buzz.42 生態系のすれちがい
「玄関から回らなくても、お隣さんに行くのは簡単なのよ」
暇乞いをして、名残惜しそうに帰ろうとするクロ2を、寺田智恵子が優しい声で呼び止めた。
智恵子はクロ2の小さな手を引き、緑の濃い裏庭へと連れて行く。向かった先は、高柳家との境になっている古い垣根だった。一見するとただの生垣だが、目を凝らせば、そこにひっそりと木製の引き戸が組み込まれているのがわかる。
「ここに手を掛けて、普通に引いても開かないのよ。ほら、こちらに蝶番がついているでしょ? 少し上に持ち上げてから、下の引っかけを外すと……ね、手前に開くの」
智恵子が手際よく実演してみせると、小さな木戸が「ギィ」と静かな音を立てて手前に開いた。隠し通路のような仕掛けに、クロ2は「ほう」と感心の声を漏らして目を丸くする。
「昔ね、お隣に住んでいた坊やがここを通ってうちに入ってきて、初めて私も知ったのよ。前の持ち主の方が作った悪戯な仕掛けだと思うんだけど。蝶番の部分が向こう側からは見えないようになっているから、これを見つけて入ってきた、"ユキオくん"に、『すごいじゃない!』って、たくさんお菓子をあげちゃったわ」
楽しそうに目を細めて懐かしい思い出を語る智恵子に、クロ2は深く頭を下げた。伊耶那美の群体に心を通わせてから三十年、この隣人と紡いできた信頼の温かさが、その微笑みから伝わってくるようだった。
「ご親切にありがとうございました。では、こちらから失礼いたします」
ここで温かい別れを告げ、クロ2は開かれた小さな境界線をまたぎ、高柳家の敷地へと足を踏み入れた。
玄関に回って中へ入り、静かに居間の方へ歩いていくと、中からは楽しげな笑い声が聞こえてくる。
ーーー
「本当に? 兄貴ったら、相変わらず職場でもそんな感じなの? 昔から全然変わらないわねえ!」
「そうなのよ、お父さんったら役所でもあの調子らしくて。もう可笑しくって!」
ーーー
礼儀正しいクロ2は、帰宅の挨拶を告げる。
「ただいま戻りました」
いつものように慎ましく声をかけたクロ2は、襖を開けて居間に一歩足を踏み入れた瞬間、その場の異様な空気にぴたりと動きを止めた。
静江の正面にいるのは、凛々しいスーツ姿がよく似合う、知性的でありながらどこか自由奔放なオーラを纏った女性であった。静江は、クロ2の姿に気づくと「あら?」と目を留めた。
「あ、クロツー、おかえりなさい!」
静江が座布団から少し腰を浮かせ、嬉しそうにクロ2を迎え入れる。そして、正面に座る女性を指して、朗らかに紹介を始めた。
「クロツーちゃん、ちょうど良かった。この人はね、私の義理の妹――つまり正平さんの妹で、高柳久美子さん。ユキオのオバサンにあたるのよ。今日は久しぶりに遊びに来てくれたの」
「オバサン」という単語が耳に飛び込んできた瞬間、女性――久美子の眉がピクリと跳ねた。
久美子はあからさまに「むうっ」と頬を膨らませ、不満げに静江を睨みつける。
「ちょっと、お義姉さん!『オバサン』はやめてよ! 私、まだ20代(28歳)なんだからね! ユキオから見たらそうかもしれないけど、うら若き女性に対してその肩書きは返上するわ!」
ひとしきり静江に抗議して見せたあと、久美子はくるりとクロ2の方を向き、一転して人当たりの良い、魅力的な笑顔を浮かべた。
「ふふ、驚かせちゃってごめんなさいね。クロツーちゃん、初めまして。高柳久美子です。私のことは『久美子』って呼んでね」
「は、はい……久美子様。初めまして、クロ2と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
蟻群体の新女王としての本能か、クロ2は目の前の女性から、並外れた「知性の気配」を敏感に察知していた。
丁寧にお辞儀をするクロ2を、久美子は「へえ、可愛くて礼儀正しい子ね。ユキオめー、なんで急にこんなにガールフレンドができるようになったのかしら、生意気だわ」と、興味深そうに見つめるのだった。
【すれ違いの捜索網】
その頃、町内の表通りでは、必死の形相の三人による大捜索が繰り広げられていた。
今日のミェリナは「全休」。捜索に向かったのは、ユキオ、ツェンドリカ、クロの一人と二匹だけだった。
「おい、クロ2! どこ行っちまったんだよ!」
ツェンドリカは鋭い視線を路地裏へと走らせる。その口調は荒々しく、いら立ちを隠さない。
「新米のくせに人騒がせな蟻だぜ! もし誘拐犯に拉致されているのを見つけたら、そのアジトごと一族総出で蜂の巣にしてやるぜ!」
「ツェンドリカ、声が大きいよ……っ! ああ、もうどうしよう……っ!」
ユキオは周囲の通行人の目を気にしながら、半ばパニック状態で頭を抱えていた。彼がここまでうろたえているのには、致命的な理由があった。
(やばい……やばすぎる。クロ2のやつ、まだスマホを持ってないんだ! 連絡も取れないし、GPSで位置情報を探すこともできない……っ!)
現代社会において、連絡手段がない人間の捜索がいかに困難か、ユキオは痛いほど理解していた。もし道端でうっかり「蟻の習性」を出して落ちてるものを拾いまくったり、変な能力を使って正体がバレたら一発で終わりだ。焦りと冷や汗が止まらない。
そんなユキオの横で、いつもは怠け者のクロが、今日ばかりは必死な表情でキョロキョロと周囲を見回していた。
「クロ2……どこ行っちゃったのぉ? まだこの町のこともよく分かってないのに……っ」
クロにとって、新しく高柳家にやってきたクロ2は、まるで待ちに待った可愛い妹のような存在だった。いつもなら街角の自販機のアイスに目を奪われるはずのクロが、今は大好きな甘いものにも目もくれず、半泣きになりながら懸命に道路の端々を探している。
「心配すんな、クロ。あれでも蟻の新女王だ、そう簡単にはくたばらねえよ。連絡がつかねえなら、俺たちの足で見つけてやるまでだ!」
ツェンドリカがクロの肩をガシガシと叩いて励ます。
「うん……っ。もし悪い人に捕まってたら、うちの群体でちくちく攻撃して、クロ2ちゃんを絶対に助け出すんだからぁ!」
「だから二人とも、ハチ能力の話は外でしないでくれってばぁ!」
ユキオの悲痛な叫びが響く。
三人はクロ2が「道路側」に飛び出して迷子になった可能性を疑い、主要なルートを必死に探しまわっていた。
――しかし、その懸命な捜索は、完全に空振りであった。
当のクロ2は、寺田さんの奥さんに教えてもらった裏庭の秘密の木戸を通り、道路側へは一歩も出ずに、高柳家の裏口からすでに帰宅を果たしている。
一方、ご近所はあらかた聞いて回り、手掛かりはついに発見できなかった。
後は、少し遠隔地を歩いている可能性がある。蟻とはそういう習性を持っている。
「とにかく、一回落ち着いて捜索手順を見直そう!」
町中をさんざん走り回り、息も絶え絶えになったユキオは、ツェンドリカとクロを伴って一度家に戻ってきた。スマホを持たないクロ2が行方を眩ませ、万が一にも正体がバレたら……という恐怖で、ユキオのライフはもうゼロに近い。
最悪の事態を覚悟しながら居間の引き戸を開けた、その瞬間だった。
「あら、ユキオ。おかえりなさい」
「あら、おかえりユキオ。ずいぶん汗だくじゃない」
そこには、母の静江と叔母の久美子、そして――
「あ、ユキオ。お戻りになられたのですね」
当の「指名手配犯」であるクロ2が、お茶を片手にすっかり馴染んで談笑している姿があった。
ユキオはガクッと膝の力が抜け、そのまま天を仰いだ。
「灯台下暗しかぁ……っ!」
心臓が破れるほど心配した反動で、ほっとすると同時に、今度は無性に腹が立ってきた。
ユキオはクロ2に向かって声を荒らげる。
「クロ2! お前、一体どこへ行ってたんだよ!」
激昂するユキオに対し、クロ2はきょとんとした顔で首を傾げた。
「お隣の……寺田さんのご夫婦に会って、ご挨拶して参りました。出かける際、そうお伝えしておいたはずですが……行き違いだったのですね」
「え……?」
その言葉を聞いて、ツェンドリカもクロも一気に緊張の糸が切れたようだった。
「なんだよ、だいたいユキオが騒ぎすぎなんだぜ。お隣に行ってるって最初から言ってたろ?」
ツェンドリカがやれやれと首を振れば、クロもぷうと頬を膨らませる。
「そうだよぉ! ユキオが血相変えて飛び出そうとするから、その雰囲気につい流されちゃったじゃん。人(蜂)騒がせだなぁ、もう」
「おい! お前らだってノリノリで『蜂の巣にしてやる』とか『ちくちく攻撃する』とか言ってただろ!?」
ユキオの必死の弁明も虚しく、居間の空気は完全に「ユキオ一人が勝手に大騒ぎして周囲を巻き込んだ」という方向で出来上がってしまった。久美子や静江からも「男の子って、たまに突飛な行動に出るわよねえ」なんて生温かい視線が注がれ、ユキオはいよいよ針のむしろだ。
この最悪な空気を瞬時に察した母・静江が、見事なタイミングで必殺の一言を放った。
「そうだ、みんなでこれ食べましょう! 久美子さんから『松島屋の豆大福』をいただいたのよ」
「豆大福」という魅惑のワードが響いた瞬間、居間にいたすべての女性陣の関心が、その一点へと猛烈な勢いで集中した。
「わーい! いただきま~す!」
クロが目を輝かせて真っ先に飛びつく。
「うむ。私も歩きすぎたからな、少し糖分を補給せねばならん!」
ツェンドリカも腕組みをして、もっともらしい理屈を並べながら大福の箱へ手を伸ばした。
もちろん、新しい同居人のクロ2や、久しぶりの帰省で甘いものに目がない久美子も、嬉しそうにお皿を並べ始めている。
静江の鮮やかな機転によって、ここにいる女性陣から十字砲火を浴びるはずだったユキオは、からくもその難を逃れた。
「……はあ。俺も、心配しすぎて消耗した糖質を補給することにするよ……」
がっくりと肩を落としながら、ユキオも差し出された豆大福を口に運んだ。上品な餡の甘さとほんのり効いた塩気が、疲弊した脳にじわじわと染み渡っていく。
昆虫の探検者である蟻は、一歩地上に出れば、すべては種族の発展のため、本能の赴くままに探索と資源収集にいそしむ生き物だ。それは女王であっても変わらない。
そんな「蟻の習性」にまで人間の男子高校生が思い至らねば、人は容易に大いなる行き違いに陥ることになるのだ――と、ユキオは豆大福を噛み締めながら、身を以て知るのだった。
お茶菓子の甘さに包まれていく居間の賑わいを背にして、高柳家のすぐ隣、寺田家の座敷においては、人知れず美しくも厳かな歴史的接見が行われていたのだ。
蟻の生態を深く研究して熟知し、ついには小さき命たちと確固たる心の交流を結んだ寺田夫妻。三十年という歳月の果て、最期を迎えようとする大女王・伊耶那美は、万感の思いを伝えようと、新女王クロ2に感謝の言葉を携えさせて智恵子の元へ送り出した。そして智恵子もまた、その託された純粋な言葉の重みを、確かな温もりとともに受け取ったのである。人と虫が境界を超えて響き合った、それは一つの奇跡のような、美しい調和の姿であった。
その一方で。
蟻の群体が分子共鳴転移装置によって人間のアバターとなり、居候しているという特大の秘密――それが露見してしまう恐怖に一人うろたえ、パニックに陥っていたのがユキオである。スマホを持たないクロ2の足跡を追うこともできず、現代社会の常識に縛られるがあまり、町内を巻き込んだ見当違いの大捜索線を発動させてしまった。
人間側の都合や浅薄な憶測だけで自然の営みを測ろうとすれば、たちまち目隠しをされたように盲目となり、滑稽な空回りを演じることになる。
今回の出来事からもわかるように、生態系の正しい学びというものは、パニックに陥ったユキオはもちろんのこと、傲慢に自然と向き合いがちな全ての人類にとって、等しく必要なことなのではないだろうか。




