buzz.62 1年の計は元旦にあり
父、高柳正平はユキオに尋ねる。
「ユキオ、ミェリナさんが話があるって、何時からだい?」
正平はこの家の世帯主である。しかしながら、高柳家の実質的主導権は、外部から乗り込んできた3人の少女に掌握されている。
なにしろ、正平とユキオには、静江の妊娠後のスケジュールなど皆目見当がつかないのだ。ユキオが生まれるときは、生活の基盤をつくることで正平は精一杯だった。静江はほとんど実家で生活をして、身の回りのことなど、すべて経験豊富な実家の母親と叔母たちの手によって仕切られていたのだ。
更に言えば16年前、当時の高柳正平なる男はまだ社会人になったばかりの身でありながら、学生の静江との間に子供を儲けさせてしまったのだ。当初激怒していた静江の父も、孫ができるという近未来のイメージに心が解れてしまっていた。
「――そうはいっても、まず男は仕事をしっかりやらねばいかん。市役所で仕事を任せてもらえるように頑張りなさい。君を静江と生まれてくる子に会わせるかどうかは、君のこれからの姿を見て考えるとしよう」
正平は公務員採用試験の方は芳しくなかったが、静江の父の口利きで厨子市役所の総務課に配属された。影でコネ採用を噂されたが、正平は妻子と暮らすことだけを願って必死に働いてきたのだ。
総務課というのは窓口応対がない代わりに、役所内の雑務をすべてこなす仕事である。
概要としては、庁舎の管理や備品の発注などを担当する管理系の業務。突発的な住民対応が少なくルーティンワークが中心だが、それだけにコピー用紙の一箱、電球の一球に至るまで、役所という巨大な組織を裏から支える地道な誠実さが求められる部署でもあった。
正平はその期待に応え続けた。誰かが嫌がる雑用を愚直にこなし、信頼を積み重ねて今がある。だからこそ――男としての責任を果たしてきた自負はあるものの、いざ目の前でこれから起きようとしている「命の発祥」に対しては、あの16年前と変わらず、まったくの手探り状態なのだった。
「今日の10時からだってさ、父さん。ミェリナなら、リビングで母さんと一緒に打ち合わせしているよ。ツェンドリカもクロも揃ってる」
ユキオが襖越しに顔を覗かせる。
高柳家の元旦。世帯主である正平の小さな居室は今、2億年の歴史を背負う群体生物の女王たちによって、完全に「防衛計画の作戦本部」へと変貌を遂げようとしていた。
◇
一方、寺田家の正月は、例年になく温もりと微笑みに満ちていた。
元大学教授の寺田耕一と智恵子夫妻にとって、長年過ごしてきた静かな二人暮らしの居間に、若々しい気配があるのは実に新鮮なことだった。庭の地下からやってきた蟻群体の新女王・クロ2と、親戚筋の巣から共同統治者として参入してきたネフティス。人間で言えば中学生ほどの姿をした二人は、寺田夫妻にとってまさに「可愛らしい孫」そのものであった。
「クロツーちゃん、ネフちゃん、お餅のおかわりはどう? おせちのお重にも箸を付けてくれ。昆布巻きにキントン、海老の鬼殻焼き、黒豆、イナゴの佃煮もあるよ」
耕一が目尻を下げてそう声をかけると、クロ2とネフティスは「はい! いただきます!」と笑顔で、箸を動かした。蟻の習性が抜けず、畳の上に落ちた小さな佃煮の破片を見つけると、すかさず器用に指先で拾い上げて口に運ぶ。そのつつましい立ち振る舞いに、智恵子は目を細める。
「ふふ、あなたたちは本当にまめねぇ。どう、人間のおせち料理、口に合うかしら?」
おせち料理は正月の間、主婦の炊事の手間を減らすため、長期保存のきくように醤油と水飴を効かせて味が濃くなっている。それでも甘じょっぱい味付けは二人の好みに合うものであった。
「……フン。私の味覚を刺激すると併せて、日本古来の伝統の寿ぎを全身に染み渡らせる食事など、神殿の供物にも等しい冥加ではないか。人間の文化とはかくも高尚にして美味なるものか……まあ、このお雑煮の芳しい出汁は白い聖餅と共に喉を温めて胃にゆっくりと落ち着いていきますわ」
ネフティスは一応13歳だとしつつも見た目はハイティーンの少女に見える。かつて古代エジプトの権威ある女神を思わせる名(ネフティス=ネブテフート)を与えられ、周囲を見下す姿勢を崩さない彼女だったが、寺田夫妻の圧倒的な神聖さと包容力の前には、ただの「少し背伸びをしたい年頃の孫」にしか見えなかった。
「よしよし、いっぱいお食べ。若い子がしっかり食べてくれるのが、私にとって一番のボケ防止になるのよ」
智恵子は甲斐甲斐しく二人の世話を焼き、耕一は満足そうに眼鏡の奥の目を細めた。こうして寺田家で穏やかな正月の朝が過ぎていく中、高柳家ではまた別の、しかし極めて重要な「作戦会議」の準備が整いつつあった。
◇
高柳家の居間。
リビングのテーブルを囲む形で腰を下ろしているのは、高柳家に居候する3人の女王たち――ミェリナ、ツェンドリカ、クロ。正面の一人掛けのリクライニングチェアには女主人のように鎮座する静江、そして、その対面に正座させられているのは、高柳正平、ユキオの2人。であった。
「――ではこれより、『静江様ご懐妊に伴う初期防衛および環境最適化計画に関するブリーフィング』を執り行います」
ミェリナがタブレットを片手に、静かだが威厳に満ちた声で口火を切った。2億年前の三畳紀に創業したミツバチ群体のトップとして、その佇まいには一切の隙がない。
「おいおいミェリナさん、ブリーフィングって……そんな大層な」
正平が恐縮して縮こまる横で、ツェンドリカが腕を組み、鋭い視線を正平に向けた。
「黙って聞け! 静江様のお腹の中にあるのは、この家に新しく加わる幼虫――いや、人類の新たな命だ。我がスズメバチの流儀に則り、絶対なる安全管理のもとに防衛されねばならん。この家のような軟弱なオスどもに任せておけるか」
「は、はいっ! すみません!」
ツェンドリカの圧倒的な女王の誇示に、正平は思わず背筋を伸ばして返事をした。
その横で、クロマルハナバチの女王・クロは、電気毛布の目盛りを強にして足から腰にかけてカバーしており、手元ではすでに蜜柑を3個目を剥いている。
「んむむ……みかん甘ーい。ミェリナぁ、固い話はいいからさ、要するに静江さんがお腹すかせないように、美味しいものいっぱい用意すればいいんでしょ~?」
「クロ、少しは緊張感を持ちなさい。あなたは蜜も花粉も蓄えずにすぐ食べてしまうのですから、この計画の推進役としては端から期待していませんが…」
ミェリナの冷ややかなツッコミに、クロは「ひどーい、私は癒やし担当だもん」と頬を膨らませた。
「話を戻します」
ミェリナは画面を正平とユキオに見せた。
「静江さんの体内環境は現在、初期の細胞分裂に伴い極めて繊細な状態にあります。我々としては、寺田家の高度な生物学的知見と連携し、分子共鳴転移技術と生体モニタリングを応用した完全バックアップ体制を構築します。正平さん、あなたの役目はただ一つ。現在の主要所得源である市役所での業務を過不足なくこなし、家庭内でのストレス要因をゼロに保つことです」
「はい、ストレスゼロ……! 善処します!」
「ユキオ」
今度はミェリナがユキオをまっすぐ見つめた。
「あなたには今年受験する『恒星域観測士』の試験に合格するという至上命題があります。邑人英二氏から託された私たちの生態学教導を駆使し、同時に人間世界の学業に専念してください。この家の防衛と静江さんのサポートは、我々にお任せください」
「……うん! わかった、ミェリナ。僕、絶対に合格してみせるよ。母さんのことも、よろしく頼みます」
ユキオが力強く頷くと、ツェンドリカは満足げに頷き、クロはみかんを咥えたままパチパチと手を叩いた。
ミェリナはタブレットの画面を軽くタップし、リビングの液晶テレビを大型モニター代わりにして、スライドを送信した。画面には、洗練されたフォントと厳密なタイムラインで構成されたドキュメント――『静江様ご懐妊・出産までの全行程ロードマップ』が鮮明に映し出される。
「では、具体的な全体スケジュールについてのプレゼンテーションに移ります」
ミェリナの声には、2億年の歴史を率いてきた長としての、絶対的な統率力と気品が宿っていた。
「本工程は大きく分けて三つのフェーズに分類されます。まず、第一フェーズ――『妊娠中期(15週〜27週):安定期と体調の安定』です」
ミェリナの手元で画面が切り替わり、細かな日付が提示される。
「2026年1月8日頃、16週0日をもって正式に『安定期』へと突入いたします。つわりが沈静化し、母体動態が比較的安定する重要な転換点です。このタイミングで、戌の日の安産祈願、ならびに静江さんのパート先への報告および勤務調整依頼を速やかに実行します」
「なるほど……1月上旬だな」
正平が手帳を取り出し、真剣な眼差しでメモを取り始める。
「続いて2月19日頃、22週0日に到達。これは日本国の法律上、流産から早産へと区分が切り替わる極めて重要な法的・医療的境界線です。万が一の緊急事態においても、現代医療および我々の生体サポートによる生育支援が全面的に可能となる安全領域に入ります。さらに2月から3月頃にかけて、胎動の感知およびエコー観察による個体性別の確定を見込んでおります」
「性別……! どっちかなぁ、ユキオに弟ができるか、妹ができるか……」
正平が目尻を下げると、隣のツェンドリカが「ふん」と鼻を鳴らした。
「浮かれるのはまだ早い。本番はここからだ」
ツェンドリカの鋭い指摘に同調するように、ミェリナが次のページへとスライドを進めた。
「第二フェーズ、『妊娠後期(28週〜35週):出産の準備期間』。4月2日頃の28週0日より妊娠後期へと突入。妊婦健診の頻度はこれまでの月1回から『2週間に1回』へと倍増します。この段階で、入院用資材の完全補給、および新個体を受け入れるための居住環境整備――ベビーベッドや衣類等の調達を完了させます」
「買い出しなら任せてよ!」
こたつで蜜柑を皮ごと剥いていたクロが、4個目のみかんに手を付けたまま元気に手を挙げた。
「私、可愛い服選ぶの得意だもん!」
「クロ、あなたは途中で買い食いをして予算を使い果たす可能性が目に見えています。買い物はサブに回って、ここは車の運用ができる正平さんに同行してもらいます」
俺にも役割があったぁ、と喜ぶ正平にかまわず、ミェリナはプレゼンを続けた。
「5月14日頃、34週0日には産前休業の開始目安を迎えます。静江さんにはこの日を境に完全な休職、自宅待機モードに入っていただきます。そして最終局面――第三フェーズ、『出産期(36週〜)』」
モニターのタイムラインが赤く強調された。
「5月28日頃、36週0日より臨月へ突入。健診は『毎週1回』の最高密度となり、玄関脇には緊急突入・入院用の荷物を常備。そして6月4日頃、37週0日にて『正期産』の領域へと入ります。赤ちゃんの生物学的機能は完全に成熟し、いつ降臨してもおかしくない絶対安全期となります」
ミェリナはタブレットを静かにテーブルへ置くと、ソファの上で背筋を伸ばし、最後に画面の中央に刻まれた日付を指し示した。
「2026年6月25日、40週0日。出産予定日」
一瞬、リビングに心地よい緊張感が走る。ミェリナの瞳には、一切の曖昧さを許さない冷徹かつ完璧な知性が宿っていた。
「言うまでもなく、これは生物学的なスケジュールであり、個体差による揺らぎは当然生じ得ます。……しかし。これを単なる平均値と読まず、『目指すべき理想値』と解するならば、我らの総力を挙げ、予定日との乖離率は最小――すなわち『ゼロ』を目標として制御・統括いたします」
「か、かいりりつゼロ……!?」
正平は、役所の年度末予算達成プレゼンすら霞む完璧すぎる議事進行に、もはや尊敬を通り越して圧倒されていた。
「すごいや、ミェリナ……」
ユキオもまた、手元レジュメを強く握りしめながら、その完璧な手腕に感嘆の息を漏らす。
「以上がロードマップの全容です。質疑応答、ならびに各タスクの項目別詳細については、お手元のレジュメをご参照いただくか、いつでも私にお声がけください」
ミェリナがスマートにお辞儀をすると、静江はあたたかな笑みを浮かべ、お腹を優しく摩った。
地球最古の生態系ネットワークと、宇宙先進の技術。それらが織りなす完璧なスケジュールのもと、高柳家の2026年は、寸分の狂いもない確信と共に動き始めたのだった。
◇
高柳家で執り行われる、地球最古の超社会性生物たちによる前代未聞の「出産防衛ブリーフィング」が行われる一方では、お隣の寺田家で、孫を愛でるような穏やかな正月の風景が繰り広げられていた。
和室の畳の上に広げられたのは、艶やかな絹のきらめきと、どこか懐かしい樟脳の香り。寺田家における正月ならではの特別行事――「娘たちに晴れ着の着付けを教えるの段」が、静々と執り行われていたのである。
「高柳さんの赤ちゃんに使ってもらう産着を探していたら、理恵子の振袖も出てきちゃった。でも、二人にちょうど良いじゃない」
智恵子は手際よく帯を締め終えると、ポンポンと軽く形を整え、出来上がった二人を愛おしそうに見つめて目を細めた。
仕立て上がった晴れ姿は、実に見事なものだった。
クロ2が身にまとっているのは、若々しい薄桃色の地に小花が散りばめられた振袖。新参者の蟻の女王として普段は慎ましく振る舞う彼女だったが、上品な着物に包まれると、どこか可憐で奥ゆかしい深窓の令嬢といった趣を醸し出している。
一方のネフティスは、かつて長女の理恵子が成人式で着たという、白無垢を主体に金と朱の刺繍が施された豪華な振袖だ。13歳だと主張しつつもハイティーンの風貌を持つ彼女の立ち姿に、その力強く華やかな赤は驚くほど似合ったものであった。袖の長さに少し戸惑いながらも、顎をツンと上げて「フン、私の威厳に相応しい衣ではないか」と満足げに胸を張っている。
「……おお」
床の間に飾られた鏡の前に立つ二人を、文机の前に座っていた耕一が呆然と眺めていた。やがて、その目尻にしわが刻まれ、感嘆の声が漏れ出る。
「娘たちの、晴れ着を再び見ることができるとは思ってもいなかった。これはまだまだ死ぬことはできないな」
「まあまあ、お父さんったら大袈裟ねぇ。でも本当に、理恵子が着ていた頃を思い出すわね」
智恵子がフフと優しく笑う。
かつてこの家で育ち、今は臨床栄養学の権威として活躍する娘・理恵子。彼女が去って久しい静かな家に、今こうして「孫」のような二人の少女の笑い声と、華やかな晴れ着姿が戻ってきたのだ。
「耕一様、智恵子様……。このような素晴らしいお衣装を召させていただき、身に余る光栄です。……あ、帯の結び目から落ちた糸くず、拾いますね」
クロ2が習性を抑えきれずにしゃがもうとするのを、智恵子が「いいのよ、今日はそんなことしなくて」と優しく引き留める。
「ああ、クロ2。着物を汚すでないぞ。……しかし、この『ふりそで』とやらは、我が宮殿の神前儀式衣装としても悪くない出来だな。智恵子様、苦労をかけました」
ネフティスが腕を伸ばそうとして袖の重さにはっとすると、耕一が楽しそうに声を上げて笑った。
「ハハハ、ネフちゃん、意外と重い衣装だろう。よし、後で高柳家のみんなにも見せてあげよう。正平君もユキオ君も、きっと驚くぞ」
庭から差し込む柔らかな初春の光が、二人の晴れ姿と老夫婦の穏やかな笑顔をあたたかく包み込んでいく。
隣家で進む未来への完璧な計算とは対照的に、寺田家には歴史と人の温もりが紡ぎ出す、至福の正月の風景が広がっていた。
「これを撮っておいて来年の年賀状に使うか。今年は春節に中国の知人も来ないことだし、これで年賀状を送ってみるか。びっくりするぞ」
耕一は愛用のデジタルカメラを構え、晴れ着姿のクロ2とネフティスをレンズに収めながら、満足そうに頷いた。
毎年、春節の時期になると、中国から十数人もの研究者たちが寺田邸を訪問するのが恒例となっていた。彼らは皆、現地の大学で教鞭を執る生物学の教授たちであり、耕一と智恵子の過去の偉大な業績と人徳を讃え、二人を「老師」と仰いで国境を越えた交流を続けているのだ。
「私の作ったイナゴの佃煮をとても喜んでくれるのよね。今年は一人も来られないと連絡を受けてがっかりしていたのよ」
智恵子は少し寂しそうに目元を緩め、台所の方を振り返った。
昨今の社会情勢を受け、中国政府から日本への渡航自粛が呼びかけられている。研究者たちからも「心から楽しみにしていたのですが、今年は伺うことができません。申し訳ありません、老師」と、断腸の思いが綴られたメールが届いていたのだった。
だが、智恵子はすぐに明るい笑顔を取り戻して手をポンと打った。
「でも、イナゴは静江さんが食べてくれるから良かったわ。それに箕通さんと丹節さんも大好きだって言っていたわね」
「ああ、あの二人の食べっぷりは見事なものだからな」
耕一も微笑む。クロ2の群体の一部であり、給仕と医官を担う箕通と、行政および護衛を統括する丹節。蟻の社会性を引き継ぐ彼女たちにとって、タンパク質とカルシウムが凝縮されたイナゴの佃煮は、この上ない極上の栄養源なのだ。
もっとも、その二人は今、正月休みとして分子共鳴転移装置のカプセル内で「全休」に入っている。日頃の過酷なタスクから解放され、カプセルの濃密なエネルギーの中でじっくりと身体をリフレッシュさせている最中であった。
「箕通さんたちが起きてきたら、またたくさん作ってあげましょうね。……ほら、ネフティスちゃん、黒津ちゃん、もう少し近くに寄って。年賀状用に、もう一枚撮りますよ」
「フン、遠い異国の学者どもに見せるというのか。私の美しさに平伏するがよいわ」
「耕一様、お写真が終わったら、落ちているカメラのキャップ、拾いますね!」
着物の袖を揺らしながら並ぶ二人を前に、耕一のカメラのシャッター音が静かな和室に心地よく響いた。国境の壁も、種族の違いも超えて、寺田家の正月はどこまでも穏やかで、あたたかな時間に満たされていた。
午前11時頃、寺田家のポストには年賀葉書が投函された。
届いた年賀状の束を一枚一枚、愛おしむようにめくりながら、耕一がぽつりと呟いた。
「長生きなどすると、こうした年ごとに減ってくる便りも、何か物悲しさを感じるな……」
手元にあるのは50枚ほど。大学で教授として壇上に立ち、世界中を飛び回っていた60歳頃までは、200枚など優に超えていたものだ。年月の流れとともに交友関係の形も変わり、手元に残る紙の重みも随分と軽くなった。
だが、そんな中でも海外からの便りは今なお届いている。耕一はその中から、見覚えのある達筆な漢字が躍る一枚を抜き取った。
『非常遗憾,今年我无法在农历新年期间去看望您。(今年は春節にお伺いできず大変残念に思います)』
古くからの知人であり、中国の生物学界の重鎮である陳志明教授からの葉書であった。封書で日本宛に送れば政府の検閲官にいらぬ詮索をされかねないため、文章はごく手短に、挨拶だけに留められている。
「陳さんからの葉書ですか?」
お茶を差し出しながら覗き込んだ智恵子は、懐かしそうに目を細め、ふっと楽し気に微笑んだ。
「まあ……陳さんたち、来られないのは本当に残念ねぇ。私、去年振舞った『ナムプリック・メンダー』を、陳教授と奥様が『これは美味い、爽やかだ!』って、おでこに汗をかきながらおかわりしてくださったのを思い出していたのよ」
「ああ、あれか。タイの伝統的なディップソースだな」
耕一が頷く。智恵子が再現したその料理は、素揚げしたオスのタガメを、唐辛子、ニンニク、マナオ(ライム)、ナンプラーとともにクロック(石鉢)で丹念にすり潰してペースト状にしたものだ。生野菜やご飯につけて口に運ぶと、ピリッとした刺激的な辛さのすぐ後に、タガメのオス特有のまるで洋梨やフルーティーなバナナのような甘くフレッシュな香りが鼻腔を抜ける絶品である。
智恵子は来日できない事情は察しており、心底惜しむように、至極可憐な溜息をついた。
「今年は日本のタケツトガ(竹苞蛾)を試してもらおうと思っていたのに、残念だわぁ。旬の幼虫は、竹の香りがほんのり移っていて、揚げるとナッツみたいで本当に芳しいのよ?」
一般人が聞けば間違いなく眉をひそめ、一歩後ずさりするような衝撃的な食材名である。しかし、元生物学教授であり、地球上のあらゆる生命の営みに敬意と探究心を抱く智恵子の瞳には、1ミリの邪心も存在しない。あるのはただ「とびきり美味しい珍味を、大切な友人に振舞って驚かせたい」という、ピュアすぎるおもてなしの心だけであった。
「ははは、タケツトガか! 陳君ならきっと『これは素晴らしい旨味だ、老師!』と目を輝かせて喜んだだろうになぁ」
「でしょう? 仕方ないわね、タケツトガは高柳家の静江さんと、箕通さんたちにあげましょうか。あの子たちなら、きっと大喜びで食べてくれるわ」
晴れ着姿で「タケツトガ……?」と首をかしげるクロ2とネフティスをよそに、老夫妻は実に楽しそうに笑い合うのだった。
「年賀状の返礼を書かねばならんな、50枚ぐらいじゃさっさとやってしまうか」
耕一は文机の上に葉書の束を揃え、毛筆の準備を始めた。
その傍らで、クロ2は色鮮やかな絵柄が施された年賀葉書を、不思議そうに指先で撫でつづけていた。
「綺麗ですね……今は電子メールがあるというのに、こうして紙で書簡をやりとりするのが、日本の文化なのですね」
率直な感嘆を漏らすクロ2に、耕一は優しく微笑みながらペン先を走らせる。
「欧米でも、クリスマスカードやバースデーメッセージを紙でやりとりをする。その国によって伝統的な文書交換の風習があるんだ。人間の交流というものは、時代が変わっても形を変えずに受け継がれていくものもあるんだよ」
そう言って、耕一は二人に人間社会の「文化」という営みを語り聞かせた。
蟻の起源は約1億5000万年前、白亜紀にまで遡る。彼らが築き上げてきた壮大な生態系の歴史に比べれば、たかだか数千年に過ぎない人類の文書交流など、瞬きほどの一幕に過ぎない。しかし、限られた紙面に思いを託す様式美と、遠く離れた相手を慈しむ情の深さは、クロ2とネフティスの心へ確実に染み込んでいった。
「いいものですね……手書きの言葉のやりとり。触角とフェロモンの交流で成り立つ我々の文化とは、また違う趣があります」
ネフティスはしみじみと呟いた。13歳だと主張しつつも、この世に生まれ出てまだ数ヶ月の彼女にとって、人間が紡ぐ紙の温もりは実に新鮮で味わい深いものに映っていた。
クロ2もまた、葉書に印刷された華やかな初日の出や富士山の図案に目を輝かせる。
「文字だけでなく、美しい絵も飾られています。人間はみな素晴らしい芸術家なのですね」
その無垢な感動に、智恵子は思わず口元をほころばせて補足した。
「ふふ、皆が自分で絵を描いているわけではないのよ。文房具屋さんで気に入った絵柄の年賀葉書を買ったり、パソコンで印刷して、葉書には一筆メッセージだけを書く人が多いの。……そうだわ、あなたたちも年賀葉書を書いてみない? 松の内を過ぎても、1月15日までに出せば年賀状として届くのよ。それを過ぎてもね、『寒中見舞い』という名目で出すこともできるわ」
「私たちが……年賀葉書を?」
クロ2がぱっと表情を明るくする。この庭の地下深くで生まれ、女王伊耶那美とともに人間との交流を夢見ていた彼女にとって、人間の「言葉のやりとり」に混ざることは、何より誇らしく、温かい一歩に思えた。
「フン、私の達筆を人間どもに見せつけてやるのも悪くないわね。……クロ2、まずは高柳家の者たち宛てに書いて驚かしてあげましょう!」
「はい、ネフ! 私、心を込めて書いてみます!」
耕一の墨を摺る心地よい音と、二人の少女のはしゃぐ声が、初春の光が差し込む和室に響き渡る。
蜂たちが高柳家のリビングで絶対防衛計画を練り上げる一方で、寺田家の蟻たちは、掘りごたつの卓上で新しい「絆の形」を書き始めていた。
それぞれの思いと温もりを乗せて、高柳家と寺田家が織りなす2026年のお正月は、優やかに、そして心強く更けていくのだった。




