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女王蜂に育てられた俺~宇宙最難関資格に挑む  作者: 和子


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buzz.54 女王たるもの


 厨子市教育委員会の応接室に、重苦しい沈黙が降りていた。

元大学教授の寺田耕一が項垂れ、就学指導課の陣内課長が「ひとまず仕切り直し」を提案したその時、思いもかけない場所から、静かな、しかし確かな意思を持った声が響いた。


 その声の主は、邑人黒津(むらびと くろつ)――こと、クロ2であった。


 彼女はここまでの間、ずっと黙ってネフティスを見つめていた。自分が編入の手続きを踏んだ時は、戸惑いや不安から涙を流すこともあった。それなのに、隣にいるエジプト人の少女(新参の女王蟻)は、大人たちを相手に終始堂々と、自身の国家観と民の誇りを演説している。その揺るぎない眼差しに触れた瞬間、クロ2の胸中で、眠っていた女王としての本能が激しく揺さぶられた。


(このまま、本家の女王である私が黙っていてはいけない――)

自身の未熟さを痛感すると同時に、クロ2の心に明確な覚悟が芽生えた。


 彼女は座席からすっと身を起こすと、まるで高貴な君主に仕える臣下のように、ネフティスに向けて深々と頭を下げた。


「ご立派でございます、ネフティス様。私はこれまで、己のことで精一杯で……民の誇りのことまで、全く考えが及んでおりませんでした」


 それは、目の前のライバルに対する純粋な賛辞であった。しかし同時に、自分自身の内面を容赦なく切り裂く刃でもあった。彼女は、ネフティスという鏡を通して、自分が「女王」という肩書きにふさわしい資質をいかに欠いていたかを自覚し、強い恥入るような心理に陥っていた。


「私はただ、自分の下にいる働き蟻たちのように、自由にこの美しい街を散歩して回りたかった……。そのために、大好きなユキオ様に迷惑がかからないようにと言い訳をして、中学に通うことを決めた気が致します。もし、本当に女王になるための学問がしたかったのかと問われれば……そうではなかったのかもしれません」


 消え入るような、だが偽りのない吐露。クロ2の予想外の告白に、周囲の大人たちは一様に目を見張った。だが、その隣でじっと耳を傾けていた智恵子は、驚きを通り越して深い感銘を受けていた。


(この子は今、自分の弱さと真正面から向き合っている――)


 自己の行動を客観的に見つめ直す「内省」という行為は、精神的活動としては極めて高い境地に達していなければ不可能なことだ。智恵子は、傷つきながらも成長しようとするクロ2の思索をさらに深めるため、母親のような優しい眼差しで問いかけた。


「……黒津。あなた自身は、勉強を続けたいの?」


 その問いかけに、クロ2の瞳に再び強い光が宿った。彼女は迷うことなく即答した。


「はい、勉強はしたいです! それは……このとおり、私がまだあまりにも未熟だからです。ネフティス様のように、自身の誇りと民の誇りを同列に考えられるようになるために、ネフティス様に少しでも近づけるように。私はこの身を打ち砕いてでも、人間界の学問を学ばねばなりません」


 その瞬間、応接室の空気が変わった。


 最も強い衝撃を受けたのは、他ならぬネフティスだった。本家の女王に対して共同統治者として並び立ち、最終的にどちらが上にふさわしいか見極めてやろうと息巻いていた彼女の胸に、クロ2の純粋無垢な敬意がド直球で突き刺さったのだ。


(この黒姫という女王は、なんという澄んだ心を持っているのだ……)


 己の誇りを守るために周囲を威嚇していた自分に比べ、己の未熟さを認めて貪欲に高みを目指そうとするクロ2の姿が、ネフティスの目には果てしなく気高く映った。なんだか、虚勢を張っていた自分のほうがひどく小さく思えてきて、ネフティスは傲慢な態度を維持できなくなってしまった。


「……フン。いいでしょう」


 ネフティスはふいと顔を背け、小さく咳払いを模した音を立てた。胸の奥がじんわりと熱くなるのを隠すように、彼女は少しトーンを落として言葉を紡ぐ。


「そこまで言うのであれば、ここは私があなたと共に学ぶため、少しだけ身を下げてあげることにしましょう。あなたと同じ教室で席を並べ、その学問の過程で間違いの無いように、この私が隣でしっかりと見守ってあげます。……勘違いしないでよね、あなたは、私の大切な共同統治者(パートナー)なのですから」


 尊大な物言いの裏にある、ネフティスの不器用な優しさと女王としての確かな度量。それを見抜いた智恵子は、思わず目元を綻ばせた。この二人が人間の中学校で学ぶことは、ただ教育を受けるというだけでなく、平穏に慣れきった人間たちにとっても、忘れかけていた大切な宝のような「教え」をもたらすに違いない――智恵子は確信を込めて、隣の夫を振り返った。


「あなた、ネフティスちゃんは『共に学ぶ』と言ってくれましたよ。本当によかった。これで私たちは、晴れて二人を学校に行かせることが出来ますね」


 安堵の溜息をつく老夫婦に対し、ネフティスは「よくはないです!」と思わぬ反論を飛ばした。しかし、その美麗な口元は、悪戯っぽく上品に笑っていた。


「私は高柳家のみなさんから、すでに『ネフ』と呼ばれて親しまれています。ですから寺田様、あなた方も私のことはそう呼んでください。『クロ2』に『ネフ』。それで公平でしょう?」


 ネフの言葉に、耕一は驚き、やがて得心がいったように深く頷いた。


「実はね、今日もこちらへ赴く前、あちら(高柳家)でミェリナに言われたのです。『私がついていかなくても大丈夫そうだ。あなたには女王としての揺るぎない矜持が見える。であれば、人間の枠に囚われず、自分の思うとおりに話していらっしゃい』……とね」


 寺田耕一は「さもありなん」と胸の内で安堵の息を漏らした。

女王は女王を知る、ということか。人間の庶民が小手先の法律や常識で測ろうとする領域など、彼女たちは遥かに超えた高い境地にいるのだ。このような王者のもとで生きる国民(働き蜂や働き蟻)は、どれほど幸福なことだろう。人間が未だに到達できない「徳治政治」という理想郷を、蟻や蜂は何億年も前から淡々と続けてきているのだ。


 老教授は、隣で小さく微笑み合う二人の若き女王を見つめながら、これから始まる厨子中学校の新しい風に、密かな期待を膨らませるのだった。

挿絵(By みてみん)


【クリスマスパーティーのお誘い】


 厨子市教育委員会での手続きを終え、寺田夫妻、クロ2、そしてネフを迎えに来たのは、高柳静江の運転するミニバンだった。


 ネフは乗り込む瞬間、車内の温かい空気に胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。自分の居場所が、少しずつ形を持ち始めている――そんな予感がした。


「寺田先生、お疲れ様でした。ネフちゃんの手続きは、うまくいきましたか?」


 静江の声は、いつものように柔らかい。寺田夫妻の負担を気遣うその姿勢は、ネフにも伝わっていた。人間の“思いやり”というものを、まだ完全には理解できないが、心地よいものだと感じるようになっていた。


「静江さん、いつもありがとうございます。ネフもクロ2も、来年から揃って中学生になりますのでね。二人に新しい勉強部屋を用意します。家までお願いしますよ」


 寺田の言葉に、ネフは胸の奥が少し熱くなる。自分のために部屋が用意される――それは、彼女にとって「受け入れられている」という証のように思えた。


 続いてミェリナが軽く会釈する。


「二人とも、しばらく寺田様のお宅でお世話になりますので、必要な物を買い足しておこうと思い、一緒に参りました。生活の掛かり全般はご厚意に甘えさせていただきますが、彼女たちの身の回りの雑多なものだけは、先に整えておこうと思いまして」


 ミェリナの言葉に、クロ2は小さく頷いた。彼女は表情に出さないが、内心では寺田夫妻の厚意に深く感謝していた。自分たちが「蟻の女王」であることを知りながらも、母・伊耶那美の代から続く確かな絆で結ばれ、こうして温かく迎え入れられている。その変わらぬ情愛に、クロ2は微塵の疑念も抱くことなく、ただ深い愛おしさを噛み締めていた。


 高柳家が手狭であることは、クロ2もよく知っていた。和室のコタツはツェンドリカとクロに占有されており、休日には二人が潜り込んでいる。ミェリナはそれを邪魔することなく、二人がバイトに出るタイミングを把握して、ゆっくり一人でコタツで昼寝をする姿も、クロ2は何度も見てきた。


 ――あの家は好きだけれど、先輩の蜂たちの生活を邪魔したくない。

そんな思いが、クロ2の胸に静かに浮かんでいた。


 寺田家には掘りゴタツがある。クロ2はその話を聞いて、胸の奥がふわりと温かくなった。ネフと並んで勉強する未来が、ぼんやりとした光景として心に浮かんだ。


 ミニバンは辻堂のショッピングモールへ向かい、冬場の衣類や洗面道具を買い揃えた。


 ネフは洗面道具を選びながら、古代エジプトの神官たちの習慣を思いを馳せていた。過去の自分の歴史にあったわけではないが、自分のアバターが持つ文化的記憶のようなものが、時折こうして意識の表面に浮かぶ。


 ――清潔であることは、心を整えることでもある。

この世界の人間はその思いを受け継いで時代を作ってきた。

人間と共に生きる、そんな感覚が、彼女の中に自然と芽生えていた。


 買い物を終え、六人はファミレスに入り、食事をしながら今後のことを話し合っていた。


 静江が少し席を立ったときに、ミェリナはネフに対して、クロ2と一緒に週に二回は高柳家で生体リフレッシュが必要であることをしっかり伝えられた。


 クロ2とネフが蟻の女王である事は、寺田夫妻にはすでに共有されているが、静江にはまだ秘密である。その説明を聞きながら、自分が“人間ではない”という事実を改めて意識した。


 戻ってきた静江が持ちかけた話題は、高柳家で行われるクリスマスパーティーへの招待だった。


 クロ2は胸を躍らせた。人間の“祝い事”に参加することは、彼女にとって新しい経験だ。ネフもまた、どこか期待に似た感情を抱いていた。


 しかし寺田夫妻は参加できないと静江に伝えた。


「娘の理恵子に言われて、ひ孫たちも集まるクリスマス・パーティーに呼ばれているのよ」


「まあ、それは楽しみですね!ひ孫さんたちと一緒のクリスマスなんて最高ですわ!」


 静江の言葉に、智恵子は微笑んだ。だがその笑みの奥には、娘への申し訳なさと、伝えなければならない決意が混じっていた。


 耕一と智恵子が理恵子の誘いに応じるのは、ひ孫たちに会うためだけではない。

――かねてより、強く勧められていた老人ホームへの入居。それをはっきりと断るという意思を伝えるためでもあった。


「このままじゃ、お父さんたちよりも私の方が老人ホーム入りよ」と言った娘の言葉が、智恵子の胸にずっと残っていた。子どもに迷惑はかけられない――そう思っていた。


 だが、クロ2と出会ってしまった。

彼女たちを育てたいという思いが、老いの不安を上回ったのだ。


 高柳家と寺田家の初めてのクリスマス・パーティーは、残念ながら今年は見送りとなった。しかし、その後は違う。


「私たちは、これからも家族ぐるみでお付き合いしていきましょう。―――お隣ですし、ユキオ君に素敵なお友達が増えて、ご縁ができた。クロ2とネフのことはお任せください」

耕一はそう言って、クロ2とネフを見つめた。

その瞳には、老いの影よりも、未来への光が強く宿っていた。


 ――もう、死ぬのを待つだけの人生ではない。

次の世代へ、自分たちの思いを手渡していく。

それは、人間と昆虫が共に手を取り合う世界の始まりかもしれない。

耕一は、その未来を見届けたいと心から願っていたのだ。

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