buzz.59 隣の三博士の訪問
「急な用ができたから、私、今夜は実家に一泊していくわね」
ミニバンのハンズフリーから理恵子の夫の声が流れる。「ああ、俺のほうは心配いらないから」と穏やかな声で返した。
理恵子の夫は、元警察署の警部だ。定年後も相談員として警察に籍を置いていたが、70歳を迎えた現在は完全リタイア。今は週に一度、地元の道場で青少年に剣道を教えるボランティアをしながら、悠々自適の年金生活を送っている。
「お義父さんとお義母さんと、ゆっくり話してくるといいよ」
「ありがとう、助かるわ」
通話を終えた理恵子は、助手席のパウンドケーキとフルーツゼリーの箱に目を落とした。
ーー小腹がすいても、喉を通るのはこれくらいかしら。
両親のために買ったのではない。
兄二人を駅まで送り届けるや否や、理恵子がスーパーへ車を走らせ、急遽実家へと引き返している理由。それは、彼女が「臨床栄養学の教授」であるということ、そして下宿人となった少女ふたり——ネフとクロ2が口にした、思いがけない「ニュース」のせいだった。
◇
遡ること数時間前。
寺田家の居間で、クロ2はどこかソワソワと落ち着かない様子で胸を躍らせていた。寺田夫妻に向かって、なにやら喉まで出かかった話を明かしたくてウズウズしているのだ。
しかし、隣に座るネフがそっと手を差し伸べ、静かにそれを制した。
「今日は寺田様のご家族もいらっしゃいます。積もるお話もおありでしょうから、例の件をお伝えするのは、少し落ち着いてからに致しましょう」
一方、その横では寺田家の兄弟たちと、丹節がすっかり打ち解け、賑やかな会話に花を咲かせていた。
「俺たちが子供の頃はさ、よその奴が聞いたらひっくり返るようなもんを食べさせられてたんだぜ」
長男の轟が懐かしそうに目を細める。
「当時は何の疑問もなく口にしてたけどな。イナゴの佃煮とか、蜂の子なんて日常茶飯事だったんだよ。でさ、小学生の頃にうっかり『昨日イナゴ食べた』なんて友達に話したら、みんな目丸くしちゃってさ」
そう言って轟は、人差し指に中指を交差させた左手を、可笑しそうにかざしてみせる。当時の子供らしい「バリア!」というおまじないポーズだ。
「そうそう! あったな、それ!」
次男の磊が思い出して吹き出しながら加わり、両手の親指と人差し指で輪を作り、それを鎖のようにがっちりと噛み合わせた。
「『えんがちょ、鍵かけた!』とかな。まあ、当時の小学生からしたら『虫を食べる』ってだけで未確認生命体を見るようなリアクションになるわけよ。みんなで面白がって『マジで!? どんな味!?』って大騒ぎになったっけ」
「そうそう。こっちも調子に乗って『川エビみたいで美味いぞ!』なんて言ったりしてさぁ」
昭和の放課後を思わせる、無邪気で他愛もない昔話に、兄弟は「懐かしいなぁ」と目元を緩めた。
彼らが笑い飛ばす昆虫食だが、実は古来より日本各地で貴重なたんぱく源やカルシウム、豊富なミネラルを補うための知恵として愛されてきた、立派な伝統食でもある。微笑ましい思い出話を咲かせる男ふたりのやり取りを、周りの面々も楽しそうに見守っていた。
その話題に、男装の麗人のような凛とした佇まいの丹節が語り始める。現場の経験に裏付けられた知識をもって、いつの間にか会話の中心に躍り出ている。
「夏といえば、やはりセミですね」
丹節は真顔で、まるでソムリエかのような深い知識を語り始めた。
「美味しい順で申し上げますと、アブラゼミは味が濃く、力強い旨味がございます。ミンミンゼミは実に淡白な味わいですが、少々クセがあり好みが分かれるところですね。ヒグラシは小型で身が柔らかいものの、食用部位としてはやや物足りません。ツクツクボウシは評価が定まりきっておらず……クマゼミは殻が硬く苦味が強いため一般の評価は低めですが、私はあの独特の苦味が逆に好みでして」
スラスラと語られる昆虫のテイスティングトークに、磊と轟は「おお……!」と感嘆の声を漏らしている。
「ですが、絶対的なオススメは成虫ではなく、幼虫から羽化直前の成虫でございます。朝早くに探しますと、ごく稀に脱皮の途中で力尽きてしまった個体がいるのですが……皮が実に柔らかく、ナッツのような芳醇な風味がして絶品なのですよ」
熱弁を振るう丹節の横を、お茶を差し出しながら箕通が通りかかった。
その瞬間——箕通の頭から、肉眼では捉えきれないほど一瞬、すっと「触覚」が伸びた。
【通信:調子に乗って我らの正体を悟られぬように。しゃべりすぎは禁物ですよ】
即座に、丹節からも目線ひとつ動かさずに短距離通信が送り返される。
【返信:核心は曖昧にしてある。……それにしてもこの寺田家、人間には珍しく昆虫食の習慣があるようだ。素晴らしい環境ではないか】
言葉とは裏腹に、心の中でフッフと満足げに頷く丹節。
そんな怪しい電波(?)のやり取りが交わされているとも知らず、智恵子は寺田家における「昆虫食」の実態を語り始める。
「あなたたちの生まれたばかりの体の素材は、2割ぐらいは昆虫のものね。良質なアミノ酸とカルシウム、しかも美味しいときているので、私はあなたたちがお腹にいるときは、毎日イナゴを食べていたわ。これが、寺田家のDNAと共に受け継がれていった、まさに健康・長寿の遺伝子なのよ」
母・智恵子の突飛かつ堂々たる宣言に、居間の空気が一瞬だけ固まった。
次兄の磊が片手で顔を上から下へとなでおろし、言葉にならない深いため息を漏らす。
「……たしかに、俺たち、風邪なんかで学校休んだことないもんな」
「何食っても腹をこわしたことがないしな。まあ、頑丈に育ててくれたおふくろには感謝してるよ」
轟が自分の立派なお腹をポンと叩いてハハハと笑う。寺田家の驚異的な生命力の源がイナゴだったとは……と兄妹が妙に納得しかけたその時、事件は起きた。
理恵子の隣にちょこんと座っていたクロ2が、ぽつりと口を滑らせたのだ。
「赤ちゃんがお腹にいるときは、虫を食べるといいのですね」
「ふふ、クロツちゃんにはまだ早いけどねー」
理恵子は、自分の少女時代に生き写しのクロ2の頭を優しくなでた。この子の様に、周囲から聡明だと言われた頃の自分を思いだし、思わずフッと頬が緩む。……もっとも、クロ2がまだ「結婚飛行」を終えておらず、卵を産む段階にない女王蟻であるということは、理恵子は知る由も無かったが。
だが、クロ2は真顔のまま、思い切った様子で言葉を続けた。
「でも、静江さんにはすぐに必要です。―――智恵子先生、私にイナゴの佃煮の作り方を教えてください! ……でも、この冬場にどうやってイナゴを拾えるんでしょうか?」
「え?」
智恵子は一瞬きょとんとしてから、イナゴの確保に困った様子のクロ2を見て、楽しげに続ける。
「作り置きならまだいっぱいあるし、冷凍庫には1キロぐらい、キレイに脚と翅を取ったイナゴを保存してあるわ。……って、ちょっと待ちなさいクロちゃん。今なんと言ったの?」
智恵子の目が、鋭く輝いた。
「静江さんってお隣の奥さんのこと? お腹に赤ちゃんがいるってこと? なんでそれが分かったの!?」
「あ……」
口を押さえるクロ2。ここに至っては、もう隠し通すことはできない。ネフが諦めたように静かに息を吐き、助け船を出すように口を開いた。
「智恵子先生、隠すつもりはございませんでした。昨夜のクリスマスパーティーでの出来事です」
ネフの口から語られた急展開に、寺田家の一同は身を乗り出した。
昨夜のパーティーにたまたま参加していたイタリア人の医大生が、静江のふとした体調の変化に気づき、見立てを行ったこと。その判定の精度は極めて高く、妊娠の可能性がほぼ確実視されたこと。
「静江さんは今日、午前中に病院へ行かれております。ですので……もう間もなくお帰りになり、その朗報が確定するはずでございます」
ネフの説明が終わるや否や、居間に衝撃と歓喜の渦が巻き起こった。17年間ユキオくん一人の寂しい核家族であったお隣の高柳家に、ついに新しい命が宿ったというのだ。
「まあ! 静江さんが!?」
智恵子は立ち上がり、歓喜に目を輝かせた。
「大変じゃない! イナゴの佃煮、古いものじゃだめだわ、新しいの炊きましょう。今すぐ冷凍庫からイナゴを出して解凍するわよ!クロ2、ネフも一緒に作り方をよく見ておきなさい!」
「はい、智恵子先生!」
先ほどまでののどかなお茶会が一変、寺田家は静江の「朗報」を迎え撃つための大作戦本部へと変貌を遂げた。理恵子もまた、臨床栄養学の教授としての知識と寺田家の娘としての血が騒ぎ、腕をまくりあげて立ち上がるのだった。
【急転直下のオメデタ準備】
「おめでた」の報せがもたらされるやいなや、寺田家の平和な時間は一瞬で吹き飛んだ。
智恵子の凄まじい号令のもと、寺田家の女性陣は即座に「台所部門」と「押し入れ部門」の二手に分かれ、怒涛の電撃作戦を開始したのである。急遽実家に留まることになった娘の理恵子までもが、「イナゴ佃煮調理グループ」を任されることになった。
「理恵子、お鍋はこの一番大きいのを使って頂戴! 蓋はこれ、吹きこぼれないように気をつけるのよ! クロ2は解凍したイナゴの水分をしっかり拭き取って! ネフはみりんと醤油の計量を!」
「「はいッ!」」
矢継ぎ早に指示を飛ばした智恵子は、そのまま箕通と丹節を引き連れて押し入れの『古代遺物発掘調査』へと向かった。
「産着やベビー服なんて、いくらあっても困らないものね! 昔使ったやつが奥に眠っているはずよ!あと、サラシも必要よね」
今は戌の日の腹帯は飾りのようなもので、サラシだけでなく、伸縮性のある腹巻きタイプやパンツタイプが主流となっている。綿やニット素材の伸縮生地のほか、綿混の腹巻やサポートベルトなど、楽に使えるものが多く使われているのを智恵子は知らない。
廊下と部屋の間を、女たちがひっきりなしに激しく行き交う。ドタバタと家全体を揺らす足音がこだまする中、居間に取り残された耕一、轟、磊の男性陣3人は、完全に置き去りにされていた。
「……なぁ」
轟がひそひそ声で呟く。
「この空気じゃ、台所に缶ビール三本取りに行くことすら命がけだな……親父、俺たちどうしたらいい?」
「……すまんなぁ」
肩を小さくすぼめた父・耕一は、手持ち無沙汰そうに湯呑みをいじりながら言った。
「落ち着いたらまた連絡するから……な?」
手持ち無沙汰極まりない轟と磊は、どちらからともなく互いの顔を見合わせた。
「……帰るか?」
「……うん、ここにいたら邪魔なだけだし」
その時、理恵子が台所からすっと顔を出した。エプロン姿のまま車のキーをジャラつかせている。
「あ、兄さんたち帰るの!? ちょうどこれから追加の買い出しで車出すから、駅まで送ってあげるわ! 乗りなさい!」
「「乗ります」」
このタイミングを逃したら次はいつ脱出できるか分かったものではない。轟と磊は弾かれたように立ち上がった。
「親父、じゃあまた来るわ。体に気をつけてな」
「また今度、ゆっくりしにくるよ」
二人は奥の部屋へと向かい、押し入れに四つんバイで上半身をどっぷり突っ込んでいる母・智恵子の背中に声をかけた。
「おふくろ、あんまり無理すんなよ」
「今度はまた、おふくろの美味いメシ食わせてくれよな!」
押し入れの闇奥深くから、「ハイハイ、気をつけて帰るのよ〜!」と雑な返事と共に手だけがパタパタと振られた。その横では、丹節が「ふんッ!」と重厚な葛籠を担ぎ出し、箕通がそこから引っ張り出された半世紀前の産着を流れるような手つきで仕分けている。まさに戦場だ。
「さっ、もたもたしないで早く車に乗って! すぐ出発するわよ!」
「「うッす!」」
妹の容赦ない指揮命令のもと、男ふたりは逃げるようにミニバンの後部座席へと滑り込んだ。
車がゆっくりと発進する。バックミラーの端には、誰もいなくなった広い居間で、ぽつんと一人小さくなって手を振る父・耕一の姿が映っていた。
「……親父、頑張れよ」
「健闘を祈る……」
兄二人の哀愁漂う呟きを乗せて、理恵子の運転するミニバンはエンジン音も軽やかに、厨子駅を目指して冬の街へと走り出していった。
ミニバンを走らせながら、理恵子の頭の中では買い出しのリストがテキパキと組み立てられていた。
みりんと醤油、それに酢。隠し味に必要なウスターソースと水飴——イナゴの佃煮を完璧な黄金比率で仕上げるための必須調味料だ。
「まさかイナゴだけを持って押し掛けるわけにもいかないものね」
理恵子はスーパーの駐車場に車を止めると、店内へ向かった。一応、形ばかりのギフトとして一口パックのパウンドケーキとフルーツゼリーをカゴに放り込む。
「つわりで食欲が出なくても、ゼリーなら喉を通るでしょうし……一口サイズのパウンドケーキも冬場のおやつにはちょうどいいはず。まあ、自分の妊娠なんて三十年以上も前のことだから、うろ覚えだけどね」
会計を済ませ、両手に買い物袋を下げて車に戻ったところで、ダッシュボードのハンズフリー電話が鳴り響いた。画面には実家の番号。ボタンを押して応答する。
『理恵子! 今、お隣の高柳家に静江さんと正平さんが帰っていらしたわよ!』
智恵子の弾んだ声が車内に響いた。
『病院の見立て通り、間違いなくご妊娠よ! 初期で、ちょうど14週目に入ったところだそうよ!』
「14週……! 確定ね!」
理恵子の目が輝いた。ここからは、まさに臨床栄養学教授としての本領発揮である。彼女の頭脳という巨大なデータベースから、妊婦に必要な最新の栄養学情報が凄まじい速度で検索され、集積されていく。
「14週なら、そろそろ辛いつわりが明けて食欲が爆発する時期よ。食べ過ぎによる急激な体重増加には一番気をつけてもらわないと……! よし、後で私が完璧な献立表を作ってあげるわ」
アクセルを踏み込みながら、理恵子の思考は止まらない。
「そして何より鉄分! 赤ちゃんの血液を作るために、通常期の実に2倍の鉄分が必要になるのよ。鉄欠乏性貧血を防ぐために、食事でしっかり補給してもらわなきゃ。プルーンやブルーベリージャムも悪くはないけれど、市販のものは糖分が多すぎて危険だわ……」
理恵子の脳内で、食材のリストが瞬時に分類・整理されていく。
【肉類・魚介類(吸収率のよいヘム鉄)】
牛・豚の赤身肉: 脂肪が少なく鉄分が豊富。メインのおかずに最適。
カツオ: マグロ以外で手に入りやすい優秀な赤身魚。
あさり・赤貝: 貝類は味噌汁やパスタで手軽に補給可能。
鶏・豚レバー: 鉄分は非常に豊富……ただし、ビタミンAの過剰摂取を防ぐため、妊娠初期から中期は『少量に留める』よう固く指導せねば!
【野菜・大豆製品・海藻(非ヘム鉄)】
小松菜・ほうれん草: おひたしや炒め物に万能な青菜類。
木綿豆腐・納豆・厚揚げ: 毎日の食卓に取り入れやすい大豆のパワー。
ひじき: 常備菜として優秀な海藻類。ただし、少量に留めること。
「よし……非ヘム鉄の効果的な摂り方のコツは、ビタミンCとの合わせ技ね! レモン、ブロッコリー、ピーマンと一緒に調理させて、鉄の吸収率を跳ね上げさせるのよ。それから注意点! 食事中や直後の濃い緑茶、コーヒー、紅茶は絶対NG! タンニンが鉄の吸収を阻害しちゃうから、飲み物は麦茶かお湯に限定させなきゃ!」
イナゴの佃煮という強烈な「伝統の栄養食」に加え、現代臨床栄養学の精鋭知識がズラリと出揃った。
「最高の栄養管理で、お隣さんに元気な赤ちゃんを産ませてあげるわ!」
買い出しを終えた理恵子のミニバンは、完璧な妊婦サポート体制を引っさげて、猛烈な勢いで寺田家へと引き返していくのだった。
実家に滑り込むように帰り着いた理恵子は、買ってきたばかりの調味料を台所の調理台へ手際よく並べた。
「妊婦さんが召し上がるものだから、塩分と糖分は極力控えめにね。酢を十分に利かせて、隠し味にはウスターソース。これで醤油と水飴の使用量をぐっと減らせるわ」
腕をまくり上げ、テキパキと下準備を進めながら、隣で目を輝かせているクロ2とネフに語りかける。
「ただ、水飴を完全に省くのはNGよ。水飴はお料理にコクや照りを出すだけじゃなく、食品中の水分活性を下げて菌の繁殖を抑える……つまり、保存性を跳ね上げる効果があるの。冬場でも暖房が利いたお部屋は雑菌が繁殖しやすいから、このひと手間が大切な防腐対策になるのよ」
「なるほど……!とても勉強になります!」
感嘆の声を上げるクロ2の横で、寺田夫妻はすでに高柳家へ届ける品を手に、訪問の準備を整えていた。
「イナゴの佃煮は、作り置きを冷凍しておいたものを少しだけジップロックに詰めたわ」
母・智恵子が手提げ袋を覗き込みながら、理恵子に声をかける。
「流石にこれだけ持っていくわけにもいかないから、何か手土産を買ってきてくれたかしら?」
「ええ、一口パックのパウンドケーキとフルーツゼリーをね。ほんのお印程度だけど」
「完璧ね。つわりの時期でもゼリーなら喜ばれるわ」
留守中の防犯と、仕込み中の台所の火の番。その重要な役目は「留守居組」の箕通と丹節のふたりへ託された。ふたりは「お任せくださいませ」と凛とした所作で深々と一礼する。
準備はすべて整った。
寺田耕一、智恵子、そして臨床栄養学の知識を一身に宿した理恵子――まさに寺田家の「三博士」は、導かれるようにクロ2とネフを伴い、おめでたの歓喜に包まれたお隣・高柳家の門をくぐるべく、静かに歩みを進めるのだった。




