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女王蜂に育てられた俺~宇宙最難関資格に挑む  作者: 和子


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buzz.57 クリスマスケーキが出来上がる頃には(後編)


 リビングではミェリナの指揮のもと、クリスマスツリーの飾り付けが着々と進められていた。


「ツリーの飾り付けはただ物を引っ掛ければいいというものではありません。色と光の配置、全体の密度バランス……そして人間の文化的背景を理解したうえでの美意識が問われるのです」


 ミェリナは教壇に立つ教師のような厳かな口調で、後輩のクロ2とネフを見渡した。


「は、はい……! 頑張ります!」


 クロ2は少し緊張気味に背筋を伸ばし、キラキラと輝くオーナメントを小さな手で大切そうに抱え直した。視覚はハチには及ばないアリである彼女にとって、こうした人間界の華やかな行事はいちいち新鮮で、胸が躍るものばかりだ。


 対照的に、ネフティス――クロ2と共同統治をする、アリの新女王は、腕を組んでツリーを見上げながら不適に笑う。


「ふん、この私にかかれば、このような作業など造作もないことですわ! ピラミッドの建設に比べれば、木の枝に紙くずやガラクタを引っ掛ける程度の作業、赤子の手をひねるようなもの……ッ!?」


 強がりを言った矢先、ネフの目がツリーの根元に落ちている『金の鈴』と『赤いリボン』に留まった。


「な、なんですかこの輝きは……! この金属の質感、そして眩いばかりの赤! 素晴らしい……これは我に相応しい至高の財宝……!」


「ああっ! ネフ、だめだよ! それはツリーに飾るやつだから持っていっちゃダメ!」


 蟻の習性が頭をもたげ、思わず金の鈴を拾い、口に運ぼうとするネフを、クロ2が慌てて呼び止める。


「な、なにを言うのですクロ2! 落ちている……いえ、置かれているものは回収し、活用するのが我ら蟻の至高の美徳であり鉄則でしょう! 渡しませんわよ!」


「もう、ネフったら~! 寺田さん家の時もそうやって落ちてたスプーン持って帰ろうとしてたじゃない!」


 ワーワーと鈴を引っ張り合う女王蟻二人。そのドタバタぶりを横目に、ガントチャートを片手にハラハラしながら見守っていたユキオが、意を決して二人の間に割って入った。


「こ、コラコラ二人とも! 喧嘩しないで! ネフ、それはツリーの『一番目立つ枝』に飾るための特別なお宝なんだ。一番上のいい場所に飾るもんだ」


「ほう……いいでしょう、ならばこのわたくし自ら、最高の位置に配置してやろうではありませんか!」


 ユキオの咄嗟の機転(と子供っぽい誘導)にあっさり乗っかったネフは、フンと鼻を鳴らすと、脚立に登って鈴をツリーのハイライト部分へと誇らしげに飾り付けた。


「とても上手ですわね、ネフ!」


「……まあね。わたくしの美的センスをもってすれば当然の結果ですわ」


 クロ2に褒められて、ネフはそっぽを向きながらも心なしか嬉しそうに頬を緩めている。クロ2もまた、楽しそうにメタリック塗装した松ぼっくりや銀色のモールを丁寧に枝へと配置していった。


 二人の様子を静かに見守っていたミェリナは、ふっと満足げに目を細めると、ユキオに向かって小さく頷いた。


「見事な統制ですね、ユキオ。現場のモチベーションを管理し、適切なリソース配置を行う……司令塔としての第一関問は合格といったところでしょうか」


「はは……ヒヤヒヤしたよ。ガントチャートの予定時間からは5分遅れてるけど、まあ許容範囲かな……」


 スマホの画面をタップして進捗状況を『進行中(良好)』へと変更しながら、ユキオは小さく息を吐いた。


 緑のツリーには、赤や金、銀のオーナメントが賑やかに踊り、部屋の中に一気に華やかなクリスマスの雰囲気が広がっていく。キッチンから漂う甘いケーキの匂いと相まって、高柳家のリビングは今までにない特別な温もりに包まれつつあった。


 スマホの画面をタップして進捗状況を『進行中(良好)』へと変更しながら、ユキオは小さく息を吐いた。


 賑やかに彩られていくクリスマスツリーを眺めながら、ミェリナはそっとユキオの隣へと歩み寄った。澄んだ瞳でツリーと、楽しそうに手を動かす後輩たちを見つめ、静かな声で語りかける。


「恒星域観測士(Super Stargazer)がどのようなスキルを求められているのか、詳しくは分かりませんが……『生態系を見つめる(ecosystem gazing)』という字義のとおりに言えば、目の前の生態系の営みを捉えて、静かに思考をめぐらせることは非常に大事です」


 ミェリナはふっと視線を落とし、ツリーに飾りを付けながら「見て見て、ミェリナ様!」とはしゃぐクロ2と、それに「フン、わたくしの飾りの方が美しいですわ」と張り合っているネフに優しい眼差しを向けた。


「クロ2とネフが人間の祝祭事に関心を持ち、参加する行動。これは生態系の新しい営みです。私たち蜂も個体となって、冬に冬眠以外の行動をしています。ユキオはこれをどう思いますか?」


 まるで恒星域観測士の試験官のような、厳かでありながらどこか温かい問いかけ。不意を突かれたユキオは、少し頭を掻いて考え込んだ。


「ええと……新しい進化? あるいは、観測する視点を変える時期に来た? ……なんてね」


 専門的な考察というよりは、思いつくまま口にした適当な返答だった。しかし、ミェリナはユキオの顔をじっと覗き込むと、その美しく整った唇を和らげ、どこか誇らしげに優しく微笑んだ。


「生態系を正しく捉えています。―――この数ヶ月、私たちと過ごしたことが成果に結びついているようです」


「えっ……」


 直球で褒められ、ユキオは照れくさそうに下を向いた。胸の奥が少し甘酸っぱく疼くのをごまかすように、つぶやいた。


「そ、そんなに単純な試験じゃないだろう……?」


「基礎レベルがしっかりできている、ということです」


 ミェリナは凛とした声でそう言うと、少しだけお茶目な光を瞳に宿させた。

「これをもって、私の教育計画という“ガントチャート”に、現在地点のチェックがつけられます」


「えっ、ミェリナもガントチャート作ってたの?」


 言葉を継ごうとした瞬間、ふわりと甘い蜜のような香りがユキオの鼻腔をくすぐった。

ミェリナの柔らかな身体がそっと近づいてくるのがわかる。

身構える暇もなかった。

温かなものが、ユキオの頬にやさしく触れた。


 チュッ、と小さな音がして、ユキオは目を瞬かせる。

「わっ……! び、びっくりした……」

顔はたちまち真っ赤になり、胸の鼓動だけがやけに大きく響いていた。

頬を押さえたまま、ユキオは弾かれたように周囲を見回した。


 キッチンでは、静江とツェンドリカが「クリスマスケーキって、ウチで作るのか?!」「私も初挑戦なのよ!」と盛り上がっている。ツリーの前では、クロ2とネフが「もっと上に鈴を飾るべきですわ!」「えー、届かないよぉ」と夢中になって作業を続けていた。


 誰ひとりとして、今の出来事に気づいていない。


「……ふふ」


 照れまくって狼狽するユキオの姿に、ミェリナは満足そうに小さく微笑むのだった。冬休みの初日、高柳家のリビングには、ケーキの甘い香りと共に温かな時間がゆったりと流れていた。


ーーー

 リビングでは、ユキオとミェリナが「恒星域観測士」の試験範囲について静かに言葉を交わしていた。


 その横で、キッチンのほうからは、ケーキつくりの大きな道具を並べる音が響いてくる。

やがて、その音がぴたりと止まる。

続いて、明るい声がキッチンに弾けた。

「さてと! 本日のメインイベント、特大クリスマスケーキの製作に取りかかるわよ!」


 静江は指折り数えながら、楽しそうに説明を続ける。

「まず、本日のメインとなる下の段! 10号――つまり直径30センチ相当の特大スポンジよ。そしてね、これで終わりじゃないの。その上に乗せる6号、18センチ相当のスポンジも焼いて、豪華な二段重ねのケーキにするの!」


 高柳家では、 三合の炊飯器で生活していたが、ユキオのガールフレンドたちが食卓を囲むようになってからは、それではとても足りず、三升炊きのIH炊飯ジャーを導入していた。

今日、家電の王者がその真価を発揮するのだ


「大きい3升炊きで土台の10号サイズを焼いて、今まで使っていた小さな3合炊きで6号サイズを焼く……完成したらこの二つを重ねて、クリームといちごでいーっぱいデコレーションするの! どうかしら、ワクワクしてこない?」


「すげえじゃん! ゆうべ用意しておいたケーキ生地はこのためだったんだな。あとはクロがいちごとゲストを連れてくるのを待つだけだ」


 キッチンでは、特大の10号スポンジ用生地を仕込んだ3升炊きIH炊飯器と、上の段になる6号スポンジ用生地を仕込んだ3合炊き炊飯器が、並んで出番を待っていた。


「よーし! それじゃあ、二つの炊飯器で一気にスポンジケーキを炊き上げるわよ!」


 静江が威勢よく宣言し、スイッチへ手を伸ばす。

 普通なら、これほどの大容量IH炊飯器と別の炊飯器を同時に稼働させれば、一発でブレーカーが落ちてしまうところだ。しかし、いまの高柳家には何の不安もなかった。


 実は、朝、昼、晩と高柳家に入り浸る食客たちが現れ、毎回賑やかに食卓を囲むようになって以来、高柳家では電気工事を行い、主幹ブレーカーを「60A(アンペア)/ 100V・200V対応」の最新設備へと交換済みだったのだ。


 単相3線式が引き込まれているため、100Vと200Vの両方の電気をスムーズに家の中へ分けて送ることができる。この電気系統の強化のおかげで、今日のような巨大炊飯器の同時使用はもちろんのこと、電子レンジ、オーブントースター、さらにはヘアドライヤーまで同時に動かしてもビクともしない、強固なインフラ環境が整っていた。


 ピッ、と軽やかな電子音が二つ重なって響き、二台の炊飯器が同時に加熱を開始する。


「うん、やっぱり60アンペアに工事しておいてよかったな……!」


 リビングからその光景を眺めていたユキオは、頼もしい炊飯器たちの並びと分電盤を交互に見やって感心したように呟いた。


 ふんわりと立ち上り始めた甘い蒸気とともに、高柳家の電気設備と静江・ツェンドリカのチームワークは、完璧な精度でクリスマスケーキの完成に向かって突き進んでいた。



【イタリアからのお客様】


 高柳家では、かねてより、クロのバイト先で働くイタリア人の話は聞いていた。彼はイタリアで医学部を卒業したばかりの秀才で、これから始まる5年間の研修医生活を前に、ワーキングホリデー制度を利用して日本に観光と労働の両方を経験するために訪れている。


「まあ、医学部の優秀な学生さんなのに、日本の文化を学びにやってきただなんて……本当に素敵な人なのね!」


 クロからその青年の話を聞くたび、母の静江は目を輝かせて感心していた。仕事柄、普段から美味しい食材や地域の人々に寄り添っている静江の胸の中に、ふつふつと湧き上がってきたのは、彼女特有の温かいおもてなし精神だった。


「国際親善の意味も含めて、ぜひ我が家のクリスマスパーティーにお招きしたいわ!」


 とにかくたくさんの人に自分の手料理を食べてもらい、笑顔になってほしい――それが静江の切なる願いであり、一番の喜びなのだ。


 静江の意向を受けたクロはさっそく、翌日のアルバイトの休憩時間を見計らい、いちごガーデンのハウス内で作業に汗を流すその青年に声をかけた。


「あのね。高柳家のクリスマスパーティー、ガブリエーレも来ないかって静江さんが言ってるの」


 声をかけられたイタリア人青年――ガブリエーレ・アンジェリコは、驚いたように彫りの深い顔をほころばせた。

「Che bello!(なんて素晴らしいんだ!)是非、参加させてください! 日本の温かい家庭のクリスマスを体験できるなんて、夢のようだよ」


 ガブリエーレは碧色の瞳を輝かせ、感激を露わにした。そして、日本でのアルバイトでコツコツと稼いだ大切なお金で、いちごガーデン自慢の熟したいちごをなんと10パックも買い取ることにしたのだった。


「招待してくれた感謝の気持ちだよ。当日はボクから、手塩にかけて育てられた最高のいちごをプレゼントします!」


 クロからその知らせを事前に受け取った静江は、胸を熱く躍らせた。

「まあ! そんなにたくさんの美味しいいちごを持ってきてくれるの!? それなら……決めたわ! 今年のクリスマスケーキは、最高のいちごに負けないくらいの特大ケーキを私が自作するわ!」


 ガブリエーレが届けてくれる極上のいちご10パックと、静江の並々ならぬ情熱。それこそが、あの3升炊きと三合炊きの炊飯器を同時に稼働させる、前代未聞の特大二段重ねクリスマスケーキ誕生のきっかけだったのだ。


 午後2時ごろ、玄関のチャイムが鳴り、クロがひとりの背の高い青年を伴って帰宅した。

「今日はお招きいただきまことにありがとうゴザイマス。ボクの育てたイチゴ、お役にたてていただけて光栄デス」


 片言ながら、姿勢を正した見事なお辞儀と完璧なあいさつであった。玄関で出迎えた正平、静江、そしてユキオの3人は、打ち合わせ通り声を揃えて歓迎の返礼をした。


「「「Benvenuto in Giappone!(ベンヴェヌート イン ジャッポーネ!)」」」


「おお、素晴らしいイタリア語ですね!」

 ガブリエーレがパッと表情を輝かせたのも束の間、リビングの奥からぞろぞろと現れた「4人の少女たち」を目にして、思わず息を呑んだ。美しく可憐でありながら、どこか人間離れした神秘的な雰囲気を纏う、実に国際色豊かな(ように見える)面々だ。事前にクロから話には聞いていたものの、実際に目の当たりにするとその圧倒的な存在感に驚くほかない。


 ガブリエーレは感心したようにユキオの肩に手を置いた。

「ユキオくん、みんなキミのガールフレンドなのかい?」


「い、いえ……地球の生態系・エコシステムの先生みたいな感じで、ぼくは毎日厳しく教育されているんですよ」


 ユキオが困惑気味に何を言っているのか、ガブリエーレにはさっぱり理解できなかった。だが、日本の男子高校生がなにやら非常に特殊で高度な「教育」を受けているのだろう、ということだけは伝わってきた。


「ユキオくん、ボクはキミがうらやましいよ。こんなステキな『先生』たちに教えてもらえるなら、ボクは日本に生まれたかった!」


「はは……ハハハ……」


 遠い目をするユキオをよそに、キッチンからは香ばしく焼き上がり、ようやく十分に冷めた特大スポンジケーキが運び出されてきた。

ここからが、本日一番の大工事――デコレーション作業の開始である。


 包丁で水平にスライスされたスポンジは、大が3枚、小が2枚。静江の監修のもと、5匹の女王たちによる共同作業が始まった。まずは土台となる大サイズのスポンジに生クリームを敷き詰め、ガブリエーレが持ってきてくれた真っ赤で甘い贅沢なカットいちごをギッシリと挟んでいく。


 スポンジを重ね、全体を真っ白な生クリームでコーティングしていく。一段目のふち(棚の部分)には、まるでロウソクの炎に見立てるように美しいいちごをクルリと並べ、いよいよ二段目の小さなスポンジの設置へと向かう。


 この段階まで来ると、もはや背の高さが足りない。作業者となったミェリナとクロ2は、椅子に膝をつき、乗り出すような姿勢で作業を続けることになった。左右から息を合わせて生クリームを塗り、カットいちごを敷き詰めていくのだが――万が一、体勢を崩して前方に倒れ込みでもすれば、これまでの努力が泡と化す大惨事となってしまう。


 そこで、後ろでは必死のサポート体制が敷かれていた。ミェリナの後ろからはクロが、クロ2の後ろからはネフが、それぞれの腰をガシッと掴んで必死に引っ張り、支えているのだ。


 一方、昨夜から今日の午前中にかけてのスポンジケーキの作成からカットまでを静江と完璧にやり遂げたツェンドリカは、まるで工事現場の現場監督のように腕を組み、部屋を移動しながらで指示を飛ばしていた。


「おいクロ2! 2段目の脇、生クリーム塗りにムラがあるぞ! もっとしっかり塗らねえか!」


「ツェンドリカさん、これ以上つけるとタレてきますよぉ!」


 懸命にヘラを動かすクロ2が悲鳴をあげる。さらに後ろから引っ張っているネフが、顔を真っ赤にしながら叫んだ。

「ちょっと前にかがみすぎですわ、クロ2! 支える者の苦労も考えなさいな! わたくしの高貴な腕がちぎれてしまいますわ!」


「ご、ごめんなさいネフ! 離さないでね!?」


 戦場のような熱気の中、いよいよ仕上げの時が訪れた。静江がミェリナへ、手の込んだ最終オーナメントをそっと手渡す。


「はい、ミェリナちゃん。これをケーキの真ん中(一番上)に飾ってちょうだい。角砂糖をアイシングで繋げた“ミニツリー”よ。これはね、ネフちゃんが角砂糖でピラミッドを作っていたのを見て、思いついたのよ」


「まあ、素敵ですね……」

ミェリナが感心したように見つめていると、クロ2を後ろで支えていたネフが目を輝かせて割り込んできた。


「なんですと!……わたくしのピラミッドを着想の原点とした芸術品……! では、これは最終的にわたくしのモノですわね!」


 これには黙っていられないのが、スズメバチの女王ツェンドリカだ。速攻で抗議の声が上がった。

「おいコラ待てネフ! 我々の成果は全員で山分けだ! 最初にそう決めただろうが!」

「そうですわ、ネフ! みんなで食べるんだよ!」

「ズルいですわネフ!」


 ケーキの完成間近、甘い生クリームの香りが漂う高柳家のリビングには、わいわいがやがやと賑やかな女王たちの主張が響き渡り、ガブリエーレは口をぽかんと開けたあと、「Che meraviglioso!(なんて賑やかで素晴らしいんだ!)」と大爆笑するのだった。


 二段重ねの壮大なクリスマスケーキが、ついにその圧倒的な完成度をもってテーブルの上に鎮座した――まさにその瞬間だった。


 静江がしゃがみこみ、そのまま床へと倒れ込んだ。


「お母さん!」

ユキオの血の気が一気に引いた。生まれてこの方、母が倒れる姿など一度たりとも見たことがない。あまりの衝撃に足が竦みかけるユキオよりも早く、ミェリナたちが弾かれたように静江の元へと駆け寄った。


 静江の意識は途切れてはおらず、荒い息を吐きながら朦朧とした声で呟く。

「大丈夫……ソファへつれてって……」


 その言葉を受けるや否や、力自慢のツェンドリカとネフが両脇から静江を優しく支え上げ、リビングのソファへと迅速に横たえた。


「大丈夫か!? 救急車、救急車呼ぼうか!?」

正平はおろおろと狼狽するばかりで、ただ妻の顔を覗き込むことしかできない。静江は弱々しく首を横に振った。


「大丈夫……じっとしてれば落ち着くから……」


 一瞬にして重苦しい沈黙と不安がリビングを包み込もうとしたその時、すっと前に出たのはイタリア人医大生、ガブリエーレであった。彼は持ち得る日本語の知識を最大限に駆使し、落ち着いた温かな声で静江への問診を開始した。呼吸、脈拍、体調の変化、過去の自覚症状――5分ほど念入りに状況を確認したガブリエーレは、静かに立ち上がり、固唾をのんで見守る一同に向き直った。


「皆さん、安心してください。とりあえず今日は大丈夫です。本当に少し休めば落ち着くと思います。これまでも時々立ちくらみがあったそうですが……すべては明日病院で検査を受けてからとはいえ、ボクの判断として、非常に高い可能性をお伝えできます」


 ガブリエーレは澄んだ碧眼を和らげ、力強く微笑んだ。

「奥さんは……妊娠しているということです」


「――え?」

静寂が支配しかけたリビングに、再び祝福の光が満ち溢れていく。その光の源となったのは、5匹の女王たちのパッと華やいだ笑顔だった。


 当の正平といえば、まるで時が止まったかのように呆然と立ち尽くし、「お、俺に……今頃次の子が……?」と、どこか虚ろで、けれど幸せに満ち満ちた笑みを浮かべている。


 ガブリエーレは頼もしく頷いて言葉を続けた。

「おそらく、少し休めばパーティーを再開できるはずです。静江さんが無理なく起きて来られたなら、ボクのこの見立ての精度はさらに高いと言えますよ」


 すると、ツェンドリカが持ち前の脳天気で叫んだ。

「高柳家は子供がユキオ一人で、絶滅寸前だったが……これでDNAが未来に残せるぞ! めでたいじゃねえか!」


「いや、俺もこれからDNA残せるし、人間基準では絶滅危惧種じゃねーわ!」

すかさずツッコミを入れたユキオに、今度はミェリナが生温かい眼差しでフォローを重ねる。

「そうね、私たち蜂の基準から見れば非常に厳しい存続状態だったのよ。でもこれで、ユキオに万一のことがあっても、高柳家は心配ないわね。よかったわね、ユキオ」


「それ、逆に不吉だわ! 俺が死んでも大丈夫ってフォローになってねーから!」

一応のキレ芸を見せて場を和ませるユキオだったが、その表情には隠しきれない満面の笑顔が浮かんでいた。


 そこへ、足音が近づいてくる。静江が、先ほどまでの青ざめた顔が嘘のようにしっかりとした足取りでリビングへと戻ってきたのだ。


「みんな、びっくりさせちゃってごめんなさいね! さあ、クリスマスパーティーを始めましょう!」


「お母さん!」「静江!」

ユキオと正平が弾かれたように静江へ駆け寄る。


「本当に大丈夫なのか……? その、妊娠かもしれないって、いつごろ気づいたんだ?」


心配と動揺の入り混じった顔で問う正平に、ユキオは「父さんには身に覚えがあるの?」と追い打ちをかけられ、顔を真っ赤にして「高、高校生の息子がそんなこと親に聞くな!」と狼狽してみせた。


 そんな賑やかな家族のやり取りを、ガブリエーレは微笑ましく見つめながら声をかけた。

「フフ、あくまで可能性の話ですよ。でも、このとおり静江さんは驚くほどお元気そうだ。……ボクが今日ここにお招きいただいたのは、もしかすると大きな『福音』だったのかもしれませんね」


 ガブリエーレは胸に手を当て、どこか神聖な響きを帯びた口調で語りかける。

「日本人の方にはあまり馴染みがないかもしれませんが、ボクの名前『ガブリエーレ・アンジェリコ』は、イタリア・ルネサンス期の画家フラ・アンジェリコと同じ名前なのです。そして、彼の代表作である名画『受胎告知』――あの絵の中で、聖母マリアのもとへ舞い降り、尊い新しい命の宿りを報せた存在こそが、大天使ガブリエルなのですよ」


 その誇り高く美しい言葉の響きは、静江の内に秘められた新しい命の可能性を、揺るぎない確信へと高めていくようだった。


 暗雲は去り、高柳家の食卓には今、聖なる夜にふさわしい奇跡と祝福の気配が満ち満ちている。

特大の二段重ねケーキを中心にして、人間と、古(いにしえ)の時代より地球の生命を紡いできた昆虫の女王たちが輪を作る。奇跡のような出会いと、未来へ繋がる新しき生命の兆し。それは、この高柳家という小さな生態系が、またひとつ豊かな進化を遂げた証であった。


 温かな光と甘い香りに包まれながら、高柳家の忘れられないクリスマス・イブの宴が、静かに、そして華やかに幕を開けたのだった。

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