buzz.61 昆虫食の福音
「静江さんは今、新たな命を宿す尊いお体……。いかなる異物も近づけるわけには参りません」
スズメバチだけでなく、ミツバチのミェリナ、クロマルハナバチのクロも、周囲に警戒フェロモンを充満させている。うかつに着火させれば、高柳家のリビングは修羅場の様相を呈すであろう。
リビングに無事通されたものの、寺田夫妻と娘の理恵子、クロ2とネフティスはただならぬ空気に慄くしかなかった。
覚悟を決めてネフがクロ2に囁く
「クロ2、ミェリナもクロも、いつもと様子が違う。箕通と丹節を連れてくればよかったかもしれない。寺田先生たちに危害が及ぶようなことがあれば、我々でお守りするしかない」
「・・・まさか、そんな・・・」
クロ2は絶句する。いつもは優しい微笑を湛えたミェリナの眼が敵意をむき出しにして光っている。いつもはのんびりした空気を纏っているクロマルハナバチのクロでさえ、ポテチを食べながら、こちらへ向けた目を離さない。
現在の高柳家リビングは、過保護の暴走が極まった「超高密度・過剰防衛サンクチュアリ」と化していた。
「静江様! 立ち上がろうとしてはいけません! 重力が胎盤にかかります!」
「動くときは床から1.5ミリ浮いてください、ウチの子たちが両脇から支えますから!」
「だめだクロ、もっと柔らかいクッションを周囲に敷き詰めろ! 半径3メートルは羽毛布団で埋め尽くせ!」
ミェリナがネットで仕入れた「最新(と勘違いした)妊婦ケア」の指令を飛ばし、いつもはいちごの受粉に忙しいクロファミリーが無駄にうろついている。ツェンドリカの不機嫌ぶりはいつになく激しく、周囲を威嚇しながらリビングを睥睨している。
完全に戦時下のシェルターである。
そして部屋の最果て、テレビ台とタンスの僅かな隙間には――正平・ユキオの父子が肩を寄せて震えていた。
「……父さん、僕たち、もう空気なんだと思う」 「ユキオ……息を殺せ……下手に動くと『静江様の視界を遮った』とか言われて切られるぞ……」
正平とユキオが膝を抱え、限りなく透明に近い存在感で小さくなっていた。父正平の世帯主としての尊厳は完全に消滅している。
そこへ、寺田家の「三博士」が静かにリビングの扉を開けて入ってきたのだ。
「……あらまあ。すさまじいエントロピーの増大ね」
理恵子が白衣(の代わりのカーディガン)の袖を軽くまくり上げる。耕一と智恵子もまた、呆れるどころか「なるほど、これが過剰防衛行動の生態系か」と実に興味深そうに目を輝かせていた。
「寺田先生、静江様に近づくには『全身除菌』と『三段階のセキュリティ認証』が必要です」
◇
今リビングにはいないスズメバチ戦士のウーカンとヒチョウは、ツェンドリカから叱責されて玄関の前で佇んでいた。
「くっ……我らの刃は静江様を守るためにあるというのに……!」
「……仕方あるまい。玄関の死守をもって、我らの忠誠を示そう」
こうして、高柳家の玄関前には、二体のスズメバチが仁王立ちとなり警戒に万全を期していた。
午前11時。爽やかなラガーシャツの制服を着た配達員が、Amazonの段ボール箱を手に敷地内へと足を踏み入れた。
「こんにちはー、宅配便でーす……つっ!?」
玄関ポーチ前に立った瞬間、配達員の動きが凍りついた。
目の前に、体長ほどもある碧色の「大刀(青龍刀)」を背負った少女と、真っ赤な髪をなびかせ、左手に凶悪な「三叉の矛」を構えた少女が仁王立ちしていたからである。コスプレにしては質感が生々しすぎる。近づくだけで肌がヒリつくような圧迫感があった。
「止まれ、検閲だ!」
ウーカンが静かに威圧的な声を放つ。そして、持っていた大刀の柄で、配達員が抱える段ボールの『Amazon』のロゴをコンコンと小突いた。
「この禍々しい笑顔の刻印がされた箱……中に何が入っている? 危険な薬物か? それとも静江様を害するサソリやタランチュラが入ってはいまいな!」
「えっ、あ、いや! 中身は『すこやか葉酸サプリ3個パック』です! 危険物じゃないです!!」
「葉酸……だと!? 静江様の胎児の細胞分裂を助ける重要サプリか……! しかし油断は破滅を招く。検閲だ!」
ウーカンが眉をひそめて追及していると、背後から赤い髪を爆発させたヒチョウが躍り出た。その右手には、なぜか「ファブリーズ(W除菌・無香料)」が握られている。
「郵便物および配送品はすべて検閲する! ついでにお前ら外界の汚物も消毒だあッ!!」
「ひぃっ!?」
シュッシュッシュッ!!
「うわあぁぁ!? なんかめっちゃ除菌されてる!?」
ヒチョウは狂戦士の凄まじい手返しで、配達員の全身とAmazonの箱にファブリーズを連射した。瞬く間にファブリーズの霧に包まれる配達員。
そこへ、今度は赤いバイクに乗った郵便局員が「郵便でーす……ってうわっ!?」と滑り込んできた。
「新たなる刺客か! 貴様も消毒ッ!!」
「ぎゃーっ! なんですかこれ!? 目が、目がぁーっ!?」
「ヒチョウ、やりすぎるな! 郵便物は濡らすなとツェンドリカ様から厳命されている!」
「黙れウーカン! 雑菌の一線越えは静江様への反逆と同義! 消毒! 全員消毒だァハハハハ!!」
玄関先は、青龍刀で箱を突くウーカンと、ファブリーズを火炎放射器のように撒き散らすヒチョウによって、完全な大惨事(※ただし全員めちゃくちゃ清潔)と化していた。
◇
そのころ、リビングの隅。
寺田家三博士が来てくれたおかげで、家族として無事にリビングの端のスペースを取り戻した父・正平とユキオは、家の外から響く「消毒だあッ!」「うわああ助けてくれー!」という叫び声を遠い目で聞いていた。
「……父さん」
「なんだ、ユキオ」
「あの配達員さん、ウチにモノを届けるのもう嫌だろうね……」
「玄関前に『猛蜂注意』ってプレート貼っておくか……」
玄関先から響くファブリーズの噴射音と配達員の悲鳴をBGMに、リビングでは和やかな(?)お祝いの儀が執り行われていた。
寺田耕一が、柔らかな笑みをたたえて静江に向き合う。
「静江さん、このたびは本当におめでとう。少しばかりだけどお祝いの気持ちだけ収めてください」
そう言って差し出されたのは、丁寧にラッピングされたパウンドケーキと涼しげなフルーツゼリーの詰め合わせだった。王道かつ完璧なお祝い品に、静江は「まあ、ありがとうございます!」と目を輝かせる。
続いて、妻の智恵子がくすりと微笑みながら、どこか愛おしそうにプラスチックのタッパーを取り出した。
「静江さん、16年ぶりね。でもまだ34歳だしぜんぜん心配いらないと思うけど。……これ、覚えている?」
パカッと蓋が開けられた瞬間、甘じょっぱい醤油と砂糖の香ばしい匂いが部屋に広がった。中に詰まっていたのは、見事に漆黒の艶を纏った「イナゴの佃煮」である。完璧なまでに形を留めた頭と胸と腹が、光を受けてギラリと輝いていた。
「イナゴですよね! 懐かしい。私これ大好きなんです!」
静江は満面の笑みでタッパーを受け取った。
……そして。この「イナゴの出現」によって、これまで存在感が消えかかっていた高柳家の男たちに、突如として恐ろしい「存在価値の証明」が課されることになる。
「正平さん、毒見を」
ツェンドリカがすっと静江の手からタッパーを取り上げると、有無を言わさぬ圧威で正平の目の前に差し出した。妊婦に怪しいものを口にさせるわけにはいかない、という過保護スズメバチ女王の本領発揮である。
「ヒイッ!? お、俺は虫とかエビとかに、アレルギーがあるんだ!」
正平は情けない悲鳴を上げて全力で後ずさった。家主の威厳もへったくれもない。
「ちっ、使えないオスだな」
ツェンドリカは露骨に嫌そうな顔をすると、間髪入れずにそのタッパーをユキオの目の前へとスライドさせた。
「ユキオ、お前はどうだ?」
「うぐっ……!?」
視線の先に、バッチリと眼が合ってしまうイナゴが一匹。腹部の形までしっかり残っている。現代の高校生にとって、これはあまりにもキツい試練だった。
「勘弁してくれよ、形そのまんまじゃないか!」
思わず頭を抱えるユキオの横から、クロ2が、どこか申し訳なさそうに控えめに手を挙げた。
「……あの、私、食べましょうか?」
「だめだクロ2、お前はイナゴなんか普通に食べるだろ!」
ツェンドリカは呆れ果てた目でユキオを睨みつけた。
「ユキオ……お前は一体、何だったら出来るんだ?」
「……いや、昔は食べた記憶があるんだよ! でもホント久しぶりで……喉を通るかわからないんだって!」
必死に弁明するユキオを見て、母である静江が「ふふっ」と楽しそうに笑った。
「ユキオは小さい頃、平気で食べてたものねぇ。私、甘じょっぱいものが好きだから、ユキオを妊娠していた時はこのイナゴをよく食べていたのよ。ふふ、ユキオの体の2割はイナゴかもね」
衝撃の告白だった。
ユキオは片手で顔を上から下へとなでおろし、魂が抜けたような言葉にならない深いため息を漏らした。自分の成分の1/5が目の前の黒光りする虫で構成されているという現実に、頭がクラクラする。
「……確かに、父さんみたいに甲殻類アレルギーもないもんなぁ……」
覚悟を決めたのか、諦めたのか。
ユキオは震える手でタッパーへと箸を伸ばし、見事に「存在価値」を示してみせるのだった。
【臨床栄養士のアドバイス】
「こちらは私の娘の理恵子です。臨床栄養士の資格ももっている。この分野では一応教授だよ。医学的、栄養学的に静江さんにいいアドバイスができると思って連れて来たんだ」
理恵子は挨拶する。「藤坂理恵子です。いつも父と母がお世話になっています。ほんとに久しぶりのご懐妊だと、少し心配になるかもしれないけど、大丈夫。ただ、気をつけるポイントは幾つかあるので、安心して出産を迎えられるように今から準備することをお勧めしますわ」
そう言って、臨床栄養士の観点から次のように説明した。
イナゴの佃煮を噛み締め、なんとか家庭内の人権を死守したユキオを横目に、リビングの空気は一変していた。
今やそこは、日本トップクラスの知性が集結した「臨時・マタニティカウンセリングルーム」と化している。
テーブルの上でスマホを見せて、臨床栄養学博士である藤坂理恵子のブックマーク資料だ。その横で、元教授の寺田耕一と智恵子夫妻が静かに深く頷いている。
「静江さん。14週……もうすぐ妊娠中期(安定期)に入るわね」
理恵子が凛とした、しかし温かみのある声で語りかけた。
「18歳でのユキオ君の出産から、16年ぶり。そして現在34歳。医学的には『35歳以上』が高齢出産の定義とされるから、今のあなたはまさに高齢出産の境界線にいる位置づけよ」
「き、境界線……やっぱり、リスクが高いんでしょうか……?」
静江が少し不安そうにお腹に手を当てると、理恵子が温和な笑みを浮かべてフォローを入れた。
「心配しすぎることはないわ。リスクが急激に跳ね上がるわけではない。現代の医療管理下であれば十分に安全な範囲だし、それに何より、あなたには『一度出産を経験している』という大きな強みがあるのよ」
「ええ」と静江が頷く。
「ただ、16年という『ブランク』と『年齢による体力低下』だけは油断してはいけないわ。一般的にこの年代では、妊娠高血圧症候群や妊娠糖尿病、早産のリスクが少しだけ上昇するの。特に注意したいのは、静江さんの現在の働き方よ」
理恵子の鋭い眼光が、静江の日常へと向けられる。
「近所の産直スーパーで、10時から16時の勤務しています。日によっては2時間の残業……仕事はほぼ立ちっぱなしの作業です、夕方は段ボールを運んだりも……」
「う~ん、それは避けた方がいいわね」
智恵子博士がやさしく、けれど力強く言った。
「長時間の立ち仕事は足のむくみや静脈瘤だけでなく、子宮を収縮させて早産のリスクを高めてしまうの。1時間に1回は必ず座ること。休憩時は足を少し高くして、水分補給を怠らないでね」
理恵子がメモを静江の手に握らせる。
「残業はできる限り避けること。疲労が溜まったら睡眠を最優先にしなさい。もし職場での調整が難しければ、医師に『母性健康管理指導事項連絡カード』を書いてもらうといいわ」
怒濤の医学的エビデンスの提示に、静江はただ圧倒されながらも、心からの安心感を覚えていた。
「静江さん、客観的に見てあなたの状況は『危険』どころか、ものすごく恵まれて整っているのよ」
理恵子は部屋の隅々を見渡しながら、クスリと微笑んだ。
「夜勤のない昼間の仕事。14週という順調な経過。一度出産経験がある。……そして何より、家事をしてくれる夫と息子、さらには過保護なまでにあなたを守る『若い女性ヘルパー』という完璧なサポート体制があるじゃない」
「……あ」
静江が改めて見回せば、玄関でファブリーズを連射していたウーカンやヒチョウ、お菓子を食べる手を止めて真剣に耳を傾けていたクロ。万全の守備体制を統括指揮するミェリナとツェンドリカ、そしてなんとかイナゴを喉に流し込んだユキオとオロオロするばかりの正平がいた。
「静江さん……職場で1時間に1回座らせてもらえるようお願いしましょう。その見返りとして蜂蜜の卸値の引き下げにも応じますよ」
「残業だと!? 産直スーパーの店長を脅……説得を試みるとしよう!」
「ふふ……本当に、私、一人じゃないんですね」
静江の目からぽろりと温かい涙がこぼれ落ちた。
「そうよ。だから決して一人で抱え込まず、甘えられるものはすべて甘えなさい」
理恵子博士の力強い言葉に、三人の博士、そして昆虫の女王たちが力強く頷いたのだった。
【イナゴの効能やいかに?】
「……というわけで、初期の高齢妊娠においては『適切な栄養管理』こそが、医学的リスクを最小限に下げる最大の防壁となるわけです」
寺田家の二人の元教授(耕一・智恵子)が「なるほど」「完璧なアプローチだ」と深く頷き、高柳静江は真剣な眼差しでメモを取っている。
「静江さん。あなたが産直スーパーで扱っている新鮮な野菜は、まさにこの栄養管理の最強の武器よ。まず、一番の警戒対象は【血糖値の急変動】と【血圧の上昇】ね」
理恵子のペン先がメモ帳を軽快に叩く。
1. 血糖値スパイクの防衛策
「主食は雑穀米や蕎麦など吸収が緩やかなものにシフトすること。食べる順番は『野菜→タンパク質→主食』。これで妊娠糖尿病のリスクを大幅に減らせるわ。甘いジュースは厳禁よ」
2. 減塩とカリウムの活用
「1日の塩分は6〜7gを目安に。出汁や香味野菜で味を補うの。そして、体内の塩分を排出してくれるカリウム――ほうれん草、バナナ、アボカド、大豆製品を積極的に摂り入れなさい」
「ほうれん草とバナナですね! 産直に毎朝いいのが届くので、すぐ準備できます!」と目を輝かせる静江。
「さらに貧血予防の『鉄分』と『ビタミンC』、胎盤機能を支える『葉酸』と『オメガ3脂肪酸』……これらを立ち仕事の合間に効率よく補給するのよ。勤務中の軽食には、ナッツやチーズ、バナナが最適ね」
理恵子が淀みなく語り尽くすと、静江の横に控えていた蜂の女王たちが一斉に動き出した。
「ふむ……カリウムに葉酸、そしてタンパク質か」
ミェリナが腕を組み、威厳たっぷりに宣言する。
「静江さんの『血糖値スパイク』を防ぐため、我が群体の精鋭に最高品質のローヤルゼリーと、低GIの特殊花粉スラリー(粥)を精製させましょう。無農薬野菜との相性も抜群のはずよ」
「ちょっと待った、ミェリナ!」
ツェンドリカ(スズメバチ女王)が割って入る。
「静江さんに必要なのは立ち仕事に耐える『タンパク質と鉄分』だろう! あたしがバイト先で最高級の焼き鳥とアボカドを貰ってくる! 雑菌だらけの外食なんて絶対許さないからな!」
「……あの、アブラムシの蜜(甘露)なら、カリウムとマグネシウムが豊富ですが……」
クロ2が笑顔で提案するが、寺田智恵子がすかさず「アブラムシの分泌物はちょっと……衛生管理のエビデンスを確かめさせてちょうだい」と専門的な突っ込みを入れる。
そんな賑やかな女王たちのやり取りを見ながら、静江は心から楽しそうに笑った。
「理恵子さん、寺田先生、本当にありがとうございます。16年ぶりでどこか不安だったんですけど……こんなに心強い栄養士さんや、みんながついていてくれたら、なんだか何も怖いものなんてない気がしてきました」
静江の言葉に、理恵子は優しく目を細めた。
「ええ。あなたは一人じゃないわ。しっかり食べて、無理な残業は断って、元気な赤ちゃんを産みなさい」
「……で、そこの男性ふたり」
理恵子の鋭い視線が、部屋の最果てで息を潜めていた正平とユキオに突き刺さった。
「ヒッ!?」
「静江さんの食事管理には、同居家族の協力が不可欠よ。今日から正平さんは買い出し時の塩分チェックと重い荷物持ち。ユキオ君は、静江さんのお弁当に持っていく仕事中の軽食(雑穀米のおにぎりやゆで卵)の仕込みを担当しなさい。いいわね?」
「「は、はいっ!! 喜んで務めさせていただきます!!」」
父と息子は揃って直立不動で返事をした。
こうして、高柳家には蜂と蟻、そして三博士の知恵が結集した「超厳重・最高峰の妊娠初期栄養管理体制」が敷かれることとなったのだった。
「ところで、栄養学、医学という観点で捕らえたイナゴの有効性……なんだけど」
理恵子は先ほど母が持ち込んだイナゴの佃煮について一応の注意を添える。
「醤油と水飴がたくさん使われているので、好きだからといって、食べ過ぎないように。1日5g程度で抑えてください。昆虫食が免疫疾患改善に有効であるとよく言われるけど、まだ研究途上で、人間の健康・長寿に寄与するとは断言できないのよ」
栄養学においては、昆虫を前面に出した処方はまだ民間信仰レベルの「精がつく」「病気しなくなる」という言い伝えから脱していない。明確な関係性を示す論文がまだ無いのだ。
寺田智恵子は人差し指でメガネのブリッジをクイと押し上げ、眼光を鋭く光らせた。生物学者としての矜持が、その佇まいから満ち溢れている。
「だけどね、生物学、人類学、そして進化論を踏まえてみると、昆虫食の見方はもっと劇的に変わってくるのよ。学際分野っていうのは、実に面白いものね」
智恵子はゆっくりと部屋を見渡し、語り始めた。
「医学や栄養学では『検証途上』と片付けられがちだけど、私たち生物学や人類学の世界では、昆虫食が個体の発達や種の繁殖成功に寄与してきた根拠なんて、山のようにあるの」
チンパンジーやオマキザルといった霊長類にとって、シロアリやアリを食べるのは単なる好みではなく、厳しい自然を生き抜くための不可欠な生存戦略だ。雨季の栄養不足を補う主要なタンパク源であり、実際に昆虫を積極的に摂る群れほど成長速度が早く、繁殖成功率も高いことが観察されている。そしてそれは、かつて進化の途上にいた人類の祖先にとっても、最も確実で安全なタンパク源だったのだ。
「さらに人類学の視点を重ねてみなさいな。東南アジアやアマゾンの昆虫食文化を持つ人々を観察すると、タンパク質が不安定な環境下において、昆虫を食す集団ほど子どもの成長不良が少なく、低栄養を回避できているわ。面白いことに、彼らが都市化して昆虫食をやめると、途端に肥満や糖尿病、アレルギーといった代謝疾患が急増するのよ」
智恵子の講義に、居間の全員が固唾をのんで耳を傾けていた。
「つまりね、タンパク源が不足する環境において昆虫を捕食する個体が繁殖と発達で優位に立つ……という仮説は、生物学的にも人類学的にも、完全に正しい方向性を突いているの。都市住民との直接的な免疫比較データこそまだ研究の空白領域だけど、昆虫食は人類が生き残るための最高峰の『生態学的安全弁』として機能してきたのよ」
智恵子が満足そうに語り終えると、隣で静かに聞いていた夫の耕一が深々と頷いた。
「そういうことだ、静江さん。君がイナゴを欲するのは、体が本能的に『古来より種を繁栄させてきた最高の栄養』を求めている証拠でもあるんだよ」
その言葉を聞いた静江は、胸のすくような表情で「私、なんだか地球の歴史に守られているみたいです!」と顔を輝かせた。
「なるほど……地球の生態系と人類の進化論の統合ですね」
腕組みをしていたミツバチ女王のミェリナが、感心したように深く頷く。
「人間界の学者による、実に見事な知見だと思います。2億年前の三畳紀から種を繋いできた私たち群体生物の歴史と、何ら矛盾しません」
「言われてみれば、あたしたちを喰らおうとする人類ほど生命力が凄かったわね!」とスズメバチ女王のツェンドリカも高らかに笑う。
三人の博士による多角的な科学的プレゼンテーション、そして昆虫の女王たちの圧倒的な庇護のもと、高柳静江の「最強の妊娠生活」は、どこまでも賑やかに、そして揺るぎない確信とともに歩み始めたのだった。
「人間世界の研究はすばらしいものです。さて……私の戒厳令はもはや不要ですね」
ミェリナは優雅に立ち上がると、寺田家の三博士に向かって恭しく感謝の礼を執った。
「人間の知見は、自身の発展を自ら理論化し、再構築を済まされている。我ら群体の知見は不要だとはっきりわかりました。今後は藤坂教授のガイダンスに基づいたサポート体制で、その役割を果たしていこうと思います。静江さん、何でも仰ってくださいね」
厳格な警戒体制の解除を宣言したミェリナに続き、ツェンドリカもニッと八重歯をのぞかせて拳を握りしめた。
「そうだな! 料理でも選択でも何でも任せときな! 力仕事なら必ず声をかけてくれよ!」
「リラックスするときは、クロも一緒にするよ〜」
クッションの山からぬっと顔を出したマルハナバチのクロが、怠け者らしくあくびを噛み殺しながら手を振る。(最後のは手伝いになるのだろうか……)とユキオは心の中で密かに突っ込んだが、口には出さなかった。
何はともあれ、玄関先でファブリーズを乱射する過激な過保護体制はこれにて終了だ。ピリピリと張り詰めていた高柳家の空気は一気に和らぎ、ユキオは心底ほっとした表情で深いため息を吐いた。
最新の医学と臨床栄養学、そして太古の地球から続く生物学と進化論。膨大な知恵の「福音」をもたらした三人の博士たちを囲み、静江の顔にはこれ以上ない晴れやかな笑顔が咲いている。
庭先からは、ようやく警戒を解かれてファブリーズのボトルを置いたウーカンとヒチョウの、どこか拍子抜けしたような話し声が風に乗って聞こえていた。
高柳家を包むカオスで賑やかなサンクチュアリは、新たな命を育むための完璧な「調和」へと着地したのだった。




