buzz.56 クリスマスケーキが出来上がる頃には(前編)
冷たく澄み渡ったクリスマス・イブの早朝。冬のピンと張り詰めた空気の中、高柳正平の運転するミニバンがゆっくりとエンジン音を響かせていた。後部座席に収まっているのは、寺田耕一と智恵子の老夫婦である。今日は厨子駅まで、お隣さんに送ってもらうことになっていた。
車が走り出す直前、智恵子は車窓から見送る二人の姿へ温かな、けれどどこか名残惜しそうな視線を向けた。
「箕通さん、丹節さん。クロ2とネフを、くれぐれもよろしくお願いしますね」
智恵子は我が家で共同統治を行う若き二人の女王――黒津(クロ2)とネフティス(ネフ)を守護する家臣(働きアリ)たちへ、くれぐれもと重ねて願いを託した。
元々、今日催される高柳家のクリスマスパーティーには、準備や手伝いのためにクロ2とネフの二人も朝早くから高柳家にいる。そのため、寺田家は完全に留守になってしまうので急遽、二人にお屋敷の留守番役が回ってきたのだ。そしてもうひとつ――賑やかなパーティーを終えて夜に帰ってくる黒津とネフを、安全に寺田家に迎え入れるという重要な役割も担っていた。
箕通と丹節は、かつて先代女王・伊耶那美に仕えた側近の働きアリである。その実力と忠誠心には、万に一つの心配もないことを、寺田夫妻は重々承知していた。ただ、共同統治のクロ2とネフの保護者となっている寺田夫妻にとっては、先代女王から責任をもって預かっているとの思いがあり、「万に一つ」は決してあってはならないことと感じている。
今日は娘のクリスマスパーティーに誘われており、そこで老人ホーム入りを正式に辞退するため、一晩家を空けるのだ。しかし、先代女王から仕える側近の存在に、安心して二女王を任せられることに心から安堵していた。
智恵子の言葉に応え、優美な笑みを湛えた箕通が静かに頭を下げた。
「みなさまがお留守の間、お屋敷の管理は万事怠り無く勤めさせていただきます。お戻りになるお二人のお迎えも、どうぞお任せくださいませ」
至高の癒やしを想起させる穏やかな声。だがその奥には、宮廷を裏から支えてきた者特有の絶対的な気品と隙のなさが漂っている。
続いて、その隣に立つ丹節がすっと背筋を伸ばした。寸分の乱れもない武人の佇まいのまま、きりりと眦を決して言い放つ。
「お留守の守備はこの丹節にお任せください。この命に代えましても、……シロアリの子一匹たりとも侵入を許しません!」
懐に忍ばせた短刀の重みを思わせる鋭い眼光。その一言には、兵部大輔としての覚悟と、女王の絶対的防衛を誓う武人の魂が込められていた。
「ハハ、丹節さんも箕通さんも本当に頼もしいですねぇ」
後部座席の寺田耕一は、勇猛果敢な戦士である働きアリに全幅の信頼をもって答えた。
一方、ハンドルを握る正平は、この二人が、寺田元教授の大学の関係者か、市職員たちが応援で来ているのだろうと思い、和やかに笑ってお辞儀をする。ハンドルを握りなおすと、アクセルを緩やかに踏み込む。動き出した車の後方で、深々と一礼を続ける二人の姿が朝靄の中に小さくなっていく。
静まり返った屋敷を守る完璧な守護者たち。その頼もしい姿を背に受けながら、寺田夫妻は温かな安らぎとともに、冬の駅へと向かって揺られていった。
一方、本来ならまだ、早朝の静けさに包まれているはずの住宅街は、高柳家だけが切り取られた喧騒の中にあった。ダイニングキッチンでは、大勢の女学生がたむろする学食の様相を呈していた。食卓は朝早くから大勢の熱気と賑やかな器の音に包まれていた。
今日のクリスマス・イブ、高柳家には大人数が集まって盛大なパーティーが催されることになっている。長丁場となる準備作業を乗り切るため、まずは全員でしっかり朝食をとって腹ごしらえをしている最中だった。
大きなテーブルの周りには、ユキオ、静江、ミェリナ、ツェンドリカ、クロ、クロ2、そしてネフティス(ネフ)がぎっしりと腰を並べている。
一足早く食事が終わると、クロとクロ2が立ち上がった。
「静江さん、お皿洗い、私がやりますね」
「あ、じゃあ私は追加のパンを焼きます。みんなまだまだ食べるでしょう?」
クロはマイペースな手つきで、使った後の皿をシンクの水へ静かにつけていく。その隣では、手際のいいクロ2が慣れた手つきでトースターへパンをセットしていた。
その時、クロ2の視線がふと床へと向かう。
フローリングの上に小さなパンくずがひとつ、落ちていた。瞬時に反応したクロ2は、蟻ならではの習性で素早くそれを指先で拾い上げる。そしてそのまま、ごく自然な動作でうっかり自分の口へと運びかけた――が、ハッと正気に戻って寸前で手を止めた。
(危ない……! アリの女王にあるまじき無作法を……!)
胸を撫でおろしつつ、クロ2はパンくずを素早くゴミ箱へ投げ捨てた。
冷や汗を拭いながらふと前方へ目をやると、ダイニングテーブルの向こうからネフティスがこちらをじっと見つめていた。バッチリ一部始終をチェックされていたのだ。気まずさに身をすくめそうになるクロ2だったが、ネフティスは咎めるどころか、ニヤリと満足げな笑みを浮かべ、すっと親指を立てて見せた。
(今の土壇場での踏みとどまり、GJです)
と言わんばかりのサムアップ。
無言で送られたその称賛に、クロ2はホッと胸を撫でおろし、小さく小首を傾げて微笑んだ。
一方、テレビを正面にしたダイニングテーブルの方では、ツェンドリカとネフが並んで座り、朝の時間を過ごしていた。人間社会を学ぶため、クロ2と同じように中学生として学校に通っているネフは、周囲に親しみを持ってもらうため「ネフ」と呼ぶよう皆に伝えている。
「ふむ……やっぱりクリスマス前後は、街もニュースも賑やかですね」
ネフはシュガーポットからつまみ上げた角砂糖をポリポリと一口齧りながら、素直な興味を瞳に浮かべてテレビのニュース画面を見つめている。その隣では、ツェンドリカも同様に角砂糖を口に放り込み、カリッと噛み砕きながら画面に目を向けていた。
「まあ、俺が普段スキマバイトで行ってる居酒屋は、今日はお休みだけどね。クリスマス・イブに居酒屋に来る客なんて少ないだろうし、お店自体が休業なのよ」
ツェンドリカがそう言って肩をすくめると、ネフは角砂糖を手に持ったまま「そうなんですか」と頷いた。
「ツェンドリカさんが今日お仕事お休みなら、一緒に今日のパーティーの準備に取り掛かれますね! 中学生として、私も人間社会の行事をしっかり学びたいですし、頭をしっかり動かすためにもこの糖分補給が欠かせないんです」
「はいはい、ふたりとも。角砂糖ばっかり食べてると、パーティーのごちそうが入らなくなっちゃうわよー」
台所から静江が笑顔で声をかけると、ユキオも苦笑いしながらスープをすすり、ミェリナは女王としての威厳を漂わせつつも、焼き上がったばかりの温かいパンにゆっくりと手を伸ばす。
お隣の寺田さんの屋敷では今頃、留守番を引き受けた箕通と丹節が万全の警戒態勢を敷いているはずだ。
蜂と蟻が集う高柳家では、最高に賑やかで温かなクリスマスの始まりに向けて、着々と準備を進めているところであった。
朝食のテーブルの片隅で、ユキオはひとり深く溜め息をついた。
今日から待ちに待った冬休み。……のはずなのだが、ユキオの心は少しも休まっていなかった。
目の前に並ぶのは、ミェリナ、ツェンドリカ、クロ、クロ2、そしてネフの5匹の女王たち。見た目こそ可憐な少女たちだが、その正体はミツバチ、スズメバチ、マルハナバチ、そして蟻たちの群れを率いる絶対的な存在だ。この個性が強すぎる女王たちを統制し、今夜のクリスマスパーティーを無事に成功させることができるのだろうか――。
心配性のユキオは、手に持ったスマホの画面に表示されたガントチャートを何度も何度もスクロールし、入念にスケジュールを確認していた。
「ええと……で、ツェンドリカは今日は居酒屋のバイトが休みだから、そのまま高柳家でクリスマスケーキと料理作りのサポートがメインだ。ツェンドリカの手際の良さは頼もしいけど、料理レシピが豊富な母さんのサポート担当としてしっかり連携を取ってもらわないと……」
画面上の分刻みのタイムスケジュールと、賑やかに角砂糖を齧ったりパンを焼いたりしている女王たちの姿を交互に見比べ、ユキオは密かに胃のあたりを押さえた。
「大丈夫……ガントチャートの通りに進めば、絶対に滞りはないはずだ……!」
自分に言い聞かせるように大きくうなずくユキオの横で、香ばしく焼き上がったパンの匂いがふわりと漂い、高柳家の熱気あふれるクリスマス・イブの午前中が本格的に動き出そうとしていた。
「よし……ミェリナは、クロ2とネフに教えながら、お部屋のクリスマスの飾り付けを担当。これで午前中の役割分担は完璧なはずだ」
スマホのガントチャートを画面越しに見つめながら、ユキオは小さく息を吐いた。
このスケジュール表は、ミェリナとクロ2にはすでに共有済みだ。ただ、ほかの3匹に関しては「タスクを確認してくれ」と言ったところで、ハナから無駄だと分かっている。
「予定表に従って動けだと?!調理の世界は戦場なんだぜ」(ツェンドリカ)
「ん~その場の気分しだいかな~」(クロ)
「願い事があるなら、その都度言えばよかろう?叶えてやらんでもない」(ネフティス)
やはり、こうなることは目に見えていた。
とはいえ、希望がないわけではない。ツェンドリカは母さんの言うことなら素直によく聞くし、クロはバイト先へ行って大量のいちごを貰ってきてくれるそうだ。ミェリナとクロの二人がしっかり目を光らせてさえいれば、ネフの暴走だって十分に抑えられる。
要は、ガントチャートに設定した各チェックポイントでユキオ自身が進捗を正確に把握し、その都度適切に作業配分を調整してやればいい。
(よし……俺が司令塔になって裏で手綱を引けば、なんとかなる!)
画面の上の緻密なスケジュールをもう一度指でスクロールしながら、ユキオは静かに腹を括るのだった。
テーブルの向こうでは、色鮮やかなモールやオーナメントを手にしたミェリナが、可憐な手つきで後輩たちへ説明と指示を出している。人間社会の文化に精通したミェリナの手ほどきのもと、クロ2とネフも目を輝かせながら、楽しそうにツリーへ飾りを付け始めていた。
「それにしても……」
ユキオはふと、賑やかなリビングを見渡して感慨に耽った。
「クリスマスパーティーに集まるのは、人間が4人に、蜂と蟻が5匹……。クリスマスにこんなに人と昆虫が集まるなんて、間違いなく人類の歴史上初めてのことじゃないかな……」
今日から待ちに待った冬休み。本来なら静かに羽を伸ばしたいところだが、心配性のユキオの(取り越し苦労)頭脳はフル回転を続けている。そもそも、冬場に蜂や蟻がこれほど活発に活動するなど、これまでの生物学の常識ではあり得ない話だ。
(でも、これは滅多に見られない昆虫行動学の貴重な知見が得られているってことだよな。生態系研究の事例としても、ものすごく有意義なはずだ)
そう自分に言い聞かせるユキオの胸の奥には、確かな焦りと野心が渦巻いていた。なにしろ、あと8ヶ月後には、宇宙最高難度と称される国家資格――「恒星域観測士」の試験が控えているのだ。邑人英二から借り受けた分子共鳴転移装置を駆使しながら、一刻の猶予も惜しんで勉強を進めなければならない。
そんなユキオの緊張感を見透かしたように、飾りのモールを天井に掛け終えたミェリナが、すっと澄んだ瞳をこちらへ向けた。
「ユキオ。変温動物である私たちがなぜ冬に動けるのか、不思議そうな顔をしていますね」
ミェリナは女王としての静かな威厳を漂わせながら、淡々と言葉を紡ぐ。
「古生代から今日に至るまで、地球にはおよそ10万年周期で氷河期が訪れていました。私たち昆虫を含めた変温動物が、いかにしてその過酷な寒冷期を乗り越え、種を繋いできたのか……。恒星観測士を受験しようする者なら、地球の生命史におけるその程度の適応進化は『当然知っていなければならない常識』として問われるでしょうね」
「つ、つまり……それも試験範囲に入ってくるってことか……!?」
「ええ。ですから、この賑やかな環境もまた、あなたにとっては最高の生きた教材というわけです」
ミェリナの言葉に、ユキオは改めて気を引き締めた。
冬休み初日。宇宙規模の試練を見据えながら、ユキオは賑やかな高柳家のリビングで、学びと波乱に満ちたクリスマス・イブの第一歩を踏み出したのだった。
ーー後編に続くーー




