buzz.63 書初めは、お年賀に添えて
新春の静謐な和室の中に、墨を刷る音と芳香が漂ってくる。どこからか琴の弦をつま弾くような音が聞こえてきそうな昼下がりだった。
寺田家では、障子越しの淡い陽光が差し込む和室に静かな空気が満ちている。その中央に置かれた大きな座卓の前に座り、クロ2とネフティスは並んで書き初めに取り組んでいた。
二人はすでに、高校卒業程度の膨大な文字知識を身につけている。
それはすべて、分子共鳴転移装置に格納された休眠カプセルの中で、人類文化知識のチュートリアル学習システムから与えられたものだった。歴史も文学も、慣用句も四字熟語も理解している。難解な漢字の読み書きすら理論上は可能であり、現代日本人の平均を大きく上回る知識量を誇っていた。
しかし、その万能にも思える学習システムにも一つだけ意外な盲点があった。ーーー書き順である。
「漢字の形は覚えたのですが、実際に手書きするのは本当に難しいですね」
クロ2は少し緊張した面持ちで筆を握り、慎重に穂先を半紙へ落とした。
文字は読める。スマートフォンやパソコンでの入力も問題ない。だが、いざ自分の手で筆を動かしてみると、どの線から書き始めるのか、どこで止めて払うのかが曖昧になる。知識として記憶している文字と、手を使って書ける文字との間には大きな隔たりがあった。
隣ではネフティスも苦戦していた。
一度左手で宙に文字を描き、頭の中で構造を確認してから半紙へ向かう。しかし書き終えるたびに首をひねり、納得がいかない様子で次の紙へ手を伸ばした。
「知識はあるのですが……これでは中学校で授業を受けるとき、苦労しそうですね」
そう呟く横顔はどこか真剣だ。
ネフティスはクロ2と一緒に新学期から中学校に通い始める、同じ13歳となって学ぶとなれば、黒板を書き写すたびに筆順を間違えるなど、誇り高い彼女には由々しき事態となる。たとえ異世界の女王であっても、人間の教師の前で不自然な文字を書くのはその矜持が許さないらしい。
その様子を傍らから微笑ましく眺めていた耕一は、二人が半紙に文字を書き進めるのを眺めながら穏やかに声をかけた。
「そのためにも、書き初めで練習して、実際に年賀状を書いてみるといいと思うよ。書き順っていうのはね、頭で覚えるものじゃなくて、手に覚えさせるものなんだ」
「手が、覚えるのですか……?」
クロ2が不思議そうに首を傾げる。
耕一は小さく頷き、自ら筆を取った。
墨を含ませた穂先が迷いなく半紙の上を滑る。
すっ。
とめ。
はらい。
流れるような運筆で一文字、また一文字と書き上げられた漢字は、決して達筆を誇示するものではない。それでも長年積み重ねた習慣が生み出す自然な美しさがあった。
「わあ……」
クロ2の口から思わず感嘆の声が漏れる。
ネフティスも文字を書く手を止めたまま目を細めた。
「なるほど。線の順番が、そのまま文字の形になっているのですね」
「そうさ。何度も書いているうちに、手が勝手に動いてくれるようになる。焦る必要はないよ。ゆっくり『書道』を楽しみなさい」
その言葉に、クロ2はぱっと表情を明るくした。
「はい、耕一様! 私、正しい書き順を手に覚えてもらいます!」
姿勢を正し直し、新しい半紙を広げる。筆先にたっぷりと墨を含ませ、目には研究者めいた探究心と、子どものような向上心が同居していた。
一方のネフティスも、負けじと胸を張る。
「ふん……。書き順など造作もないわ。人類の文字文化、このネフティスが完全に克服してみせよう」
そう言いながらも、その眼差しは真剣そのものだった。
再び静寂が和室を包む。
さらさらと筆が紙を擦る音。かすかに漂う墨の香り。
障子の向こうでは春の陽光が庭を照らし、庭の木の枝を飛び渡る小鳥の声がどこか遠くで響いていた。
1月7日の初登校を迎えるための、ささやかで温かな準備の時間。
墨の香りに包まれた和室の中で、クロ2とネフティスは何枚もの半紙を積み重ねながら、人類の文化が長い年月をかけて育んできた「手で覚える知恵」を少しずつ自分たちのものにしていく。
書き初めの練習に没頭していたクロ2とネフティスの前へ、部屋の奥からなにやら持ち出してきた智恵子がゆっくりと姿を現した。
「二人とも、これを見てちょうだい」
そう言って彼女が抱えていたのは、一冊の巨大な本だった。
九十歳になる智恵子の細い腕には少々重たそうなその本は、まるで昭和の家庭に置かれていた電話帳を思わせる分厚さと存在感を放っている。
「まあ、智恵子先生! なんて大きな本なんでしょう!」
クロ2は慌てて立ち上がり、駆け寄って本を受け取ろうとした。
しかし智恵子は穏やかに微笑む。
「大丈夫よ。ありがとう」
そう言うと座卓の上へ慎重に本を立て、外箱を外した。現れた表紙には長い年月を経た書物だけが持つ重厚な風格が宿っている。縦265mm、横190mm、厚さ68mm、重厚な布張りである。
「『三体筆順字典』というの。理恵子が昔、使っていたものなのよ」
その名を聞いて耕一も懐かしそうに目を細めた。
寺田家の長女、理恵子。
現在は臨床栄養学の分野で高く評価される研究者であるが、若い頃から学問だけでなく書道にも秀でていた。十八歳で師範の免許を取得したという経歴は、彼女の豊かな教養を物語っている。
その理恵子が少女時代、何度も何度も開き、ページの角を擦り切れさせながら学んだ一冊。
言うなれば、努力の跡が刻み込まれた宝物だった。
「これにはね、楷書、行書、草書の三つの字体が載っているの。それぞれの正確な書き順や運筆も細かく書かれているから、参考にしてみて頂戴」
智恵子がゆっくりとページをめくる。
ぱらり。
その瞬間、古い紙と墨が混ざり合った芳醇な香りがふわりと広がった。
そこには美しい手本が整然と並び、一画ごとの筆運びが図解されている。単なる辞典ではない。そこには先人たちが積み重ねた文字文化の知恵が凝縮されていた。
「なんと……!」
最初に身を乗り出したのはネフティスだった。
「ひとつの漢字に、これほどまで多様な崩し方が存在するのか……」
彼女の瞳がきらきらと輝く。
十三歳の少女の姿をした若き女王の探究心に、完全に火がついた瞬間だった。
ページをめくるたびに彼女の視線は真剣さを増していく。
「楷書は骨格を示し、行書は流れを生み、草書はひとつの芸術にまで昇華している……。面白い。実に面白いぞ、書道というものは」
その隣でクロ2も字典を覗き込みながら感嘆の息を漏らした。
「すごいです……。楷書の正しさだけでなく、行書や草書の流れるような筆遣いまで記されているなんて……」
細い指先を宙に動かし、手本の筆順を追う。
先ほどまで迷いながら運んでいた指先は、今では自然な軌跡を描いていた。
「理恵子様は、こんなに素晴らしいものを学ばれていたのですね」
知識が知識として蓄積されるだけではない。
文字が身体の感覚へ変わっていく。そんな感覚をクロ2は確かに覚え始めていた。
ネフティスは満足そうに鼻を鳴らした。
「フン、気に入ったわ」
わ彼女は腕を組み、まるで新たな戦術書でも発見した将軍のような顔で言った。
「これさえあれば筆遣いは完璧を極める。中学の教壇で黒き壁画――黒板に文字を走らせ、教師どもの度肝を抜いてやろう!」
「まあまあ、ネフちゃん」
智恵子が肩を揺らして笑う。
「先生を脅かしちゃだめよぉ」
「いえ……脅しではありません。文化的優越性の証明です」
「大して変わらないと思うけどなあ」
耕一がお茶をすすりながら苦笑した。ーーー和室に笑い声が広がる。
障子の外では初春の風が庭木を揺らし、小鳥のさえずりが聞こえていた。
人類の歴史を振り返れば、蟻は遠い昔、一億五千万年前に蜂の仲間から分岐し、気の遠くなるような時間を生き延びてきたという。
それに比べればこの字典が再び開くまでの半世紀など、ほんの一瞬に過ぎない。
だが、その一瞬の中にも受け継がれるものがある。
寺田家の和室では、長いあいだ本棚で眠っていた昭和の字典が再び開かれていた。
かつて少女だった理恵子が学び、今はクロ2とネフティスがその頁をめくる。
紙の上に残された筆順は、単なる線の順番ではない。
それは人から人へ、世代から世代へと受け渡される文化の記憶そのものだった。
墨の香りに包まれた静かな和室で、古い字典は再び役目を果たしていた。
若き女王たちへ向けて、確かにバトンを手渡しながら。
【 心を繋ぐ便りと虫料理 】
寺田家の和室には、硯で磨られた墨の香りが静かに漂っていた。
クロ2とネフティスが字典を囲みながら筆順の研究に熱中している傍らで、耕一もまた墨を磨り終え、小筆を手に取る。
「さて、と」
湯呑みを脇へ寄せると、彼は用意しておいた年賀状の束を広げた。
「年賀状の返礼でも書くか」
中国では新年を祝うのは旧正月、春節である。今年の春節は二月中旬に訪れるため、頂いた年賀状の返礼も兼ねて、少し早めの新年の挨拶を書いておこうというわけだ。
葉書にはすでに、鮮やかな晴れ着姿のクロ2とネフティスの写真が印刷されていた。
振袖に身を包んだ二人は、まるで日本人形のように華やかである。耕一はその余白に流麗な筆致で中国語を書き加え始めた。
值此新春佳节即将来临之际
提前向您致以最诚挚的节日问候
祝您在新的一年里身体健康
事业蒸蒸日上
阖家欢乐
(新春の佳節を迎えるにあたり、一足先に心からの新年のご挨拶を申し上げます。新しい一年が、ご健康で、仕事がますます発展し、ご家族皆様が楽しく過ごせる年になりますようお祈り申し上げます)
そこまで書くと、耕一は少し微笑みながら続きを認めた。
我期待着你再次来日本的那一天
到那时
我会为你准备印田鳖蝽料理
(いつかまた日本に来ていただける日を楽しみにお待ちしています。その時はタイワンタガメ料理を用意しておきます)
クロ2が興味深そうに首を傾げる。
「お知り合いの方ですか?」
「ああ」
耕一は頷いた。
「香港の昆虫学者で、陳志明教授という人だよ」
その名を聞いて智恵子も懐かしぬそうな表情になる。
陳志明 教授は香港昆虫学界の重鎮として知られる研究者であり、寺田夫妻とは二十年来の親交があった。
毎年のように日本を訪れては、研究交流の合間に寺田家へ立ち寄る。そして智恵子が腕を振るう虫料理を楽しみにしていた。
イナゴの佃煮。
蜂の子の甘露煮。
セミの唐揚げ。
そして、特に彼のお気に入りだったのがタイワンタガメ料理である。
「昆虫学者なのに昆虫を食べるのですか?」
クロ2が目を丸くする。
「昆虫学者だから食べるとも言えるかな」
耕一は苦笑した。
「陳教授は研究対象を理解するには文化も知らなければいけない、という考え方の人なんだ」
「なるほど。実践的な学問というわけですね」
クロ2は感心したように頷く。
一方のネフティスは妙なところに反応した。
「ふむ。人類の学者とは、研究対象を食べるものなのか?」
「全部が全部そうじゃないわよ」
智恵子が笑う。
「魚の研究者だからって毎日魚を食べるとは限らないでしょう?」
「なるほど。それもそうか」
納得したようでいて、完全には納得していない表情だった。
耕一は葉書を眺めながら、小さく息をつく。
少し前に届いた年賀状には、今年はさまざまな事情から来日できないことへの残念な思いが綴られていた。
長年続いた交流が一年途切れるだけでも、どこか寂しいものだ。
だからこそ、
――寺田家はいつでも歓迎している。
――また来てほしい。
そんな気持ちを伝えたかったのである。
筆を置いた耕一は、完成した年賀状を掲げて眺めた。
晴れ着姿のクロ2とネフティス。
春節を祝う言葉。
そして、再会を願う一文。
なかなか良い出来栄えだった。
「うむ」
ネフティスも満足そうに頷く。
「これを受け取れば、その陳教授もきっと来日したくなることであろう」
「そうだと嬉しいけれどね」
耕一は笑った。
和室には穏やかな空気が流れていた。
誰もが、この葉書が友情と再会を願う温かな挨拶状として相手に届くものだと信じていた。
しかし。
誰も気づいていなかったのである。
問題は新年の挨拶文でも、晴れ着姿の写真でもない。
そこへ何気なく添えられた、「タイワンタガメ料理を用意しておきます」
という、昆虫好き同士なら微笑ましいはずの一文だった。
それが後になって思いも寄らぬ誤解を生み、ちょっとした騒動の火種になることを、この時のここにいる誰一人として、知る由もなかった。
「ハハ、昆虫学者が、研究のために実体験をするとかそんな大げさなものじゃないよ。ただ、美味しいから食べているだけさ」
耕一は湯飲みを置きながら、実にのんびりした口調で言った。
クロ2とネフティスは座卓に置いた葉書の前で正座し、まるで特別講義でも受けるかのような姿勢で耳を傾ける。
「タガメの美味しさというのはね、まず香りだ」
「香り、ですか。どういうものですか?」
クロ2は授業で教師の講義を聞く生徒のように問い返す。
「フェロモン由来の成分によって、洋梨や青りんごみたいなフルーティーな香りがするんだ。油で揚げるとその香りが立ち上がって、とても華やかになる」
「なるほど……」
ネフティスも真顔で頷く。
「つまり人類は、捕食対象から果実香を再現しようとしているのだな」
「いや、たまたま似ていたと言う程度だ」
「ふむ。しかし面白い。捕食行動に芳香評価という概念を導入するとは」
ネフティスは感心したように腕を組んだ。
クロ2は小さく手を挙げる。
「質問です。洋梨とタガメの関連性は進化生態学的にどのように説明されるのでしょうか」
「そこは僕も専門家じゃないからね」
「なるほど。未解明領域ですね」
即座に心にメモするクロ2。(あとでスマホで調べてみよう)
耕一は少しだけ笑った。
「次に食感だ。丸ごとカラッと揚げてあるから、サクサクしてとてもいい食感だ」
「甲殻類に似ていますか?」
「かなり近いね」
「ほほう…」
ネフティスの目が輝く。
「蟻群体では大型節足動物の外骨格を噛み砕く個体も珍しくない。理論上、その食感には高い適応性がある」
「そういう分析になるんだ……」
耕一は妙なところで感心した。
「そして最後が旨味だ」
「来ましたね」
クロ2が期待に満ちた顔になる。
「中の身にコクがある。噛むほどに旨味が出るんだ」
「はあ」
「ほう」
二人とも純粋な学習者の目をしていた。
沈黙が流れる。
やがてクロ2が結論を述べた。
「整理します」
心のメモを手繰る。
「フルーティーな香り」
「うん」
「甲殻類的な香ばしさ」
「そうだね」
「濃厚な旨味」
「その通り」
クロ2は真剣な顔で頷いた。
「高級食材ですね」
「高級珍味とも言われているよ」
するとネフティスも満足げに頷いた。
「実に…興味深い」
蟻の女王は厳かに宣言する。「本日確認された事実は一つ」
「なんだい?」
「人類は時々、説明を聞く限りでは極めて合理的な食文化を築いている」
「それ褒めてるのかな」
「だが同時に」
ネフティスは続けた。
「説明終了後に実物の写真を見せられると、脳が混乱する。人間は特に…」
「それは否定できないな」
耕一が苦笑すると、クロ2も小さく頷いた。
「知識と視覚認識の不一致問題ですね」
「そう、それだ」
「人類はそれをどう克服するのでしょう?」
「慣れだね」
「なるほど」
二人は同時に感心した。
そして数秒後。
クロ2の心のメモには、
『タガメ ・芳香性あり ・旨味強い ・高級珍味 ・見た目については慣れで解決』
と実に簡潔な研究記録が追加されたのであった。
蟻群体の知性にとって重要なのは先入観ではない。
まず観察し、評価し、記録すること。
そのため寺田家では今日もまた、人類文化の妙な一面が、真面目な顔をした二人の若き女王によって着々と群体データベースへ蓄積されていくのだった。
【 核心の質問 】
ネフティスは字典から顔を上げると、ふと何かに気づいたような表情になった。
その瞳には純粋な好奇心が宿っている。
「寺田先生は昆虫食に非常に造詣が深くていらっしゃいますね」
一度言葉を切り、それから静かに尋ねた。
「あの……蟻は食べましたか?」
和室の空気がぴたりと止まった。
クロ2も思わず背筋を伸ばし、期待と緊張の入り混じった顔で耕一と智恵子を見つめる。
まるで重大な歴史的事件の真相を尋ねる学者のようである。
耕一と智恵子は顔を見合わせた。
答えを誤魔化すこともできる。
だが、この二人を前にして嘘をつくのは誠実ではない気がした。
しばらくの沈黙の後、耕一は観念したように息を吐き、重い口を開く。
「食べた」
そして続ける。
「すまない……」
なぜか謝罪になっていた。
クロ2は一瞬きょとんとした後、さらに身を乗り出す。
「あの、美味しかったですか?」
その質問に対して、耕一は今度は迷わなかった。
「とても美味しかった」
断言だった。
クロ2とネフティスの触角がぴくりと動く。
耕一は少し照れくさそうに頭を掻きながら説明した。
「タイの北部や東北部には、ツムギアリを食べる文化があるんだ。『モッデーン』って呼ばれていてね」
「ほう」
ネフティスが真剣な顔で聞き入る。
「肉やハーブと和えてラーメンやスープに入れたりする。成虫にはライムみたいなキリッとした酸味があるし、卵や幼虫、蛹はプチプチした食感が楽しめるんだ」
「酸味……」
クロ2が感心したように呟く。
「アリの卵はクリーミーで、しかも卵の粒が弾けるような食感がある。『陸のいくら』なんて呼ばれることもあるね」
さらに耕一は続けた。
「中華料理でも高級珍味として扱われることがあって、卵と合わせてオムレツにしたり、餃子の具にしたりするんだ」
そこまで言うと、再び少し申し訳なさそうな顔になる。
「だから……その……ほんとうに申し訳ない」
するとクロ2は慌てて両手をぶんぶんと振った。
「そんな!詳しく教えていただいたのに、お気になさらないでください」
その反応は予想外だった。
「美味しく食べていただけて良かったです!」
心の底から安心したような笑顔である。
耕一の方が逆に戸惑ってしまった。
「え?」
「だって、美味しいと言っていただけるのは嬉しいことですから」
クロ2は本気でそう思っているらしい。
ネフティスも同意するように頷いた。
「私たちも普通に卵や蛹は食べるぞ」
「そうなのか」
「特に冬場にはよく食べる」
さらりと言う。
まるで「冬にはみかんを食べます」くらいの自然さだった。
「保存もしやすいし、栄養価も高いからな。女王直属の保育室でも普通に供される」
「なるほど……」
耕一は思わず納得した。
考えてみれば当然である。
巨大な蟻社会を維持する種族にとって、卵や幼虫、蛹は食文化の中に組み込まれていても不思議ではない。敵を襲って捕食することもあれば、自分の巣のものを食べることもある。
ネフティスは腕を組んだ。
「むしろ同族だから食べないという発想の方が不思議だ」
「そこは人類と価値観が違いますね……」
クロ2が苦笑する。
「人間だって鶏を飼いながら卵を食べるでしょう?」
「たしかに……」
耕一は返す言葉を失った。
理屈としては反論しづらい。
智恵子は湯呑みを手にしながら、くすくすと笑った。
「なんだか面白いわねぇ。こっちは怒られるかと思っていたのに」
「私もだ」
耕一は正直に認めた。
するとネフティスが少し得意そうに胸を張る。
「文化とはそういうものです。違いを知り、理解することに価値がある」
十三歳の少女の姿で言うには妙に重みのある言葉だった。
和室には再び穏やかな空気が戻る。
墨の香り。
湯気を立てる煎茶。
そして、蟻の女王たちと昆虫食研究家が真顔で「アリの卵は美味しい」という結論に達している不思議な光景。
午後の日が傾き、寺田家の和室には穏やかな静けさが戻っていた。
書き初めの練習を終えたクロ2とネフティスは、机の上に何枚かの葉書を並べている。
それは郵便局で売られているお年玉付き年賀葉書ではなかった。
切手も貼らない。
住所も書かない。
表面には宛名だけが記されている。
なぜなら、届け先はすべて徒歩数十秒の場所だからだ。
葉書の裏には、智恵子に撮影してもらった二人の晴れ着姿の写真が印刷されていた。
明るい装いのクロ2と落ち着いた装いのネフティス。
その下には、一枚一枚異なる手書きのメッセージが添えられている。
何度も練習した筆順を思い出しながら、二人は丁寧に文字を書き入れた。
「これでよろしいでしょうか」
クロ2が最後の葉書を持ち上げる。
ネフティスも改めて内容を確認した。
「うむ。なかなか良い出来だ」
ユキオ。
正平。
静江。
そして高柳家の庭で暮らす三匹の女王蜂。
全部で六枚。
どれも二人の連名で記されていた。
ユキオへの葉書には、最も時間をかけて考えた文章が書かれている。
『あけましておめでとうございます。今年も、そしてこれからも、末永くよろしくおねがいいたします』
おそらくユキオは、言葉の意味をどのように解釈したものかと、また胃の辺りをさすることになるかだろう。
けれど、それだけに二人の思いが真っ直ぐに伝わる言葉だった。
クロ2はその一文を眺めながら、小さく微笑む。
「ユキオ様なら、喜んでくださるでしょうか?」
「喜ぶに決まっておるわ!」
ネフティスは断言した。
「これだけ練習して身につけた書き順の成果でもあるからな」
実際、最初に書いていた頃とは見違えるほど文字は整っていた。
昭和の字典を開き、何度も手本をなぞり、筆を走らせた成果である。
人類文化知識チュートリアルによって得た知識は、ようやく自分たちの手の動きの技として定着し始めていた。
「では、届けに行きましょうか」
「うむ」
クロ2とネフティスは葉書を大切に抱え、立ち上がった。
障子を開けると、冷たい冬の空気が頬を撫でる。
庭の向こうには高柳家が見える。
去年の夏頃までは、蟻と人という超えられない境界線の両極にいる存在だった。
けれど今では、年賀状を書きたくなる相手になっていた。
二人は並んで歩き出す。
午後の日が二人の頬を黄金色に染めて、季節はずれの温度を与えていた。
人類は何百年もの間、新年になるたびに年賀状を書いてきた。
遠く離れた人へ近況を伝えるためでもあり、無事を祝い合うためでもある。
その役目から見れば、隣家へ手渡しする葉書など少々変わっているかもしれない。
だが、本質は変わらない。
誰かを思い、その言葉を文字にすること。
その気持ちを相手へ届けること。
寺田家の和室で学んだ書き順も、開かれた昭和の字典も、何度も書き直した半紙も、すべてはそのためにあった。
やがて高柳家の垣根の扉が見えてくる。
クロ2は葉書を抱き直した。
ネフティスは少しだけ胸を張った。
そして二人は、新しい年への挨拶を届けるため、午後の陽だまりへ向かって歩いていく。
春の陽射しは静かに両家の屋根を照らし、その温かな光の中で、人類と蟻の文化交流は思いのほか円満に進んでいた。




