buzz.46 命のビザを求めて(前編)
クロ2はユキオとミェリナに連れられて、裏庭の木戸から一旦、高柳家へと戻っていった。
いつもであれば20時を迎える前には就寝の支度を調えている寺田夫妻だったが、今夜ばかりは二人とも完全に目が冴え渡っていた。先ほどまでのお茶会で口にした、上質な紅茶のせいばかりではない。もっと根源的な、何かが体の奥底から滾るような熱い思いに、二人の心は強く捉われていた。
「ちょっと待っててね、忘れないうちにシナリオの骨子をまとめておくから」
智恵子はそう言うと、自室から年季の入ったノートパソコンをリビングへと持ってきた。つい先ほどまでクロ2たちが座り、あの不思議で愛らしい気配を残していったこの場所のほうが、より瑞々しく、説得力のあるアイデアが纏まりそうだと直感したからだ。
寺田家は伝統的な日本家屋の平屋建てだが、間数が多く取られている。そのため、普段の二人はそれぞれの寝室兼書斎にこもり、個人の時間を過ごすことが常となっていた。応接室を兼ねたリビングの和室や台所は共有のスペース。そこでこうして夫婦二人、夜が更けるまで共に過ごすのは、実に久方ぶりのことであった。
「僕も、どうやら今日は眠れそうにないな。教育委員会へのアプローチも含めて、法的な前例や手続きをいろいろと調べておく必要がある」
耕一もまた、書斎から自身のノートパソコンを抱えてきて机に広げ、眼鏡の位置を直しながらインターネットでの検索を始めた。
ほんの昨日まで、二人の時間は極めて静かに、悪く言えば停滞したまま流れていた。過去の研究データの整理、ささやかな趣味、あるいは静かな読書。それらはどこか、ただ「死ぬのを待つだけ」の残り少ない余生を、気を紛らわす作業に過ぎなかったのかもしれない。
しかし、今。90歳を迎えた老夫婦の胸には、全く新しい人生の目標が、確固たる生命の灯火として宿っていた。
自分のひ孫ほどに歳の離れた、しかし尊い宿命を背負ったあの少女を、人間の学校へ行かせること。
二人でもう一度親代わりとなり、静かに閉じかけていた自分たちの「家族」を、鮮やかに再起動させるためであっだ。
画面に映る行政の就学支援要綱を凝視しながら、耕一は正面の智恵子へ向かって力強く宣言した。
「智恵子、僕は決めたぞ。あの子を何が何でも大学まで行かせる。……そうなると、あと10年、私は100歳まで現役で生き続けなければならんな!」
「あら、素晴らしい目標じゃない。大賛成よ」
智恵子はキーボードを叩き、教育委員会の担当者との面談シーンを、具体的な台詞回しを交えながらシナリオに起こし始めていた。
彼女は学生時代に演劇部に籍を置いており、現役を退いてからも地元の婦人会で自主制作演劇の公演を主導した経験がある。物語を紡ぎ、人の心を動かす演出を考えることは、彼女の最も得意とするところだった。
「そのためには、まず第一関門として、あの子をこの地域の公立中学校に正式に入学させなければならないわ。
お役所の担当者のハートをがっしりと掴んで、思わず貰い泣きさせちゃうくらいの、完璧なバックストーリーに仕立て上げないとね!」
カタカタと小気味よいタイピングの音が、夜の静まり返った和室に響き渡る。
夫婦の心は、ここ数十年、いや、それ以上の長い人生のなかでも経験したことがないほどに高ぶっていた。
ただ死を待つだけの日々ではなく、愛すべきものを支えるために、その全霊をもって命を燃やす日々に、劇的に変わったのだ。このことが、どれほど鮮やかに異なる景色を人生にもたらすものなのかを、二人は言葉にせずともお互いの表情から痛烈に感じ取っていた。
彼らの瞳には、かつての研究者や教育者だった頃の、あの鋭くも温かい知性の光が完全に甦っていた。
ーーー
そして、数日後。
寺田夫妻とクロ2の三人は、厨子市役所・教育委員会の応接室にいた。
磨き上げられた応接テーブルを挟み、独特の緊張感が室内に満ちている。
この極めて重要な面談の席に現れたのは、就学指導課の課長を務める陣内雅紀であった。教育長の管轄する各セクションの中でも、児童の就学実態調査や特別な事情を伴う対応を統括する、まさにこの作戦のキーパーソンとなる管理職である。
しかし、陣内の対応は、ユキオたちが恐れていたような「お役所の冷徹な対応」とは全く異なるものだった。
「いや~、本日はわざわざ、こちらまでごお越しいただき真にありがとうございます」
陣内は入室するなり、深く頭を下げて平身低頭の姿勢を取った。その表情には、明らかな焦燥と恐縮の色が浮かんでいる。
「当市において、これまで未就学のお子様がいらしたという事実を、事前に把握できていなかったことは、偏に私ども教育委員会の落ち度でございます。本来であれば、こちらから寺田先生のお宅へお伺いすべきところでありました。本当に申し訳ございません」
陣内がここまで恐縮しているのには理由がある。元大学教授であり、長年にわたり教育界や地域社会に貢献してきた寺田耕一と智恵子の名は、地元の名士として行政側にも広く知れ渡っていたのだ。
そんな重鎮が、「学齢期でありながら学校に通えていない子がいる」と直接申し出てきたのだから、役所側としては「重大な行政の捕捉漏れ(ネグレクト等の見落とし)があったのではないか」と、戦々恐々とするのも無理はなかった。
起立して礼を尽くそうとする寺田夫妻と、その横で神妙に控えるクロ2に対し、陣内は慌てて両手を差し伸べるようにして着席を促した。
「ああ、どうぞ、どうぞお掛けになってください! まずはじっくりとお話をお伺いさせていただけますでしょうか」
「恐れ入ります、陣内課長」
耕一が重厚な声で応じ、ゆっくりとソファーへ腰を下ろす。智恵子は隣のクロ2の背にそっと手を添え、優しく、しかし確かな覚悟を込めて椅子に座らせた。
ここまでは智恵子の書いた「台本」の想定内、いや、それ以上とも言える滑り出しだった。地元の名士というカードを最大限に活かし、まずは相手に「話を聞く姿勢」を完璧に作らせることに成功したのだ。
しかし、ここからが本当の勝負の場である。戸籍も住民票もない「クロ2」という存在を、いかにしてこの現代社会のシステムに組み込ませるか。お役所の管理職の目を欺くのではなく、その心を動かし、法的な救済措置(学齢簿の個別編製)を認めさせなければならない。
智恵子は膝の上でそっと拳を握り、現役時代の鋭い光を瞳に宿した。老夫婦が命を懸けて挑む「人間界のビザ獲得作戦」の幕が、ついに切って落とされた。
ーーー
「まず、お子さんのプロフィールを確認させていただきます。――邑人黒津さん、13歳の女子。現在の居住地は厨子市の寺田様宅、と……。それで、お父様とお母様はどちらに?」
陣内課長の手元の資料を見ながらの発言に、智恵子は静かに、しかしどこか沈痛な面持ちで説明を始めた。
「この子から聞いたところによりますと、お母様は最近亡くなられたと……。お父様は仕事で海外におり、予定では半年後に戻るらしいのです。それから、そのお母様が遺した手紙を携えて、この子が我が家を訪ねて参ったのでございます」
ここから、智恵子の全霊をかけた長尺の熱演シーンが幕を開ける。
「この子の母親が書いたという手紙を、主人に見せましたところ……主人の顔が、見る見るうちに青ざめていくのが分かりました。筆跡が、明らかに自分のよく知っている女性のものであると気づいたようです。主人はがっくりと肩を落とし、彼女が死の間際に書き残した、悲痛な願いを読み進めていました。……実は、彼女はかつての主人の教え子だったのです」
智恵子は一度言葉を切り、深い、深い嘆息を漏らした。
「主人は大学教授を退職した後も、OBとして特別講義などに呼ばれることがありました。そこで知り合った女学生と――主人の間に、あってはならない過ちが起こってしまったのです。
13年前のある夜のこと、主人は仕事で遅くなったと言って、午前様で帰ってきたことがありました。
退職後のOBにそんな仕事があるものかしらと、当時はそれほど気にも留めませんでしたが……その夜、主人はその女学生と、一夜を共に過ごしていたのでございます」
横で話を聞いていた耕一は、いたたまれないといった風に顔を恥じ入るように伏せ、智恵子はバッグから取り出したハンカチで目元をそっと押さえる。
その様子を見計らい、耕一が重々しく話を引き継いだ。
「結婚以来、初めて妻を裏切ってしまった……。年甲斐もなく、けだものの心に身を委ねてしまった。お恥ずかしい限りです。この子は、おそらく私とその女学生の間に生まれた、愛の結晶なのです……」
「ううっ……!」と、智恵子が喉を詰まらせて咽び泣く。
二人の迫真の演技に圧倒されていた陣内課長だったが、ここでふと、頭の中で電卓を叩くような奇妙な引っかかりを覚え、おずおずと問いかけた。
「あの……差し支えなければ確認なのですが、13年前というと、ご主人様は、その……77歳くらいでいらっしゃいましたよね? その御歳で、一夜限りの過ちで、お子様ができてしまった……と?」
鋭い突っ込みが入った瞬間、智恵子はこらえきれないといった様子で、わっと泣き崩れた。
「本当に、悔しい……っ! この歳になって主人の浮気を知るなんて! ずっと騙されていたなんて……!」
よよよと机に伏して泣き急ぐ智恵子に、がっくりと両肩を落として項垂れる耕一。
しかし、そのとき、陣内課長の脳裏に浮かんでいたのは、悲劇の老夫婦が織りなすメロドラマなどでは断じてなかった。彼の脳内にある、現代社会の闇を詰め込んだデータベースが激しく警報(アラート)を鳴らし始めたのだ。
(待てよ……。これ、このご夫婦、騙されてる。絶対に騙されてるよ……!)
陣内の目は、老夫婦の横で神妙な顔をして座っている「邑人黒津」という少女へ向けられた。
(『あなたの子供です』などと甘言を弄して高齢者夫婦の同情を買い、家に子供を潜り込ませ、内側から鍵を開けさせて深夜に強盗が押し入る――こりゃあ、間違いない。今世間を騒がせている新手の『トクリュウ(匿名・流動型犯罪グループ)』の悪質な手口だ……!)
そうとは露知らず、寺田夫妻は今こそがクライマックスとばかりに、さらに細かく体を震わせ、これ以上ないほどの苦悶の表情を浮かべて、陣内課長の同情を誘おうと熱演を続けるのだった。
ーー後編に続くーー




