buzz.67 新春ドリーム・フルダイブ(4)
◇ 教育番組のMC先生
(♪〜〜〜軽快なサルサのBGM)
静まり返った森の中に、突如として陽気でラテンなリズムが鳴り響いた。
「な、なんだ!? 今度は何が始まったんだ!?」
困惑するユキオの眼前に、空間を歪めてぬっと現れたのは、見覚えがありすぎる一人の女性の姿だった。
艶やかな黒髪を肩になびかせ、上品なジャケットに膝下のタイトスカート。知的な眼鏡の奥から相手をじっと見つめるその人物は——ユキオが通う蓮華高校の理科教師であり、理科研究クラブ顧問の鳴海千鶴(なるみ ちづる)先生(38歳・バツイチ独身、婚活中)その人であった。
「なっ……鳴海先生!? なんでこんなところに!?」
「え、ユキオの先生なんだ~! ラテンBGMでノリノリだねー!」
隣でクロがのんきに手を振る。ユキオは思わず頭を抱え込んだ。
「この先生、高校の理科クラブの顧問なんだよ……! 話し出したらとにかく長くて止まらないんだよなぁ……。しかも実際に、地方FM局の学生向け教育番組のMCまでやってるんだぞ!」
「へー、多才な先生なんだねー」
「それだけならいいんだけどさ……『チュートリアル』としてこのタイミングで出てきたってことは……うわぁ、この流れで行くと、絶対さっきの蚊(ヒトスジシマカ)の生態とかについての講義が始まるんだろ……」
ユキオの悪い予感は、いつも通り大当りした。(正確を要する判断は必ず大外れとなるが)
「みなさん、こんにちは! 鳴海の理科年表『サイエンス・ハンドブック』のお時間が参りました。パーソナリティの鳴海千鶴です」
鳴海先生はマイクも持っていないのに、完璧なアナウンサー声でカメラ(存在しない)に向かって微笑みかけた。
「さて、今日のテーマは『蚊』です。夏場というのは肌の露出が多くなるのに、追い打ちをかけるように蚊に悩まされる季節ですよね。今日のテーマは『夏と書いて「か」(蚊)』と読ませる……偶然にしては出来すぎていると思いませんか?……おっと、前のめりにならず、周波数はそのままで! それではリラックスしてまいりましょう」
「完全にラジオ番組のノリで始めてやがる……!」
困惑するユキオを無視して、鳴海先生のスイッチは完全に「ON」に入っていた。
「蚊といえば、刺されたあとは痒いですし、危険な伝染病を流行らせることもあって厄介ですよね。皆さんは毎年の蚊の対策、どのようにされているでしょうか? ちなみに、蚊が媒介する主な感染症には、以下のようなものがあります」
先生が指を鳴らすと、その場は青空教室に早変わりした。空中になぜか黒板が出現し、流れるような手つきで文字が書き走る。
デング熱(病原体:デングウイルス/媒介:ネッタイシマカ、ヒトスジシマカ)
マラリア(病原体:マラリア原虫/媒介:ハマダラカ)
ジカウイルス感染症(病原体:ジカウイルス/媒介:ネッタイシマカ、ヒトスジシマカ)
チクングニア熱(病原体:チクングニアウイルス/媒介:ネッタイシマカ、ヒトスジシマカ)
日本脳炎(病原体:日本脳炎ウイルス/媒介:コガタアカイエカなど)……
「蚊の虫刺され予防の基本は、長袖・長ズボンで肌の露出を避けること。ディートやイカリジン配合の虫よけ剤を活用すること。そして何より、バケツや受け皿の『水たまり(澱み)』をこまめに捨てることです。……例えばですね!」
「出た! 先生の『例えば』だ! これが始まると長期戦確定なんだよ!」
ユキオの悲鳴を余所に、鳴海先生の講義は加速していく。
「蚊が血を吸う際に感染症を媒介するのは、吸血の直前に『自分の唾液』を体内に注入するからなのです。そのまま吸うと血液が固まって針が詰まりますし、痛みで人間に気づかれますからね。麻酔と抗凝固成分入りの唾液を入れる……刺されて痒くなるのは、この唾液へのアレルギー反応なんです。そして、その唾液腺に潜んでいた病原体が一緒に送り込まれてしまうわけですね」
「ふむ……」
ここで、先ほどヒトスジシマカを瞬殺したばかりのヒチョウが、袖をすっと整え、真面目に手を挙げた。
「質問ですが」
「はい、そちらの赤髪の生徒さん!」
「蚊は長きにわたる進化の過程で、なぜ病原体を滅殺せず、共存の道を選んだのですか? 病原体を保有して血液の供給源(人間や動物)を減らしてしまうリスクを、自然淘汰の面から説明できますか?」
「おいヒチョウ! なんで普通に授業に参加してんだよ!?」
ユキオがツッコむが、鳴海先生は「素晴らしい質問ですね!」と目を輝かせ、黒板にバシバシと図を描き始めた。
「着眼点が素晴らしいです! 自然淘汰の視点から見ると、理由は大きく4つのポイントに分かれます」
・エネルギーの最適配分(コストの天秤)
「病原体を完全に滅殺する強力な免疫を動かすには、莫大なエネルギーが必要です。命に別状がないなら、そのエネルギーを『産卵』や『天敵から逃げるため』に回す個体のほうが、自然淘汰で生き残りやすいのです」
・病原体側の『生かさず殺さず』の進化
「蚊を殺してしまうほど強毒な病原体は、次の宿主に運ばれる前に蚊と一緒に死滅します。結果として『蚊の寿命には影響を与えず、体内で増殖する』絶妙な病原体だけが生き残ってきました」
・宿主を絶滅させない生態系バランス
「感染症で人間が減っても、蚊は鳥や豚、爬虫類など複数の動物から吸血できます。また、人間側も多くは回復して免疫を獲得するため、供給源がゼロになることはありません」
・病原体による『宿主の弱体化』というメリット
「そしてここが最も合理的で皮肉な点です! 元気な人間は手で叩いて蚊を撃退しますが、高熱でぐったりしている宿主は追い払う元気がありません。つまり、病原体が宿主を弱らせることで、蚊は『叩き潰されるリスク』を激減させ、安全に血を吸えるのです!」
鳴海先生は黒板をパンパンと叩き、大人の余裕に満ちた笑みを浮かべた。
「自然淘汰に未来を憂う計画性はありません。『今、この瞬間にどれだけ効率よく子孫を残せるか』。蚊にとって病原体は、獲物を弱らせてくれる便利な同乗者なのです。……ちなみにですね! この『宿主を弱らせて感染を広げる』という戦略は、進化医学(エボリューショナリー・メディシン)という分野で深く研究されておりまして――」
「先生! 『ちなみに』が出たらもう終わりがないから!!」
ユキオの絶叫が響く中、のどかな里山の夢世界は、不気味なバケモノの襲来から一転、なぜか熱血な高校教師の「出張理科講座」へと変貌を遂げていたのだった。
「先生! 質問です!」
今度は、ユキオの隣で静かに話を聞いていたクロが手を高く上げた。
「ん? どうしたクロ、お前がそんな真面目に質問なんて珍しいジャマイカ!」
ユキオが驚いて見つめる中、クロは至極真面目な顔をして、ちづる先生へと問いかけた。
「ハチが哺乳類なんかに痛い思いをさせるのって、身を守るためですよね? だったら、自分の体の中でわざわざ面倒な毒を作るより、蚊みたいに病原体を注入したり飛ばしたりして自分の武器にした方が、省エネで合理的じゃないですか? ほら、フグだって自分で毒を作らないで、食べたヒトスジシマ……じゃなかった、ヒトデからテトロドトキシンを集めて利用してるって聞いた気がします!」
「まあ! あなたの着眼点も素晴らしいすね、クロさん!」
ちづる先生の瞳が、キラーンと怪しい光を放った。黒板に向かっていた先生がグルリと振り返り、白いチョークを指先でシャキンと構える。
「出た……! 先生の大好物『生徒からの鋭い質問』だ……!!」
ユキオが頭を抱えるのを余所に、ちづる先生のマシンガントークが再び爆発した。
「おっしゃる通り、『他者(微生物など)の力を借りて強力な効果を得る』というのは、進化の歴史において非常に合理的な生存戦略です! フグのテトロドトキシンはまさにその典型例ですね。ですが……なぜ蜂や蛾が、蚊のように『病原体の注入・射出』を生存ツールにせず、自前で毒を合成したり、別の方法を選んだのか? これには『目的(時間軸)の違い』と『病原体という不確実なパートナーを飼う致命的なリスク』が関係しているのです!」
ちづる先生は黒板に、手慣れた手つきでデカデカと【即効性の毒(爆弾)】VS【遅効性の病原体(生物兵器)】という対立図を描き出した。
① 目的(時間軸)の違い:「今すぐ」か「後から」か
「まず、昆虫が攻撃や防御を必要とするシチュエーションです。例えば、スズメバチやカレハガの毛虫が持つ毒。これは鳥や人間に襲われた瞬間に『激痛』を与えてその場で追い払う、あるいは『二度と襲うまい』と学習させるためのものです」
先生は黒板のハチの絵をチョークで叩く。
「もしここで、ハチが蚊のように『数日後に高熱が出る病原体』を注入したとしましょう。どうなりますか? ……そうです! 目の前の天敵は今すぐ逃げてくれないので、ハチはその場で攻撃を受けて死んでしまいます! つまり、防御や緊急の捕食においては、即効性のある(自前または濃縮の)化学毒でなければ意味をなさないのです!」
「なるほど……! 確かに、刺した瞬間に相手が痛がって逃げてくれないと、こっちが潰されちゃいますもんね!」
クロが納得したように何度も頷く。
「そう! 一方で蚊やマダニの目的は『気づかれずに血を吸って逃げること』です。病原体がもたらす『宿主が後から発熱して動けなくなる』という効果は、蚊の次の世代や後日の吸血には有利ですが、その場の防御には使えません。つまり、要求される時間軸が根本的に違うのです!」
② 「病原体」という不確実なパートナーを飼うリスク
ちづる先生はチョークを持ち替え、今度は不気味なウイルスの絵を描き始めた。
「次にリスク面です。他者の力を借りる戦略は省エネですが、常に『裏切られるリスク(乗っ取り)』と隣り合わせです」
「裏切り……ですか?」
ヒチョウが三叉の矛を抱え直し、身を乗り出す。
「ええ。フグのテトロドトキシンは『単なる化学物質』ですから、フグの体内で勝手に増殖したり、遺伝子を書き換えたりしません。フグは『毒が効かない体質』さえ持てば、100%安全に保管・利用できます」
先生は黒板をバン! と強く叩いた。
「しかし、ウイルスや原虫などの『病原体』は、常に自己複製と変異を繰り返す動的な存在です! 昆虫が体内に病原体を囲い込もうとすると、そいつが突然変異して『昆虫自身の細胞や生殖機能を破壊する(強毒化する)』リスクが常に付きまといます。実際に『ボルバキア』という細菌は、昆虫の生殖システムを完全ジャックして、オスを勝手にメス化させたりするんですよ!」
「ひえっ……! 男の娘化細菌……!?」
ユキオが思わず股間を押さえて身を縮めた。
「その点、自前で合成するアミノ酸や有機酸などの毒素は生物学的な意思を持ちません。自分が毒にやられない耐性さえ作れば、100%コントロールできる絶対的な兵器となるわけです」
③ コストの比較:自前の毒も実は安上がり?
「最後にコストです。『病原体を養うスペースと栄養を提供するコスト』と『自前で毒の分子を組み立てるコスト』を天秤にかけたとき、必ずしも病原体の方が安上がりとは限りません」
先生は上品に微笑みながら、説明を進める。
「多くの昆虫の毒は、普段食べている植物の毒素を少し作り変えたもの(マダラチョウなど)や、代謝の過程で自然にできる単純な有機酸(アリの蟻酸など)です。動的に変化する病原体と命がけの交渉(免疫制御)を続けるコストに比べれば、自前で毒を分泌する方が、結果的に『低コストで確実』になるケースが多々あるのですよ!」
ちづる先生はパンパンと手に付いたチョークの粉を払い、大人の余裕で笑顔でまとめに入った。
「まとめましょう! 昆虫の進化において、どちらの兵器を選ぶかは『今すぐ効く爆弾(毒)』が必要か、『後から効く生物兵器(病原体)』で十分かという要求スペックの違いです。ハチやムカデは即効性が命だから自前の毒。蚊やマダニは隠密行動が命だから病原体とタッグを組む。……蚊の戦略はスマートですが、それは『吸血』という特殊なライフスタイルに特化したからこそ成立した、奇跡的なバランスの上の合理性なのですよ!」
「はぁ〜〜〜〜!!」「なるほどなぁ〜〜〜っ!!」
クロとヒチョウが同時に感心の声をあげ、パチパチと拍手を送る。
夕刻間近の里山の森に突然現れた理科教室に、強い西日が差し込んでいた。木目調の教卓と黒板が妙に浮いている不思議な空間である。
教卓の前に立つのは、ピシッとしたスーツに身を包んだ生物教師・鳴海千鶴。知的だがどこかトゲのある雰囲気を持つ、自他ともに認めるスズメバチ系女性教師である。
その前で、ハチ姿のユキオがおどおどと身を縮め、丸っこいクロがのんびりムードで座っていた。
「……で? ユキオ君、さっきから何をそんなにモジモジしているの。まるで捕食者を前にしたイモムシね」
鳴海先生の眼鏡の奥の瞳が、鋭く光る。
「あ、あの、先生……さっきから僕、教室で飛び回っている蚊に刺されてて。痒くて集中できなくて……。横のクロは全然刺されてないのに、なんで僕だけ……」
「ふふ、私、なぜか昔から蚊に刺されないんだよね〜。蚊さん、私のこと空気だと思ってるのかも〜」
クロが前脚をパタパタさせながら朗らかに微笑む。
「それはね、ただの体質と二酸化炭素の排出量の差よ。でもユキオ君、あなたがその小さな羽虫に血を捧げている今、あなたの体内には何が注入されているかしら?」
「ひえっ! え、えっと……蚊の唾液、ですか? 痒くなるやつ……」
「それだけなら可愛いものよ。最悪の場合、デングウイルスやマラリア原虫といった『病原体』が一緒に送り込まれているわ」
「ええ〜、蚊って、ただ血を吸うだけじゃなくて、そんな余計な病気までプレゼントしてくるんですか? 意地悪ですね〜」
クロの気楽な感想に、鳴海先生は人差し指を立てて首を振った。
「いいえ、それは人間の主観よ。生物学の目で見れば、これは蚊と病原体による、ぞっとするほど合理的で美しい『共生戦略』なのよ」
「きょ、共生……? でも、病原体に体を乗っ取られたら、蚊だって迷惑なんじゃ……。なんで長年の進化の中で、蚊は病原体を滅殺する方向に行かなかったんですか?」
「いい質問よ、ユキオ君。少しは脳細胞が働いているようね」
鳴海先生は満足そうに口元を緩めると、チョークを取って黒板にカカッと文字を書き走り始めた。
「生物が体内の異物を完全に『滅殺』するにはね、莫大なエネルギーが必要なの。つまり、強力な免疫系を動かすコストよ。蚊にとって、その病原体が自分の命を脅かさない(重い症状を出さない)のであれば、わざわざエネルギーを使ってまで退治するより、無視してその体力を『卵を産むため』に回した方が、自然淘汰において生き残りやすいのよ」
「なるほど〜。お部屋の小さなホコリなら、大掃除するより見なかったことにする方が楽ちん、みたいな感じですね〜」
「……例えのズボラさに目をつむれば、本質はそういうことよ。さらに言えば、病原体側の進化も絶妙なの。もし病原体が蚊を殺してしまえば、自分も次の宿主に運んでもらえず死滅する。だから病原体は、『蚊の体内では増殖するけれど、蚊の寿命や飛行能力には影響を与えない』という、生かさず殺さずの絶妙なコントロールを身につけたの」
その時、教室の後方でシャーマン装束の赤髪の美少女・ヒチョウがすっと静かに手を挙げた。
「我が一族の伝承によれば、宿主を蝕む汚物は焼滅させるのが鉄則。しかし、その弱小な羽虫どもは不浄の存在とすら対話し、利用しているというのか……」
「……」
誰もその神聖なコメントを拾うことなく、そのまま自然にスルーされた。
「へぇ……じゃあ、蚊と病原体はwin-winっていうか、お互い納得の上で同乗してるんですね」
ユキオが感心したように頷き、そのまま言葉を続ける。
「でも先生、病原体が人間の数を減らしちゃったら、蚊にとっても血液の供給源が減って困るんじゃ……?」
「そこがまた、自然淘汰の冷徹で面白いところよ。そもそも、これらの病原体は人間を絶滅させるほどのスピードでは広がらない。それどころか、病原体が人間を病気にすることは、蚊が血を吸う効率を上げるメリットがあるのよ」
「えっ? メリット?」
「考えてごらんなさい。健康で元気な人間は、蚊が刺してきたら手で叩いたり、追い払ったりするでしょう? 実際、私なら私の体に止まった蚊など、一瞬で圧殺するわ!」
(ひっ、先生なら本当に素手でバシッとやりそう……)ユキオは、自身が蚊に姿を変えられたような錯覚を感じた。
「だが、刺突の瞬間に神速の突きを叩き込めば圧殺など易し」
背後でヒチョウが三叉の矛を握り直して凛とした声で呟いたが、やはり当たり前のように誰にも触れられず流されていく。
「でも、感染症にかかって高熱を出し、ぐったりしている人間や動物はどうかしら? 蚊を追い払う元気もない。つまり、病原体が宿主を弱らせることで、蚊は『叩き潰されるリスク』を劇的に減らし、安全に血を吸うことができるのよ」
「わぁ、蚊さんにとっては、病原体くんが『ご飯を食べやすくしてくれる親切な相棒』になってるんだ〜」
「その通りよ。自前で毒を合成して身を守るスズメバチのような『即効性の武闘派』とは対照的に、蚊は病原体という他者の力を借りて、後からじわじわ宿主を弱らせる『遅効性の頭脳派』の道を選んだの。どちらも生き残るための合理的な戦略よ」
「我が矛の激光は、即効性にして絶対。頭脳派などというぬるい吸血虫など、一閃のもとに焼き尽くすのみ……」
ヒチョウが矛先をチラつかせながらミスティックなオーラを放ったが、鳴海先生の熱弁の前には一粒の砂利のごとくスルーされた。
「うう、話を聞いてたら、蚊が、ものすごい悪の組織のインテリに見えてきました……」
「ふふ、怖気づいたかしら? でも安心なさい、ユキオ君。現代の日本国内なら、その蚊が危険な病原体を持っている確率は極めて低いわ。ただ……」
「ただ……?」
鳴海先生の視線が、ユキオの前脚(腕)へと落ちる。
「さっきからあなたの腕に、丸々と太ったヒトスジシマカが止まったまま、ものすごい勢いであなたの血を吸い上げているわよ? ほら、早く叩き落とさないと、痒みという名の『お土産』がどんどん注入されるわ」
「うわあああ! 本当だ! クロ、ちょっとティッシュ取って!!」
「はーい、のんびりね〜。がんばれ〜、ユキオくん〜」
クロの呑気な声が途切れた、まさにその瞬間だった。
「不潔な害虫め、ユキオごと滅殺してくれる!!」
教室の最後方から、先ほどまで背景と同化するようにスルーされ続けていたヒチョウが躍進した。その手中にある三叉の矛には、猛暑の太陽すら霞むほどの苛烈な「激光」が集束している。狙いは明白――ユキオの腕に止まるヒトスジシマカ、そしてそれを腕ごと焼き尽くす一閃である。
「ちょっとヒチョウ!? それ『ついでにユキオも処分しちゃお』の威力だよー!?」
「害虫を宿せし肉体は、不浄の芽が芽吹く前にその体ごと滅却するのが我が一族の鉄則!」
「どんな鉄則だよッ!? 害虫ごと俺を消し飛ばそうとするなあああぁぁぁっ!!」
西日の差し込む臨時の理科教室に、三叉の矛から放たれた衝撃波とユキオの悲鳴が豪快に轟いた。
「あらあら、威勢がいいわね。……フッ、本当に騒がしい生徒たちね」
鳴海先生は、目の前で巻き起こる爆風に黒髪をなびかせながら、満足そうに小さく口元を緩めてチョークを置く。
パチンと虚しく空を切るユキオの手のひらの音と、蚊の必死な回避運動、そしてクロのおっとりした笑い声が、夕刻の里山にどこまでも賑やかに響き渡るのだった。
◇ 現実と隣り合わせの夢
高柳静江と正平は、息子のユキオが美少女(の姿をした群体アバター)たちと川の字になって眠り、その意識が夢の世界へダイブしているという現実を、どう受け止めたらいいのか分からずにいた。
親としてこの異常事態にどう対処すべきなのか。二人して未だ明確な結論が出せないまま、居間で静かに寄り添って眠る三人を見つめ続けている。
「ミェリナちゃんは『睡眠学習』だと言うけれどだな……ユキオのこの、羨ま……ゲフンゲフン! けしからんと言うか、高校生としてあるまじき境遇の乱れに、親としてどう納得したらいいんだ……」
正平が額の汗をぬぐいながら拳を握り締めると、側に控えていたミェリナは、いつものように感情の起伏を感じさせない冷静なトーンで応じた。
「3分が経過しました。あちらの『夢階層β』では、すでに3ヶ月が経過した計算になります。実体験による生態系の学習は、現実世界のわずか10分で300日分。一日8時間相当の学習時間として換算すると、実に2400時間となります。正月休みのほんのわずかな時間で、極めて効率的に必要な基礎知識を身につけることが可能です」
ミェリナたちは、カプセルの中での高速チュートリアル学習を完了させている。彼女たちは昆虫の群体でありながら、人類の語学、地理、歴史、習慣、法律など、最高峰とされる高等教育すらとっくに習得し終えているのだ。
例えば仮に、明日ヨーロッパへ渡航して王室外交を完璧にこなしてきてほしいと依頼されれば、彼女たちはハチ群体の代表として、何一つ落ち度なく立派に外交を遂行してくるだろう。ただ、地球の人類側の世界観や常識が、それを到底受け入れられないというだけの話であった。
傍らに腕組みをして佇むツェンドリカは、口には出さないものの、人類が歴史の中でどれほど愚かで恥ずべき行為を重ねてきたかを熟知している。もし彼女が国際会議の場に立てば、その峻烈な舌鋒で各国の参加者を叩きのめすことすらできる。
(『害虫』などという捉え方は、人間の傲慢の最たるものだ……)
ツェンドリカは無言で静江たちの背中に視線を向け、心の中で吐き捨てるように言葉を紡ぐ。
(地球の生態系は、すべてが緻密なバランスを保って成り立っている。それにもかかわらず、人間どもは子孫を残す前に死滅するよう遺伝子操作した蛾の幼虫を、興味本位の実験フィールドに解き放ったそうではないか。もしそれが目先の都合による軽率な介入だとしたら、いずれ人類そのものを死滅させるドミノ倒しは、最後の1片はお前たちの背中にあるのだ。
地球はもとより温暖化と寒冷化を周期的に繰り返している。下手に人為的な操作を加えれば、その振幅は生態系のホメオスタシス(恒常性)の限界を超え、取り返しのつかない破滅を招く。安直にCO2を減らせば良いだの、オゾンホールを塞げば解決するだのという単純な話ではないのだ……)
まあ、仮にこれを今ここで人間に突きつけたところで、彼らが自らの愚かさを素直に受け入れるはずもないと、ツェンドリカは冷淡に理解していたのだが。
そうとは知らず、正平は「2400時間……? 受験生の夏期講習どころじゃないな……」と、ミェリナの提示した圧倒的な数字に気圧されるように呟くのだった。
◇ 託された新たな絆
「正平さんも静江さんも、人間社会の緻密なルールの上に立ってお考えのことと存じます。しかしながら、あと数分で睡眠学習は終了いたします。今日はお試しということで、何の準備もなく、お二人にはご心配をおかけするような仕儀となってしまいました。今後は事前にお話をした上で、安心して見守り頂けるようにいたします」
静かに頭を下げたミェリナの言葉は、どこまでも理路整然としており、非の打ち所がない筋が通っていた。
正平と静江は顔を見合わせ、深く頷いた。ミェリナの言葉には、出会った時から一度たりとも嘘や誤魔化しがなかったことを、夫婦は誰よりもよく知っていた。
「ミェリナの言葉は、今までただの一つも間違っていたことはなかったよ。……ユキオは本当に幸せものだ。私たち夫婦はこれからも、ミェリナやツェンドリカを信じて、仲良くやっていきたいと思っているんだ」
正平が温かい眼差しで告げると、傍らで不機嫌そうに腕を組んでいたツェンドリカの表情が、どこか満足げに和らいだ。
「正平さんにそう言ってもらえると嬉しいです。……こんど時間がある時に、ゆっくり魚の捌き方を教えてください」
「ははっ、お安い御用だ! ツェンドリカは筋が良いから、包丁の扱いもすぐに覚えるよ」
頼もしく笑う正平の横で、静江はミェリナの前へと歩み寄り、一人の母親として静かに深く頭を下げた。
「ユキオのこと、どうぞよろしくお願いします。あの子がこれからも真っ直ぐに育っていけるように……」
十六年間、深い愛情を注いで一人息子を大切に育ててきた母の思い。
その重みと温もりが、ミェリナの胸の内に真っ直ぐに届く。
感情を表に出すことが稀なミェリナの心が、その一瞬で大きく揺れ動いた。透き通るような彼女の瞳から、ポロポロと大きな涙の粒が溢れ落ちる。
「……私たち群体の全生命を持ちまして、ユキオさんの命を支える覚悟です。私が、私たちがユキオさんと共に生きていくことこそが……二億年の時を越えて種を繋いできた真の理由であったのだと、今、はっきりと理解いたしました」
その声には、一切の迷いも偽りもなかった。
あまりにも壮大で、あまりにもどこまでも深い愛が我が子に向けられている。それを肌で感じ取った静江の目からも、溢れ出る涙を止めることはできなかった。
「ユキオを……託します。ミェリナさん、どうかあの子をよろしくお願いします……」
愛する息子を信じ、その未来を託せる存在に出会えた感動。
静江の胸は、これから紡がれていく新たな命と未来への確かな幸せで、満たされていくのだった。




