buzz.60 甲鉄城の女王蜂
高柳家に向かう道は、いつものように心躍る場所へと続いているはずだった。ユキオの少しとぼけた笑顔や、ミェリナたちの浮世離れした、けれど温かい賑わい。
クロ2もネフティスも、普段はこの道のりを足取り軽く、跳ねるように進む。しかし今日は違った。
高柳家の生垣が視界に入った瞬間、二人の動きがピタリと止まる。近づくにつれ、まるで冷たく尖った鉄の杭を頭の奥深くに突き立てられるような、重く鈍い痛みが彼女たちの感覚を直接苛んでいた。
「これは……」
ネフティスが美しい眉間に深い皺をよせ、呻くように声を絞り出した。その瞳には、いつもの気の強さはなく、本能的な畏怖の色が滲んでいる。
「スズメバチが発する『警戒フェロモン』……。いかなる者も近づいてはならない、もし禁忌を犯せば、その命はないと……周囲に知らせているのですわ」
クロ2も、ネフティスの言葉に無言で深く頷き、身を固くした。彼女たちが感じるのは、単なる気配ではない。生態系の遺伝子レベルに刻まれた、絶対的な「捕食者」からの、慈悲なき最終警告だった。
そのただならぬ空気に、寺田耕一は立ち止まり、背後に続く妻の智恵子と娘の理恵子へ、静かに、しかし厳かに注意を促した。
「いいか、二人とも。これは外部からの侵入者に対する、向こうの全力を挙げた警告だ。下手に動けば、命の保証はない」
「お父さん、そんな……。お隣に行くのよ?」
理恵子は、父の言葉が大げさな冗談であってほしいと願った。だが、耕一の顔は真剣そのものだ。理恵子自身、その家の扉を開けることに、なぜか魂が凍りつくような戦慄を覚えていた。
「ええ、分かっているわ。だからこそ、私たちに害意がないことが伝われば、心配することはないはずよ」
智恵子は動じることなく、耕一の隣で優しく、けれど芯の通った声で続けた。
「そうね。笑顔で、心から『おめでとう』を言いにきたことを、精一杯伝えましょう」
「理恵子」
耕一はなおも戸惑う娘の目をまっすぐに見つめ、諭すように言った。
「これは、真の意味で『生態系』と接する時の心構えだ。虚心坦懐。私たちがただの人間として、偏見を持たず、相手に深い敬意を持って、扉を開いてもらうのだ」
長きに渡り、生物学のフィールドで研究を続けてきたオーソリティである耕一の声は、高柳家から漂う、肌を刺すような緊張感を和らげるように響いた。
「恐怖ではなく、魂の交流をしたいと。彼らと共にある未来を、真摯に願うのだ。さあ、行こう」
耕一に促され、理恵子は深く息を吸い込むと、父の後ろ姿に続いて、見えない緊張の糸が張り巡らされた高柳家の敷地内へと足を踏み入れた。
高柳家の玄関のドアを開けると、一歩入った瞬間に空気が一変した。
奥の廊下から二人の屈強な女戦士が滑り出してきた。まるで、城門の衛兵のように、一線を超えた瞬間に命を刈り取る準備が、既に整っている空気を纏っていた。一人は自身の体長ほどもある重々しい青龍刀を構え、その碧色と鈍い金色の刃からヒリつくような威圧感を放っている。もう一人は頭部から炎のような赤い長髪を揺らし、悪魔の角を思わせる禍々しい三叉の矛を左手で構えていた。一瞥しただけで関わってはならないと悟らせる、狂戦士の佇まいである。
「どちら様ですか?」
「事前にアポはとっていますか?」
冷徹な声が重なり、二人の武器が客人の眼前で硬質な音を立てて交差した。まさに高柳家は戒厳令下といった様相であった。
そこへ、奥の部屋からあわてた様子でツェンドリカが飛んできた。
「寺田先生! 失礼致しました!」
ツェンドリカは叫ぶと、激昂した様子で二人の側近――ウーカンとヒチョウに向き直った。
「おい! お前ら! こちらのお方はお隣の寺田様だ。人間の数少ない生態系文明の理解者だぞ! 奥へお通ししろ!」
スズメバチの女王としての威厳を爆発させたツェンドリカは、危険極まりない大刀と三叉矛を素手で払いのけた。ウーカンとヒチョウは静かに武器を収め、深く頭を下げた。
玄関先で繰り広げられた一触即発の騒ぎに、奥から様子を見に来た正平とユキオは目を丸くしていたが、訪問者が誰かを確認すると一転して顔をほころばせた。
「これはこれは、寺田先生! ようこそいらっしゃいました!」
驚きを吹き飛ばすような満面の笑みを浮かべ、正平とユキオは寺田家御一行を温かく迎え入れた。
玄関先の張り詰めた空気を通過し、寺田家の三人――寺田夫妻と娘の理恵子、そしてクロ2とネフティスが歩み進める。
今日ここを訪れたのがこの面々で本当によかったと、ユキオはひそかに胸を撫で下ろしていた。もし訪問客が武闘派の丹節や、宮廷の裏を支配する箕通であったなら、玄関先は一瞬で凄惨な戦場と化していただろう。
一難去ってリビングへ足を踏み入れると、そこには異様な光景が広がっていた。
部屋の最奥、まるで玉座にでも腰掛けているかのように鎮座しているのは、母の静江だ。そしてその両脇には、まるで忠実な側近のごとくミェリナとクロがぴたりと侍っていた。
「まあ、寺田先生! わざわざお越しいただいて……落ち着いたら、こちらからご報告に伺おうと思っていましたのに」
寺田夫妻らの姿を見るなり、静江と思わず立ち上がろうとする。
病院の診察を受け、ようやく妊娠が判明して安定期に入ったばかりの身だ。だが、彼女を心身ともに落ち着かせない最大の要因は、周囲の異常な過保護ぶりにあった。
家の中でオロオロと右往左往するだけで全く役に立たない男たち――夫の正平と息子のユキオ。そして何より、静江の妊娠を知るや否や、高柳家全体に勝手に戒厳令を布いてしまったミェリナたち女王バチ陣営である。
ことの始まりは、ミェリナがツェンドリカとクロに向けて発した決意の宣言だった。
『人間は一度にたった一つしか卵を産まず、自らの胎内で育てる。言わば自分自身を卵にしてしまう構造なのです。静江さんを守ることは、高柳家のDNAを絶滅させない唯一の道……現在、高柳家は絶滅危惧種に指定されるべき状況です。我が陣営は、静江さんの脅威となるすべてを排除します』
その宣言を受けるやいなや、ツェンドリカは即座に行動を起こした。スズメバチの精鋭であるウーカンとヒチョウをこの場に召喚し、一気に警戒レベルを引き上げたのだ。
「何人たりとも、静江女王の玉座に近づけてはならない」
冷徹に言い放ち、玄関先に一次防衛ラインを構築した二人だが、ヒチョウは部屋の隅で縮こまっている正平へ鋭い一瞥を向け、低く呟いた。
「……この人間のオスは、明確に戦力外だな。万が一の際、盾代わりに使うか?」
ツェンドリカが、ヘルパーを手配すると言っていたが、やってきた二人は、どこかの警備会社か、はっきり言って傭兵のような外見をしていた。
「な、なに言ってるの君たち!?」
うろたえる正平を横目に、ヒチョウはフンと鼻を鳴らす。ユキオの戦闘力が皆無であることなど、以前の立ち回りを見れば嫌というほど分かっていたが、この正平というオスも、全く役に立ちそうもない。
正平とユキオの無様な狼狽ぶりをじっと見つめていたウーカンは、ふぅーっと重苦しいため息をひとつ漏らした。
「やれやれ……。われわれのオスも大概頼りにならないが、これほど脆弱な個体も珍しいな」
ウーカンは呆れたように大刀の柄に手を置いたまま、どこか諦観を持った観察眼すらを覗かせてつぶやく。
「一回の交尾で命を散らす我が種のオスと比べても、驚くべき弱さだ。なるほど……遺伝子を小出しにすることで自らの存在理由を繋ぎ留め、能力の低さをカバーする……それが、この『人間のオス』という個体の生存戦略というわけか」
「ウーカン、納得している場合か? 万が一の際は、やはりこいつらも敵の足止めくらいなってもらわねば困る」
ヒチョウの身も蓋もない評価に、正平は「あ、足止めぇ!?」と裏返った声をあげ、ユキオは「僕たち、戦略以前に命の危機なんですけど!」と恨めしげに言い返すのだった。
超高度な生物学的分析と、目の前の情けない父子のリアクション。
あまりに不釣り合いな高柳家玄関先の攻防に、冷や汗を流すユキオたちの悲鳴だけがむなしく響き渡っていた。
高柳家にリビングが、現女王、静江の玉座であった。そこで静江のすぐ両脇を固める最終防衛ライン――ミェリナとクロ。
「近寄るやつには、ちくちく攻撃だぞ〜!」
クロはポテトチップスの袋を片手に持ちながら、ゆるゆると拳を握ってファイティングポーズをとってみせる。緊迫感があるのかないのか分からない構えだが、本気になれば恐ろしい群体を率いる女王である。
ミェリナは静江の肩に優しく手を添え、至極真面目な顔で静かに告げた。
「静江さん、ご安心ください。この聖域を守るため、我が配下より五万匹の精鋭を屋敷の要所に配置いたします。どうか安らかにお過ごしを」
「五万!?」と正平とユキオの悲鳴が重なる。
こうして高柳家には、スズメバチ、クロマルハナバチ、そしてミツバチの三大昆虫勢力による『国家非常事態宣言』および『総動員令』が、静江の妊娠という祝砲とともに華々しく発動されたのだった。
ミェリナたちの口から飛び出す「絶滅危惧種」やら「五万匹の精鋭」やらといった物騒で大げさな単語の意味は、静江には正直なところさっぱり分からなかった。
けれど、彼女たちが自分の体と、そのお腹の中に宿った小さな命をどれほど愛おしく、大切に思ってくれているのかだけは、痛いほど胸に伝わっていた。
「みんな、本当にありがとうね……」
静江は柔らかく目を細め、お腹を慈しむように撫でた。
高柳家の中で、静江と正平の二人だけは、ユキオガールフレンドたちがまさかハチの群体を統率する女王や戦士だとは夢にも思っていない。ただただ「少し浮世離れした、心優しい女の子たち」として温かく受け入れているのだった。
その異様な、けれどどこか温かい光景を、寺田耕一は感慨深げに見つめていた。そして、不審そうに周囲の空気を感じ取っている娘の理恵子へ、そっと声をかける。
「理恵子。これから先、何か意味不明な出来事に遭遇するかもしれないが……すべて『生態系』なのだと了解してくれ」
突飛とも思える父の言葉に、理恵子はクスリと微笑んだ。
「なんとなくわかりますよ。お父さんたちが急に若返ったみたいに元気になったのも、生物学者としての宿命というわけなのね」
「ふふ、それだけじゃないのよ」
母の智恵子が、隣で優しく微笑みながら言葉を添えた。
「私と耕一さんにはね、女王蟻との信義に基づいた、長い交流があったからなの。このクロ2ちゃんとネフちゃんだって……先代の女王蟻から、未来を託された子たちなのよ」
智恵子の視線の先で、クロ2とネフティスは少し誇らしげに、けれどどこか照れくさそうに背筋を伸ばした。リビングを包む空気は、外の物々しい戒厳令が嘘のように、深い絆と柔らかな温もりに満ちていた。
静江を囲む温かな空気を破るように、ミェリナがすっと前に踏み出してきた。その仕草には、数億年の時を越えて群れを統率してきた女王たる者だけの、揺るぎない品格と圧倒的な威厳が宿っていた。
ミェリナはまっすぐな瞳で寺田耕一を見つめ、静かだが部屋の隅々にまで響き渡る声で語り始めた。
「寺田先生。すでにご存知かもしれませんが、静江さんのお腹には次世代の命が宿っています。現時点において、静江さんは高柳家の『最重要防衛資産(Top priority defense assets)』なのです」
洗練された知性と絶対的な意志を孕んだ言葉に、リビングにいた全員の視線がミェリナに集中する。
「現在、高柳家は戒厳令下にあります。先ほど玄関先でご覧いただいたツェンドリカの防衛体制は、まさに我が陣営における最前線の防衛なのです。どうぞ、彼女たちの非礼をお許しください」
ミェリナはそう言って、深く気品に満ちた礼を執った。
「資産だなんて、そんな……」と静江は恐縮して顔を赤らめたが、ミェリナの表情に冗談の色は一切なかった。高柳家の尊い命と血脈を守り抜くため、虫たちの女王は真剣そのものの眼差しで、静江の傍らに立ち続けていた。
「済まないのは、こうして急に押しかけてきた私達の方だ。どうか気を悪くしないでください。それより、静江さん、おめでとうございます」
耕一は温かな目元を緩め、恐縮するミェリナと静江に向けて穏やかに語りかけた。高柳家を取り巻く圧倒的な「防衛体制」の理由を理解したからこそ、その佇まいには長年生物の営みを見つめてきた学者らしい深い懐がある。
「今日は妻と娘が、静江さんにぜひ伝えたいことがあるというので、連れて参りました」
耕一がそう言って振り返ると、智恵子と理恵子が顔を見合わせ、心からの祝福を込めた優しい笑みを静江に向けていた。




