境地へと達していた。


 ユキオがクロ2とネフティスをリビングへと案内する。先日も寺田夫妻や長女の理恵子と共にこの家を訪れていた二人だったが、年が明けて令和八年を迎えてからはこれが初めての訪問となる。


「クロ2ちゃん、ネフちゃん、あけましておめでとう。去年は心配かけちゃったわね」


 静江が穏やかな笑顔で声をかけると、クロ2は丁寧にあいさつを返し、用意していた一枚の葉書を手渡した。


「あけましておめでとうございます。これはネフティスと私からの年賀状です」


 手渡された年賀状には、美しい晴れ着に身を包んだクロ2とネフティスの写真が印刷されていた。そしてその横には、毛筆による力強く流麗な文字で、


『謹賀新年 本年も皆々様のご多幸をお祈り申し上げます 令和八年』

と、見事な筆致で記されている。


「これ、クロ2ちゃんとネフちゃんが書いたの? まあ、なんて上手なの……!」

静江はそのあまりの達筆ぶりに目を見張り、しきりに感心していた。


 一方、台所では正平とツェンドリカたちの間で、静寂とは裏腹の衝撃が駆け抜けていた。


 正平の淀みない包丁捌きを目の当たりにして、ツェンドリカたちの正平に対する評価はガラリと一変していたのである。


「……包丁を持った手が、まるで流れるようだ」

「正確に魚の骨格の位置を捉えている……」

「人間にこれほど見事な解剖学的センスと能力が存在したとは……」


 以前の彼女たちの評価といえば、惨憺たるものだったのだ。


「……この人間のオスは、明確に戦力外だな。万が一の際、盾代わりに使うか?」

スズメバチの軍団として侵略や生存闘争をくぐり抜けてきた彼女たちにとって、人間の父親である正平の姿は頼りなく映っていた。


「われわれのオスも大概頼りにならないが、これほど脆弱な個体も珍しいな」

冷徹な視線を向けられ、すっかり「一般市民の足手まとい」扱いされていたあの頃からすれば、現在では「驚異的な解剖学的センスを持つ匠」というまさに絶賛の豹変ぶりであった。

「この手際の良さなら、青虫の肉ダンゴを作るのに三秒とかからないぞ」


 狩猟者として最大級の称賛(?)の言葉が飛んでも、正平の手元は一切ブレない。刃先は滑らかに三枚におろされた魚の身を滑り、一切の無駄なく美しい刺し身の盛り合わせへと仕立て上げられていく。


「はは、どうもありがとう。昔から釣りが好きでね、魚を捌(さば)くのだけは独学で身についたんだよ」


照れくさそうに微笑みながらも、正平の手先は迷いなく動き続ける。


実際、妻の静江は魚を捌くのがどうにも苦手であった。実家から魚が丸ごと一匹、尾頭付きで送られてくるといつも処理に困り果て、最終的には正平の助けを求めるのが高柳家の日常なのだ。


家庭内での地味な特技が、まさか異種の女王や狂戦士たちから「至高の解剖技術」として崇められることになろうとは、正平自身思いも寄らないことであった。


台所で包丁を握る背中に注がれる視線は、もはや侮蔑の色を完全に失い、畏敬の念さえ帯び始めていたのだった。


ツェンドリカがゴクリと息を飲み、感嘆の声を漏らす。その背後で警備に就いていたウーカンとヒチョウも、思わず深く頷いていた。


「この手際の良さなら、青虫の肉ダンゴを作るのに三秒とかからないぞ」


 狩猟者として最大級の称賛(?)の言葉が飛んでも、正平の手元は一切ブレない。刃先は滑らかに三枚におろされた魚の身を滑り、一切の無駄なく美しい一刺しへと仕立て上げられていく。


「はは、どうもありがとう。昔から釣りが好きでね、魚を捌くのだけは独学で身についたんだよ」


 照れくさそうに微笑みながらも、正平の手先は迷いなく動き続ける。


 実際、妻の静江は魚を捌くのがどうにも苦手であった。実家から魚が丸ごと一匹、尾頭付きで送られてくるといつも処理に困り果て、最終的には正平の助けを求めるのが高柳家の日常なのだ。


 家庭内での地味な特技が、まさか異種族の女王や戦士たちから「至高の解体技術」として敬意を向けられるとは、正平自身思いも寄らないことであった。


 冬場の中坪漁港では、市場で刺身用の上物が手に入る。寒の時期に脂が乗って身が締まる地魚や、冬が旬の魚介類だ。


 • ヒラメ: 冬の白身の王様。寒さで身が引き締まり、もっちりとした食感と上品な旨味がある。

 • ブリ・カンパチなどの青物大型魚: 冬の冷たい海を回遊・生育するため、脂のりが非常に良い。

 • 地アジ: 相模湾はで通年でアジが獲れるが、冬場も身が厚く美味しく、プリッとした食感。


 台所では、昼食の準備と魚の捌き方を学ぼうとするスズメバチたちの真剣な取り組みが続いていた。包丁を握る正平の横で、ツェンドリカたちが食い入るようにその手元を見つめている。


「ツェンドリカはあちらで忙しいようですから、後ほど私から説明しておきますね」


ミェリナは台所へ一度視線をやり、それからユキオに向き直って言葉を続けた。


「静江さんは、ご懐妊により今年は予想外の不便があるでしょうが、我々が十分なサポートをすることを、ただ今ご説明いたしました。その中でも、静江様の最大の心配事は、ユキオ――あなたの受験勉強体制についてでした」


 世間一般では、大学受験を控えた子女を持つ家庭は、子供の学習サポートに最大限の力を注ぎ込むものだ。静江も当然そのつもりでいたのだが、思いもかけない妊娠・出産予定という事態となり、ユキオの受験に悪影響がないかと深く心を煩(わずら)わせていたのである。


「『全く心配要りません、私たちにお任せください』と、今しがた静江様にお話したところです。私たちはそもそも、ユキオさんの受験勉強サポートのためにこうして来ているのですから。――そうお伝えしました」


 話を聞いていた静江もすっかり安心したようで、その表情は穏やかそのものだ。


 当然、彼女が考える「受験」とは日本の一般的な大学受験のことであり、ユキオが真に目指している「恒星間観測士」の試験のことなど知る由もない。


「ユキオ、本当にごめんなさいね。全く予想外の出来事で、この歳で赤ちゃんだなんて……母親として情けないわぁ」


 申し訳なさそうに身をすくめる静江。するとミェリナは、その謝罪にも似た言葉を制するように畳み掛けた。


「何を仰(おっしゃ)るんですか! 命を授かるというのは、生き物として最も尊い営みです。確かにこれまでは、ユキオさんの勉強を第一に考えて私たちがシフト体制を組み、色々とやってまいりました。ですがこれからは、静江さんをお守りすることが最優先事項となります。ユキオさんの勉強については、第二順位となります」


「えっ……!?」


 思いがけない言葉に、静江の顔色が変わった。


「そんな、ユキオの受験だって同じくらい大切なことです! 私の出産はお医者さんに診てもらえば済むことですし、本当に大丈夫なんですよ!?」


 息巻く静江に対し、ミェリナは彼女を片手で優しく制し、ニッコリと可憐に微笑んでみせた。


「ご心配なく。ユキオさんはすでに、十分な潜在能力をお持ちです。私たちの役割は、その秘められた能力を完全に開花させること。そのための対策も、すでに抜かりなく準備してありますから」


 ミェリナと静江のやり取りを横で静かに聞いていたクロ2とネフティスだったが、ここへ来て黙ってはいられなくなったらしい。


「わたしもお手伝いします!」

クロ2がパッと目を輝かせ、ソファから立ち上がって宣言した。

「そうだ! ユキオさんが夜遅くまで勉強するときは、私がお夜食を作って持って行きますね! 智恵子さんから教わったイナゴの佃煮を、丼に大盛りで持ってきます!」


 クロ2の純粋さから来るお手伝い宣言に、間髪入れずネフティスもフッフと不敵な笑みを浮かべて同じように立ち上がった。


「ふん、食のサポートだけでは片手落ちだな。受験というものには高い教養と品位が必要なのであろう? ならばこの私が、だらしないユキオの礼儀作法を頭から足の先まで徹底的に矯正してやろう。どこの試験会場へ行くにしても、優雅な所作で試験官どもが思わず膝を屈して驚嘆するような女王級の作法を身につけさせてやる」


 見た目13歳相応の姿で胸を張り、完璧なマナー指導を宣言するネフティス。


 あまりの過剰な(斜め上の)親切心の連続に、ユキオは頭を抱えて全力のツッコミを炸裂させた。


「それ手伝いじゃなくて、集中どころか命の危険しか感じねえよ! 試験に合格する前に、イナゴの偏食克服と宮廷マナー矯正のストレスで肉体と精神が別次元に飛ぶわ!」


 クロ2とネフティスの申し出に対して、ミェリナは好意的に賞賛した。

「あら、贅沢を言ってはいけませんよ、ユキオ。二人のお考えは実に合理的です。栄養補給と精神的緊張感の維持――まさにカンペキな環境ですね」

ミェリナがメガネの枠を指先でクイと上げ、冷徹かつ満足気な笑みを浮かべる。


「もちろん、クロ2とネフティスにもご協力をお願いします」


 ミェリナは眼鏡の位置を人差し指で微調整しながら、凛とした声で二人に告げた。


「イナゴ丼や、礼儀作法矯正ではありませんが……具体的な協力内容については後ほどご説明しますね。それより、あちらでお雑煮の準備ができたようですよ。温かいうちに台所でお召し上がりください」


「まあ! お雑煮ですか! ネフティス様、参りましょう!」


「うむ、正平の作る出汁の味わい、楽しみにさせてもらおう」


 食いしん坊の二人をスムーズに台所へ誘導すると、ミェリナは静江に向き直り、母親の不安を払拭するための「解説」を開始した。


「静江さん、ご心配に及びません。私たちは脳科学に基づいた『睡眠学習』という高度なメソッドを活用します。……あちらのこたつで寝こけているクロは、そのテストとして私が先ほど催眠処方で眠らせているのですよ」


「まあ、そうなの!?」


こたつから顔半分だけ出して「……和尚がツーを写そう……肘から~で写そう!」と勢いよく昭和な寝言を叫んでいるクロを指差し、ミェリナは平然と言い放つ。


「さっそくユキオさんにもこれを処方しますので、受験勉強は冬休みの間にほとんど済んでしまう予定です」


「あらぁ……今の科学ってすごいのねぇ」


 何だかよく分からないが凄そうだ、とあっさり納得してしまう静江。しかし、ふと我に返ると、申し訳なさそうに目を伏せる。


「ほんと、ユキオがこれまであんまり勉強してこなかったから、ミェリナさんたちにはご面倒をおかけしますね。大変でしょうけど、よろしくお願いします……」


 不肖の息子が、ガールフレンドとはいえ、よそ様のお嬢さん方に多大なご心配とご苦労をおかけしている――。母親としての責任感から申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった静江は、その目をうっすらと涙で潤ませた。

「ホントに……もっと小さい頃から、厳しく育てていればよかったわぁ……」


「大丈夫ですよ、静江さん」

しんみりとする静江に対し、ミェリナは慈愛に満ちた微笑みを向け、優しく宥めるように言葉を重ねた。


「ユキオさんには、十分な潜在能力があります。……今はただ、それが光の差し込まない深海底の資源であり、しっかり排他的経済水域(EEZ)内に埋蔵されていることが確認されている段階なんです」

めちゃくちゃ希望を持てるような説明に、ユキオのツッコミにレバレッジがかかる。


「最新の科学技術で建造された深海調査船でようやく発見された『眠れる海底資源』かよッ! 採掘コストめちゃくちゃ高い奴! 俺の頭脳の推定埋蔵量はどんだけなんだよ!!」


 間髪入れずにユキオの激しいツッコミが飛ぶ。だが同時にユキオは、「……待てよ? 排他的経済水域の概念と深海資源の採掘技術を絡めた例え……地政学と海洋資源学の勉強としてめちゃくちゃ分かりやすいな……」と、不覚にも感心してしまっていた。キレ芸を維持するのにも高度な知識(地政学)が必要になってきた自分の現状に、ユキオは一瞬遠い目をするのだった。


 元旦の高柳家。

 妊婦の静江を温かく守る平和な空気の裏で、ユキオを囲む「愛の胃袋と精神の矯正包囲網」は、新春の青空よりも高く、どこまでも強固に張り巡らされていくのだった。



◇未知の世界へ


「静江さん、さっそく睡眠学習をスタートさせますね。ユキオさんへの負担も考慮して、まずは10分ほどの短時間で試してみます。すぐに戻りますから、そのままくつろいでいてください」


 ミェリナは柔らかく微笑むと、首をかしげるユキオの腕を引いて、クロがコタツで盛大に寝こけている隣の和室へと移動した。


 スッと静かに閉められる襖。


「え、ちょっと待って……なんで隣の部屋に――」


 ユキオが戸惑う間もなく、ミェリナはユキオの体をくるりと回転させ、自身の正面に向き直させた。そして間髪入れずに、すっと顔を近づけると――その唇をユキオの口元へ重ねた。


「んむッ!?」


 驚愕に目を見開くユキオの口腔へ、甘く濃厚な蜜が流し込まれていく。それは強力な睡眠誘導効果を持つトリプトファンが高濃度で配合された、ミツバチ特製の睡眠誘導蜂蜜であった。


 続いて、ミェリナは華奢な両腕でユキオの体を優しく抱きしめた。


 ゴゴゴ……と、彼女の身体から微細で低い振動が全身へと伝わっていく。とてつもない心地よさと抗いがたい強烈な眠気が一気に押し寄せ、ユキオの意識は急激に落ちていった。


 膝から崩れ落ちるユキオの体をそっと支え、ミェリナはその頭を、コタツで「富士山から写そー!」と寝言を言っているクロの頭へと優しく添え寄せる。


 先に眠りについていたクロの「脳波(デルタ波)」の振動にシンクロするように、ユキオの脳波も一気に1Hz未満の超深層デルタ波へと書き換えられていく。


 ふたつの脳波が共鳴し、広大な夢階層へのゲートウェイが一直線に連結した。


「これで現実時間の10分も経てばレム睡眠へ移行して、すぐにスッキリ覚醒できるわ。……まあ、あちらの『体感時間』で言えば10ヶ月間におよぶドリーム・フルダイブの旅になるけれど」


 眠りについたユキオの額を指先で撫でながら、ミェリナは可憐で冷徹な笑みを浮かべた。


「第一回目のダイブ・パートナーは『クロ』よ。――ユキオ、存分に楽しんできてね」



――沈んでいく。ユキオは足元に踏みしめる感覚を失い、平衡感覚も失っていた

底なしの意識の深淵へ、猛スピードで落ちていく。


 急速に遠ざかる意識の中で、ユキオは心の中で必死に絶叫していた。


(異世界転生かよーーーっ!? 世界を救う大冒険とか魔王討伐とか本当に勘弁してくれよ!! 睡眠学習って言ってたけど……これ、マジで元の世界に戻ってこられるんだろうなーーーーッ!?)


底知れぬ夢の暗闇のなか、ユキオの切実な悲鳴だけが果てしない残響となり、地獄の底までどこまでも続いていくのだった。

《ノンレム睡眠と学習の主な関係》

• 神経活動の再活性化(リプレイ):日中に学習した内容と同じ神経活動パターンが、ノンレム睡眠中に脳内で再び活動し、記憶の再編成(定着や忘却)が行われることが分かっています。

• 記憶の役割分担:

「深いノンレム睡眠」: 陳述記憶(エピソード記憶や事実・単語など)の定着や、不要な記憶(嫌な記憶など)の消去に関わるとされています。

「浅いノンレム睡眠」: 手続き記憶(運動スキルや楽器の演奏など)の固定や結合を促します。

(参考:理化学研究所)


次回、夢の階層で待ち受けるクロとの「10ヶ月の極限レム睡眠学習(+異世界大冒険?)」へ突入します!果たしてユキオは無事に現実世界へ生還できるのか、ぜひ楽しみにお待ちください!

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