buzz.53 師走の駆け込み入学
厨子市教育委員会の応接室には、なんとも形容しがたい奇妙な空気が張り詰めていた。
着座しているのは、市政の賢人会議の重鎮、寺田耕一・智恵子夫妻。そして来年からの転入がすでに決まっている謎の天才少女、邑人黒津(――蟻の新生女王・クロ2)。
そしてその隣に座るのが、本日のメイン案件であり、新たなる「アウトライヤー(規格外)」、エジプト人(を自称する)少女、ネフティス・ネブテフートであった。
(なんか……どんどん増えていくな……)
彼らと対面する就学指導課の課長・陣内雅紀は、個人的な警戒心による過剰なクライシス妄想を抑えるべく、脳内で川辺教育長の指導を繰り返し再生していた。
匿流(トクリュウ)だとか、不法入国だとか、人身売買だとか、公務員として脳裏をよぎる物騒な雑念は「一切考えない」と、今一度この瞬間に硬く誓う。余計な邪推をして、上司である川辺教育長から「何をごちゃごちゃ考えているんだ!」と脳天に雷撃ビンタを落とされた日には、ただでさえ寂しくなってきた彼の頭皮から、二度とペンペン草すら生えなくなってしまう。
公務員とは、ただただ、行政の法律に従って事務処理をマシーンのように進めればいいのだ。そう、想像力など公務には不要なのだ。
「……コホン。では、こちらのネフティスさんについても、寺田先生が身元保証人になっていただける、ということでよろしいのですね?」
「ええ。話せば、少し長い事ながら――」
引き締まった表情の耕一の横から、妻の智恵子が待ってましたとばかりに身を乗り出す。
(ほら、来たよ。この奥さんの長尺のドラマチック・シナリオだ。まともに聞いちゃダメだ。脳のメモリに残さず、聞き流さないと……)
「実はね、先日私ども夫婦はいつものように早朝の散歩をしておりました。冬の閑散とした逗子海水浴場に差し掛かったところ、波打ち際に誰か倒れているではありませんか! 慌てて駆け寄って介抱し、我が家に連れ帰ったのです。ですが、哀れなことにこの子、自分の名前と、生まれた国がエジプトであること以外の、すべての記憶を失っていたのですわ」
(はい、私も今、記憶を失いましたよ。ええ、何も聞かなかったことにしますとも…)
「会話を続けるうちに、少しづつですが判ったこともあります。彼女は13歳ということで、黒津と同い年じゃありませんか。ご存知のように、外国の少女というのは見た目が大人びて見えるもので、最初は高校生くらいかと思っていたのですけれど……」
(それで、哀れに思った老夫婦が、自分たちの手で日本の学校に通わせてあげようと……。うん、実に見事な人道的美談ですな。よし、それでは具体的な手続きを──)
「寺田様、こちらのお嬢様は日本人ではないとお見受けしますが、日本で公的教育を受けさせたいということで、寺田様が身元保証人になられるということで、処理を進めますね?」
陣内課長は、一刻も早くこの場を終わらせるべく、形通りのヒアリングで外堀を埋めにかかる。
対する元大学教授・寺田耕一は、前回のクロ2の申請面談の際、智恵子のドラマチックすぎるシナリオのため、危うく事態が暗礁に乗り上げかけた反省を活かしていた。今回は情緒に訴えるのを控え、役人に最も通じやすい「法理論」の弾幕で一気に押し通す作戦に出る。
「はい。確かに今回は将来的に日本の国籍を取得して養女になるというケースではありません。しかしそれゆえに、非常にセンシティブな案件とも言えるのです。まず、外国人の問題は入国管理という大前提で捉えがちですが、相手は未成年です。こうなると、法的な優先順位はこうなります」
耕一はトントンと机を叩いた。
「1.国際条約(子どもの権利条約)
2.憲法(教育を受ける権利)
3.国内法(学校教育法・文科省通知)
4.行政運用(入管法の個別判断)
つまり、国際社会の共通認識である子どもの権利と、憲法と学校教育法の『教育を受ける権利』すなわち各地域の教育委員会による『就学保障』が何よりも最優先される、ということになります。結論から申し上げますと、学齢期である外国人の子供が、親とはぐれて在留資格が確認できない場合であっても、学校教育を受ける権利は一切制限されません。日本の公立小中学校は、在留資格の有無にかかわらず、就学を希望する外国籍児童生徒を受け入れる義務を負っているのです」
(いや、そこまで理論武装してくれなくても、『今回も私たちが身元引受人です――』って言ってくれれば、こっちは喜んで手続きを進める予定ですから、ご安心を……)
陣内課長は心の中で苦笑した。
だが、今回の本当の誤算は、完璧な根回しを誇る寺田夫妻でも、お役所マインドの陣内課長でもなかった。
当事者である「ネフティス」その人だった。
「――フン。私は、学校で勉強などしとうない! 女王たる私が、なぜ庶民の子供らと机を並べねばならぬのだ?」
「……え?」
耕一の動きがピタリと止まった。
こちらへ来るまでに十分言い聞かせ、本人も「フンフン」と頷いていたので、すっかり納得しているものとばかり思っていた。しかし、土壇場になって彼女の“女王たるプライド”が、壮絶なちゃぶ台返しを挙行したのである。
(あれ……? 俺、公務員として聞いちゃいけない禁忌のワードを聞いてしまったのかなぁ? 『勉強したくない』ってハッキリ拒絶した気がするぞ……)
陣内課長の脳裏に、再び川辺教育長の頭頂ビンタの幻影がよぎる。この事態を穏便に収拾せねば、自分の頭皮の未来がない。課長は思いつく限りの「大人のなだめ言葉」を発してみた。
「あ、いや、ネフティスちゃん、気持ちは分かりますよ! 私もね、子どもの頃は勉強よりも野球がしたくてね、授業中なんて眠くて憂鬱で仕方がなかったものです。でもね、そのせいで大学受験で本当に苦労しまして、2浪もしてしまったんですよ。やはり、小・中学校時代にしっかり『基礎』を作っておかないと、先へ行って苦労するものなんです。いずれは母国からお迎えが来るにしても、せっかく日本に来たのですから、思い出作りも兼ねて中学校に通っておかれたらどうでしょう?」
良かれと思った陣内課長の懐柔策だったが、ネフティスは切れ長の目を不快そうに細め、鼻で笑った。
「私を愚弄する気か? 2浪した男の浅知恵など聞いてはおらぬ。そもそも私に必要な教養とは、将来の国家運営のための『帝王学』――即ち、政治学・行政学、歴史学、哲学・倫理学、軍事学・戦略論、経済学、そして語学や宗教といったものじゃ。初等教育の『基礎』など、とうの昔に修めておるわ!」
ネフティスは高柳家に訪れたその日に、分子共鳴転移装置にセットされたカプセルでチュートリアル学習を済ませていた。
短時間休眠した間に、日本の国内で生活するための基礎知識をすべてインプットしており、義務教育レベルは既にクリアしていたのだ。このことからも、クロ2を遥かに上回る知能の片鱗が伺われる。
そしてネフティスとしては、隣に座る共同統治者のクロ2に対し、格の違いを見せつけたいという意地もあったのだろう。あまりの尊大さに、耕一があわててフォローに回る。
「ネ、ネフティスちゃん。それらの高度な学問は、いずれ日本の素晴らしい大学でしっかり勉強してもらうからね? そのためにも、今はまず中学校で日本の基礎を学ぶ必要があるんだよ」
だが、ネフティスは傲然と言い放ち、耕一の助け船を木っ端微塵に一蹴した。
「何をお為ごかしなことを! 私には、将来何万もの民を統治する絶対的な責任がある。今はまだ身の内に3000ほどの民を従えているに過ぎぬが、この者たちは、私を信じて命を託してくれた愛すべき民なのだ。女王たる者が、容易く他国の民に身を屈してなるものか!。私は断じて、学校などという鳥籠に甘んじる者ではない。民の行く末は、私自身が守る!」
堂々たるその宣言に、元生物学教授の寺田耕一は驚愕し、ついに両手を上げてお手上げのポーズをとった。
本来、自然界における「女王蟻」というものは、極めて誇り高く独立した存在なのだ。人間の庶民が手懐けられるようなレベルにあるわけがない。クロ2の素直さに慣れてしまっていたせいで、つい「人間の教え子」に接するような、少し上から目線の態度をとってしまっていた。昆虫の生態を知り尽くした権威ですら、自然への敬意と対処を一歩間違えれば、このように手痛いしっぺ返しを喰らうのだ。
「……研究者として、私はまだまだ未熟だったということを、この歳になって思い知らされたよ」
ガックリと項垂れる老教授の姿を見て、陣内課長は「これは長引くな」と察し、すかさず仕切り直しを提案した。
「ははは……なるほど、ネフティスちゃんにも、色々と深いお考えがあるようですね。せっかくお越しいただいたのですが、ここは一旦、ネフティスちゃんの気持ちが落ち着かれるまで、少しお時間を置かれた方がいいでしょう」
(……と言いつつも、結局は未就学児童の放置を防ぐのが君の仕事じゃないのかね!? って、後から教育長にドヤされるのは確実なんだけどな!)
そう心の中で叫びながら、陣内課長は今日できる最低限の書類の手配だけを案内した。これ以上の説得は、役所の応接室でやるべきことではない。あとは寺田夫妻が、この小さな「女帝」をどう教育するかという、家庭内の問題であった。




