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女王蜂に育てられた俺~宇宙最難関資格に挑む  作者: 和子


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buzz.47 命のビザを求めて(後編)


 厨子市教育委員会の応接室。そこは今や、寺田智恵子脚本・主演による特別公演の舞台と化していた。


 室内の空気は完全に書き換えられ、あたかも『新橋演舞場』の最前列にいるかのような錯覚を覚えさせる。新劇の大女優が文字通り命を削って演じる、女の人生の、一番深く重いクライマックスのシーンがそこにあった。


「私は……私は、この残されたわずかな人生のすべてを、この子のために捧げる覚悟をいたしました。ええ、怨讐(おんしゅう)を乗り越えて、今一度『母の心』に立ち戻って、この子と共に生きていくことを誓ったのです……!」


 智恵子はハンカチを握りしめ、天を仰ぎ、声を震わせた。もしここに観客がいれば、間違いなく満場の拍手喝采が巻き起こり、ハンカチが何枚あっても足りないほどの感動の渦が生まれていたに違いない。


 だが、この至高の舞台を特等席で鑑賞していた唯一の観客――陣内課長の脳内は、感動とは真逆の「防犯シミュレーション」が暴走していた。


(確信した。これ、絶対に100%『トクリュウ』の指示による闇バイトの仕込み子だ……! 教育熱心で資産家の人徳ある老夫婦を狙い、愛人の子という最悪の弱みを捏造して揺さぶりをかける。なんて恐ろしい、なんて巧妙な犯罪グループなんだ……!)


 陣内課長は、涙ぐむ智恵子と項垂(うなだ)れる耕一、そしてその横で静かに座っている謎の少女「黒津」を、冷や汗を流しながら交互に見つめた。老夫婦のあまりの熱演(陣内にとっては、騙されきってマインドコントロールされている悲惨な姿)に、公務員としての、そして一人の人間としての正義感が激しく燃え上がる。


(この純朴なご高齢の先生方を、そんな凶悪な犯罪の被害者にしてはならない……! やられる前に、この子を警察の監視下に置いて、出所を徹底的に洗ってやる! 少年課や生活安全課とも連携し、裏の組織ごと一網打尽にしてやるんだ!)


「……寺田先生、奥様。お二人の……お二人の深いお覚悟、この陣内、しかと受け止めました」


 陣内課長はゴクリと唾を飲み込み、重々しく口を開いた。


 智恵子は心の中で(よし、手応えあり! あとは『分かりました、すぐに手続きを!』のセリフを待つだけね!)と、心の中でガッツポーズを決めていた。


 しかし、世の中そう上手くはいかない。

陣内課長の脳内で爆走していた「トクリュウ殲滅作戦」は、老女優の熱演を感動ではなく、「一刻を争う凶悪犯罪の対策案件」へと変換していたのだ。


 陣内課長の口から飛び出したのは、夫妻の予想を180度裏切る、極めて冷徹なセリフだった。


「ですが、奥様。……本当にまず、窓口となるのはこの教育委員会なのでしょうか?」

「え……?」

智恵子のハンカチを持つ手が、ピタリと止まる。


 陣内課長は真剣な眼差しで老夫婦を見つめると、凶悪犯罪から彼らを保護するような、それでいて容赦のないトーンでこう告げた。


「まずは、このお子さんの正確な身元を把握するため、警察署の生活安全課、あるいは少年課に届けるほうが先では? 誘拐や失踪、あるいは……何らかの犯罪グループの関与も否定できません。お二人の安全のためにも、まずは捜査のプロにこの子の出所を洗ってもらうべきです!」


 ガシャーーーン!!!


 智恵子の頭の中で、数日間も睡眠を削って練り上げた「感動の愛憎劇シナリオ」が、音を立てて木っ端微塵に崩れ去った。


(け、警察!?捜査!? 出所を洗うって何よ!?)


 あまりに予想外すぎる展開に、智恵子はウソ泣きの顔を取り繕うことすら完全に忘れ、涙などまったく出ていない素の目で陣内課長をギロリと睨みつけると、低めの地声で直球に聞き返した。


「……え、それ、どういう意味ですか?」


 あまりの切り替えの早さに、横で(うつむ)いていた耕一も「お、おい、智恵子、キャラが崩れてるぞ……!」と心の中で大パニックである。


 しかし陣内課長は、この智恵子の「豹変」すらも、(ああ、夫に裏切られたショックで、ついに奥様の精神が限界を迎えてしまったんだ……!)と都合よく解釈し、「大丈夫ですよ、奥様! 私がついています!」と、力強く頷くのだった。


 お役所の同情を引くはずが、まさかの「ガチの警察沙汰」の危機。

斜め上すぎる誤解の暴走を前に、寺田夫妻の「人間社会のビザ獲得作戦」は、崩壊寸前の大ピンチを迎えるのだった。



【突然の乱入者】


 コンコン、と応接室のドアが短くノックされたかと思うと、勢いよく扉が開け放たれた。


 そこに立っていたのは、厨子市教育界のトップ――教育長の()()()(かわべ たかし)その人であった。


「どうかされましたか? 職員が、応接室から尋常ではない咽び泣く声が聞こえてくると知らせてきたので、慌てて来てみれば……おい、陣内課長! こりゃあ、一体どういうことかね!?」


 突然の教育長の電撃参入に、その場の全員が驚愕した。


 特に、まだ人間世界の複雑怪奇な「大人の()()()()(お芝居)」に慣れていないクロ2は、あまりの怒号と緊迫した空気に情緒の維持が困難になってしまった。何が起きているのか分からず、ついにそのつぶらな瞳が潤み、大粒の涙が溢れ出す。

「う、うーーっ……!」


 可憐な少女の涙。それを見た川辺教育長は、凄まじい勢いで陣内課長を叱責した。

「お前、一体この部屋で何をやってるんだ!」


 もしここに寺田夫妻というVIPの目がなければ、川辺教育長は今すぐにでも、陣内課長のハゲ上がった頭頂部に向けて猛烈な張り手をブチかましていただろう。そこは社会人の理性でぐっと(コラ)え、教育長は低く怒鳴った。


「事前に言っておいただろう! 寺田先生の案件だ、くれぐれも失礼の無いように、細心の注意を払って取り扱うようにと!」


 しかし、脳内が「対トクリュウ防犯モード」に染まりきっている陣内課長も必死である。上司の剣幕に怯えながらも、あわあわと、事の次第を説明し始めた。


「あ、あの、教育長……あのですね、お話を詳しく伺ってみますと、どうにも不可解な点が多く……最悪の場合、トクリュウ(匿名・流動型犯罪グループ)が裏で糸を引く新手の詐欺、あるいは緊縛強盗の下見の可能性もありまして……っ!」


 これには川辺教育長も抑えがきかなかった。

挿絵(By みてみん)

 ――バチンッ!!!


 乾いた音が響き、陣内課長の頭頂部に見事な平手打ちがクリーンヒットする。

「何をくだらない、的外れなことを言っているんだ、お前は!」


 教育長は陣内課長の襟首を掴むようにして部屋の隅へと連行し、周囲に聞こえないような小声で、しかしガチギレした目で詰め寄った。


「いいか、我々教育委員会の至上命題は『管轄内の未就学児童ゼロ』なんだよ! 地元の名士である寺田先生自らが『身元保証人になる』と仰っているんだ。だったら、我々はそれを書類に起こして、さっさと入学手続きを進めるだけでいいんだ! 余計な家庭の事情を根掘り葉掘り聞きすぎて、話をややこしくするんじゃない!」


 よくお役所仕事は「縦割り行政」と揶揄(やゆ)される。市民課に行けば「3階の保険課へ」、そこへ行けば「まずは1階で住民票を」と、役所の迷宮をタライ回しにされた経験を持つ人も多いはずだ。しかし、この瞬間だけは、その「縦割り」が奇跡的にうまく機能した。


「警察署なんぞに届け出てみろ! 身元照会だの何だので、入学までに半年以上かかるぞ! そんなことをされたら今期の未就学児童ゼロの目標が未達成になるだろうが! いいからさっさと、うちの課の領分として手続きを進めろ!」


「は、はいぃっ!!」


 教育長の放った一喝は、陣内課長のトクリュウ妄想を瞬時に粉砕した。お役所の縦割り意識と縄張り防衛本能が、最高の形で功を奏した稀有(けう)な瞬間であった。


 ハゲ頭をさすりながら席に戻ってきた陣内課長は、先ほどまでの刑事のような鋭さを綺麗さっぱり消し去り、会談開始早々の満面の接待スマイルに戻った。

「あ、失礼いたしました! それでは、特例措置としての学齢簿編製、および中学校への就学手続き、直ちに執り行わせていただきます!」

と、マッハの速度で書類を揃え始めるのだった。


 それを見た智恵子はそっとハンカチで()(のフリ)を拭い、耕一に目配せして「どうやらうまくいったようね」と不敵に微笑む。こうして、大人の複雑すぎる誤解と縦割り行政の荒波を乗り越え、クロ2の「人間社会のビザ」は、ついに最短ルートで発給されることとなったのである。


 智恵子の手に握られていた、本当は一滴の涙も吸っていなかった乾いたハンカチ。それは今、陣内課長を騙すための道具から、隣で本当に涙を(こぼ)してしまったクロ2を労わるためのものへと変わった。


「驚かせてごめんなさいね、クロツーちゃん」


 智恵子は優しく声をかけながら、少女の柔らかな頬を伝う大粒の涙を丁寧に拭き取っていく。


 その様子を見ながら、寺田耕一は張り詰めていた肩の力をようやく抜いた。一時は妻の仕掛けた泥沼のメロドラマが完全に裏目に出たと肝を冷やし、最悪の場合は九十歳の腰を折って土下座をしてでも押し通す覚悟までしていたのだ。

耕一はほっと胸を撫で下ろし、少し照れくさそうに白髪(しらが)の頭をかきながら、クロ2へと微笑みかけた。


「クロツー、大人が大声を上げて驚かせてすまなかったな。もう大丈夫だよ」


 クロ2は智恵子のハンカチに顔を預けながら、きょとんとした、けれどどこか切ない瞳で二人を見上げた。


「おじさまは、何も悪いことをしていないのに……。おばさまもあんなに悲しまれて。みんな、私がここに来たせいなんだと思うと、胸が苦しくて、悲しくなってしまいました。……こんなことは、亡くなった母もきっと望んでいないはずです」


 純粋無垢だからこそ、人間の複雑な嘘を自分の責任として受け止めてしまう少女。その健気でいじらしい言葉は、応接室にいた全ての大人たちの胸を強く打った。陣内課長を怒鳴り散らしていた川辺教育長の顔からも、瞬時に「役人の険しさ」が消え去っていく。


 川辺教育長は静かに歩み寄ると、高級なスーツの膝が床に擦れるのも厭わず、その場に深く身をかがめた。クロ2とまっすぐに目線を揃え、一人の教育者としての温かい眼差しを向ける。


「――君は、学校へ行って、お友達と勉強がしたいのだろう?」


 川辺はそう語りかけると、まるで実の孫に言い聞かせるように、にっこりと優しく微笑んだ。


「その気持ちが少しでもあるのなら、私たち教育委員会は全面的に君の力になる。大人の事情なんてものはね、君が気にする必要はまったくないんだよ。この国では、どんな子供にも等しく『教育を受ける権利』がある。私たちは、それを守るためにここにいるんだからね」


 その言葉は、まるで厚い雨雲を割って差し込んできた一条の柔らかな光のようだった。


「人間の叡智」を学びたい(本当は身分証が欲しい)と願う新しい女王の前に、今、人間社会が誇る最も普遍的で美しい理念――『教育の門戸』が、真実の優しさをもって開かれたのだ。


 部屋を包んでいた気まずい嵐は完全に去り、そこにはただ、少女の未来を祝福するような温かな光だけが満ち満ちていた。


ーーー


 数日後、寺田家に、一通の速達書留が届けられた。


 待ちに待った知らせを受けたクロ2は、ミェリナとユキオに伴われて寺田家を訪れる。クロ2は緊張した面持ちで封筒にハサミを入れた。中から現れたのは、小さな、しかしずっしりとした重みを感じさせるプラスチックのカード――『厨子中学校・生徒顔写真付き身分証明書』、すなわちクロ2の学生証であった。


「わあ……っ」


 クロ2の瞳が、これまでにないほど瑞々しく輝いた。そこには、先日撮影したばかりの少し緊張気味な、けれど確かに人間の少女として佇む彼女の姿が印刷されている。


「どれ、ちょっと貸してね。クロ2」


 ミェリナが慣れた手つきでクロ2のスマートフォンを受け取り、カードの裏表をスキャンして端末内にデータを登録していく。


「はい、これでOK。現物のカードは無くさないように、おうちの大事な場所に保管しておいてね。これからは大体のことが、そのスマホひとつで用が足りるわ」


 スマホ画面に映し出されたデジタル学生証を見つめながら、ミェリナは「これであなたも、名実ともにこの社会の『一員』よ」と、ひとつひとつその価値を教えるように指折り数えた。


 この小さな一枚のカード、そしてスマホの中の証明書。それがもたらす恩恵は、想像を絶するほどに広大だった。

何より大きいのは、顔写真付きの公的な「簡易身分証明書」になるということだ。生年月日が明記されているため、人間社会のルールである年齢確認も難なくクリアできる。


「これがあればね、中学生用の通学定期券が買えるのよ(厨子中学校は通学定期券購入兼用証明書となっている)。美術館や博物館、科学館、水族館に動物園……ぜんぶ『学生料金』で入れるようになるわ。映画館だって、本や動画を借りるお店の会員カードだって作れるの(※注・民間の商取引では、保護者の同意が必要な場合がある)」


 ミェリナの言葉を隣で聞きながら、ユキオも「そうそう」と笑顔で頷いた。


「もし街中(まちなか)で警察官の人に『君、何歳?』って声をかけられても、これを見せれば一発で『厨子中学校の生徒です』って説明できるんだ。怪しまれることもないし、迷子になってもすぐにここに帰ってこられる。人間としてこの街で買い物したり、生活したりするのが、これでずいぶん便利で安全になるんだよ」


 学校の図書館や校内システムを利用するためのICT端末としての機能、各種大会やボランティア活動への参加資格。そのどれもが、クロ2にとって「人間界への正当なパスポート」そのものだった。


 クロ2は、液晶画面に映る自分の顔写真と名前――『邑人黒津』の文字を、愛おしそうにそっと指先でなぞった。


 これまでは、街を歩くだけでもどこか「見つかってはいけない存在」として、本能的な緊張を強いられていた。しかし今、この手に握られたスマホに入った1枚のカードが、彼女を優しく、そして強力に全人間社会のルールで守ってくれる。


「私……本当に、人間としてここで生きていけるのですね。母が愛したこの土の上で、皆さまと同じように、堂々とお散歩できるんですね……!」


 じわりと胸の奥から湧き上がるような喜びが、クロ2の小さな身体を満たしていく。


「そうよ。あなたはもう、立派な厨子市の中学生よ」

智恵子が愛おしそうにクロ2の肩を抱き寄せ、耕一も満足そうに深く頷いた。


 異なる種族の壁を、人間の作った『法と教育』というシステムが綺麗に飛び越えた瞬間だった。

スマートフォンを宝物のように両手で抱きしめ、満面の笑みを浮かべるクロ2の未来には、今、どこまでも広大で自由な人間社会の道が、(まばゆ)いほどの光とともに(ひら)けていた。

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