buzz.55 いちごガーデンのイタリア人
この章をお読みいただく前に、少しだけご説明をさせてください。
作中では、日本とイタリアのワーキングホリデー(ワーホリ)制度がすでに始まっている設定になっています。
けれど、現実の世界では、この制度が正式に運用されるのは 2026年4月1日 からなのです。
物語の時間軸はまだ 2025年。
本来ならイタリア人の方が、ワーホリで来日することはできません。
それでも、ストーリーの流れの中では、どうしてもイタリア人であることが大切で……
少しだけ未来を先取りして、ワーホリがすでに施行されていることにしてしまいました。
現実より半年ほど早い設定になっていますが、
物語の都合による“ちょっとした勇み足”として、
どうかあたたかく見守っていただければ嬉しく思います。
鎌倉の〈いちごガーデン〉は、冬の冷気とは裏腹に、温室の中だけは南国のような熱気に満ちていた。来年一月の出荷に向けて、いちごの花は次々と咲き、白い花弁が温室の光を反射している。
クロ(郡体中の一匹の意識として)は、その花の上をふわりと飛びながら、胸の奥に小さな疲労と戸惑いを抱えていた。
――また、忙しくなるのかな。
11月下旬から続いている大規模な受粉作業。クリスマスケーキ用のいちごは、すでに10月下旬~11月中旬で一段落していたはずだった。
それなのに、ほとんど間を置かずにクロのスマホが震えた。
〈いちごガーデン社長〉からのLINEだ。
クロはスマホを握りしめ、社長から届いたLINEを見つめていた。
「クロちゃん、お願い! 一月分も超繁忙なのよ(白目)助けて」
画面の向こうで社長が白目をむいている姿が、容易に想像できた。
クロは小さく息を吐き、指先で返信を打った。
「分かりました、お手伝いします。前回と同じ二勤一休のシフトでよければ」
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥にほんの少しだけ諦めと、そして奇妙な責任感が混じった感情が広がった。
すぐに返事が返ってくる。
「助かります!クロちゃんの蜂たちが来てくれれば。新しくバイトも入れたので、なんとか乗り切れると思います!」
クロは温室の天井近くで羽を休めながら、その言葉を思い出していた。
社長は、クロがバスケット(クロマルハナバチの擬似巣箱)を抱えて温室を歩き回り、ハチたちを誘導しながら受粉させている様子をいつも感心して見ていた。
人間から見れば、それは「特殊なハチ使いの技術」に見えるのだろう。
――まあ、間違ってはいないけど。
クロが連れてきたハチたちが受粉したいちごは、どれも大粒で、美しい円錐形に育つ。
その品質は市場で高値で取引され、評判は口コミで広がった。
結果として、年初の一月――いちごの味がもっとも良くなる“真の最盛期”に、大量の受注が舞い込んだのだ。
だが、クロの胸の奥には、季節に逆らって働くことへの違和感がまだ残っていた。
――本来なら、冬眠してる時期なんだけどな。
温室の中は、冬とは思えないほど暖かいが、夜間は冷えすぎない程度にハウス内の温度を落とす。
結実したいちごを冬場の低温でゆっくり育てることで、果実の糖度が増し、甘みが際立つ。
人間はその理屈を知り尽くし、最も美味しい時期である一月に集中して市場に出す。
しかも、一月には「いちごの日(1/5)」と「良いいちごの日(1/15)」があり、需要はさらに跳ね上がる。
そして二月からは、いちご狩りシーズンが始まり、五月まで続く。
つまり――。
「――ずっと大忙しってことじゃん!」
クロは温室の梁にとまり、羽をそっと震わせた。
人間の都合で季節がねじ曲げられ、ハチの本能もスケジュールに組み込まれる。
それでも、自分の受粉したいちごが喜ばれ、社長が頼ってくれることは、どこか悪い気はしなかった。
「……働くかぁ」
小さくつぶやき、クロは再び温室の光の中へ飛び立った。
そうして目の回るような忙しさの中、クロは受粉の手伝いを続けていた。
温室の中は、冬とは思えないほど暖かく、いちごの白い花が一面に咲き誇っている。
クロの群体としての力が発揮されると、クロマルハナバチたちは一斉に舞い上がり、花から花へと受粉ダンスを繰り返した。いちごの花の上で蜂たちがくるくるとステップを踏むことで、雌しべに満遍なく花粉がすりこまれ、やがて大粒で美しい円錐形の果実へと育っていく。
季節はずれの労働者同士――クロといちごの花のあいだで、
「いやほんと、なんで冬に咲いてんのよ!」「知らないわよ、咲かされたのよこっちは!」
といった愚痴の応酬がひそかに交わされているとは、誰も思いもしなかった。
温室の中では、クロがぶつぶつ言いながら受粉ダンスを繰り返し、いちごの花たちは「もっと丁寧に揺らしてちょうだい」とでも言いたげにふわふわ揺れている。
まるで冬休みのバイト学生同士のようなやり取りが、白い花の海の中で続いていた。
そんな“裏の会話”を知る由もなく、
ハチの出入りするバスケットを抱えていちごハウスを巡回する少女――クロの姿を、温室の入口からじっと眺めている若者がひとりいた。
彼はただ、冬の光に照らされながら働くその小柄な少女の姿に目を奪われていた。
クロが花の間を軽やかに歩き、巣箱を抱え、ハチたちを導くたびに、彼の視線は自然とその後を追ってしまう。
もちろん、彼は知らない。
少女がいちごの花と愚痴を言い合いながら働いていることも、
その少女が“人間ではない”ことも。
ただ、温室の中でくるくると踊るように働くクロの姿が、なぜか目を離せないほど魅力的に見えていたのだった。
摘果作業のアルバイトを増やしたので、そちらは問題ないと社長は言っていた。
前回は、受粉作業が終わった後もクロが収穫まで手伝っていたが、今回は人手が確保できたらしい。
12月から新しく入ったアルバイトは外国人だった。ワーキングホリデー制度を利用して、日本旅行を楽しみながら、現地でアルバイトもできるという。
背が高く、温室の中でもよく通る声で、クロに気さくに話しかけてきた。
「そのバスケット、交代で僕が持とうか?」
クロは一瞬、心臓(羽音)が止まりそうになった。
(――なにっ?、あたしがハチだとばれたらマズイ――。)
バスケットを抱えて温室を歩く姿は、確かに人間から見れば奇妙だろう。
だが、彼はまったく疑っていない様子で、ただ純粋に手伝おうとしてくれている。
クロは慌てて視線をそらし、そっけなく返事をした。
「だ、大丈夫。自分で持てるから」
それでも、彼は気にした様子もなく、また別の話題を振ってくる。
「この温室、すごいね。冬なのに南国みたいだよ。いちごって、こんなに手間がかかるんだね」
クロは内心で焦りながらも、次第に彼の自然体の明るさに引き込まれていった。
高柳家や寺田家の人間と話すこと自体は慣れている。だが、こうして人間の“仕事仲間”として話しかけられるのは、どこかくすぐったい感覚だった。
――なんでこんなに話しかけてくるのよ。
そう思いながらも、気づけばクロは彼と会話をするようになっていた。
温室の中で、いちごの葉が揺れ、蜂たちが舞い、外国人アルバイトの笑い声が響く。
冬眠の季節に働く自分。
人間の都合で季節がねじ曲げられた世界。
その中で、思いがけず誰かと心が触れる瞬間がある。
クロは巣箱を抱え直し、ほんの少しだけ翅を震わせた。
温室の光は、今日もやわらかく彼女の背中を照らしていた。
アルバイトの男性、ガブリエーレ・アンジェリコ(24歳)は、イタリアで医学部を卒業し、これから五年間の研修医生活が始まる――その前に、どうしても日本を見ておきたいと考えた。
日本文化への関心は以前から強かった。
とくに、古い寺院や伝統的な町並みが残る地域に惹かれていた。
そうして地図を眺めているうちに、鎌倉という地名が目に留まった。
――ここは日本で京都の次に歴史が古い場所だ、自分の感性に合う。
そんな予感があった。
滞在費を抑えるため、現地でアルバイトをしながら文化を見て回る計画を思いついた。
そのとき、偶然インスタグラムで見つけたのが〈いちごガーデン〉のアカウントだった。
鮮やかな赤い果実、温室の光、働くスタッフの笑顔――どれも魅力的で、ガブリエーレは思わず「いいね」を押した。
それが、すべての始まりだった。
ミラノ出身の彼は、米食に馴染みが深い。
イタリア北部ではリゾット文化が根強く、米は日常の味だ。
だからこそ、日本の米食文化にも、どこか親しみを感じていた。
――同じ米を食べる人たちなら、きっと価値観にも通じるものがあるはずだ。
そんな思いが、彼を日本へと向かわせた理由のひとつでもあった。
さらに、鎌倉という土地にも特別な興味があった。
仏教寺院が多く、静かな精神性が漂う地域。
ミラノは教会の多い街で、宗教建築が生活の風景に溶け込んでいる。
ガブリエーレは、二つの街の空気にどこか共通点を感じていた。
――鎌倉とミラノは、案外似ているのかもしれない。
そんな思いを胸に、彼は日本へと旅立った。
そして今、温室の中でいちごの葉が揺れる音を聞きながら、巣箱を抱えて歩くクロに声をかけている。
異国の地で働きながら文化を学ぶ――その理想的な計画の中で、彼は思いがけず“奇妙な同僚”と出会ったのだった。




