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女王蜂に育てられた俺~宇宙最難関資格に挑む  作者: 和子


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40/42

buzz.40 懐かしい面影


 相模湾が近い厨子市の十二月初旬は、冬に入ったとはいえどこか柔らかい。日中は十二〜十五度ほどまで上がり、陽が差すと背中が温まる。しかし朝晩は五度前後まで冷え込み、吐く息が白くなる。ハーフコートを羽織り、すぐに脱ぎ着できる重ね着がちょうどいい季節だった。


 そのほんのり暖かい空気の中を、クロ(ツー)は高柳家の近辺を歩いていた。

 蟻だったころとは違い、今の身体は歩幅が大きい。速度そのものは遅いのに、一歩ごとに景色が大きく動いていくのが不思議だった。大股で歩くと、風が頬をかすめ、胸の奥が少しだけ高鳴る。

挿絵(By みてみん)

 肩にはミェリナに“バイソー”で買ってもらったエコバッグをかけている。

手には同じ店で買ってもらったマジックハンド。

 クロ2はそれらを使って、道に落ちている空き缶やペットボトルを拾い集めていた。


 蟻には、地面に落ちている“資源”を見つけると収穫したくなる本能がある。ミェリナはそれを理解したうえで、念のためにこう言い聞かせていた。


「私たちが花を渡り歩くのと同じようなものね。でも、人間界では落ちている“食べ物”や“う○こ”は拾っちゃダメよ」


 クロ2はその注意を真剣に受け止め、胸に刻んでいる。


 マジックハンドで空き缶をつまみ上げながら、クロ2は小さくつぶやいた。


「今まで拾えなかった、缶やペットボトルを拾っていくです。蟻の体では出来なかったので、とてもいい気分です」


 その声には、静かな喜びが滲んでいた。

 かつては巨大な壁のようにしか見えなかったペットボトルも、今は軽々と持ち上げられる。蟻の視点では届かなかった世界に、ようやく自分の手が触れられるようになったのだ。


 冬の光が差し込む道を、クロ2はゆっくりと歩き続けた。

拾い上げた缶がエコバッグの中で小さく鳴り、その音がどこか懐かしい記憶を呼び起こす。

蟻だったころの本能と、人間の姿で得た新しい感覚。その二つが胸の奥で静かに重なり合っていた。


ーーー


 ユキオは隣家の玄関脇の庭を覗いた。

クロ2の姿は見えない。

「広い裏庭の方はどうだろうか……あのゲート、まだ生きてるかな?」


 彼は高柳家と隣家を隔てる垣根へ向かった。

そこには古い引き戸がある。

見た目はただの木の板だが、ユキオは知っている。――これは“ドア”なのだ。


「一見、引き戸のようだけど……ここを押すと」

ユキオが戸の中央を軽く持ち上げて押すと、ギィと、と蝶番が鳴った。

戸がゆっくりと開く。


「やった、開いた!」


 ツェンドリカが感心したように言う。

「人間って面白いこと考えるなぁ。つまり“智恵”がある者だけ入れる仕掛けか」


 ユキオは扉をそっと閉めながら、昔を思い出して言う。

「智恵というより、懐かしさだよ。子どもの頃、ここを開けて入って、お隣の奥さんからお菓子もらったんだ。あの頃は、よかったなあ」


 クロは眉間にしわを寄せて目を細めた。

「う~ん、まだ仕掛けがあるかもよ。ホトトギスの花みたいに、ハチの背中に花粉を乗せるような……」


「それは仕掛けじゃなくて植物の生存戦略だよ!」

ユキオがツッコミを入れる。


 三人――いや、一人と二匹は、垣根のドアを抜けて隣家の庭へ侵入した。


「クロ2がここに来たってことは、領土の保全を確認しに来たのかもな」

ツェンドリカ呟く。


「おれたちハチ属にとってテリトリーの防衛は最重要事項だ。蟻にとっても当然だろう。

でも、もし隣の奥さんに見つかって“控えよ、我は蟻の女王なり!”とか言い出したらどうする?」


「やめてくれ、それ想像しただけで胃が痛くなる…」

ユキオは頭を抱えた。


 ツェンドリカは真面目な顔で言う。

「でも、クロ2にしてみれば、この広大な庭は蟻の巣に最適な土壌と環境だし、おいそれとは手放せないだろう。人間の体となったこの機に、隣の家を一気に制圧してしまうという手もある」


「いや、そういう恐い展開やめて!」

ユキオは声を上げた。


 そのとき、家の中から声がする。

「は~い、どちらさまですか?」


 お隣の奥さんに気づかれたのだろうか。裏口から入ったのは、まずかった。

「どうする? 見つかったら“生態系の侵入者”扱いだぞ」


「とりあえず、静かに撤退だ!」

ユキオが指示を出す。


 三人は忍者のように身を低くして、戻って垣根のドアをくぐり、そっと閉めた。

ギィ――蝶番が再び鳴る。


 ツェンドリカが息をつきながら笑った。

「いやぁ、人間の家もなかなかの迷宮だな。智恵がある者しか入れないって、凝り過ぎだろ」


 ユキオは苦笑した。

「智恵というより、懐かしさだな。子どもの頃の冒険している気分を思い出したよ」


 クロがぽつりと言った。

「ホント、人間の体になってから“冒険”の連続だもんね」


 ユキオは笑った。

「そうだな。……それより、クロ2を早く見つけないと。このあたりに自称"蟻の女王"が出没していないか、聞き込みして回るとするか」


 冬の風が垣根を揺らし、三人の笑い声が静かな庭に溶けていった。


ーーー


 その日の午後、寺田家の玄関に、ひとつの影が差した。

冬の光が薄く射し込む中、クロ2が静かに立っていた。


 智恵子は、玄関に現れたその姿を見て息を呑んだ。

蟻の女王の出現に驚いたのではない。

彼女の記憶が、半世紀以上も巻き戻されたのだ。


 そこに立っていたのは――ずっと昔に嫁にいったはずの理恵子。

それも、中学校から「ただいま」と言って帰ってきた、あの子供時代の姿そのものだった。


「理恵子……あなた、どうしてここにいるの?」


 智恵子の声は、震えていた。

クロ2は小首を傾げ、傍らにエコバッグとマジックハンドを置くと、丁寧にお辞儀をした。


「母から言付かって参りました。

"三十年にわたるご親切に、心から感謝しております。

この世界を去るにあたり、一言気持ちをお伝えしたく、娘をご挨拶に伺わせました。"」


 その言葉を聞いた瞬間、智恵子は理屈ではなく、直感で理解した。

この娘は――この庭で共に過ごした“蟻の女王”の子なのだ。

母親は天寿を全うし、次の世代がこうして訪ねてきたのだろう。


 荒唐無稽な想像。

しかし、大学教授として長く理性を重んじてきた彼女の心に、それを受け入れることは、むしろ自然なことのように思えた。


「長生きしていると、こんなこともあるのね……」


 智恵子は微笑み、クロ2を居間の座敷へと招き入れた。

そして、夫の書斎をそっとノックする。


「あなた、お客様よ。とても懐かしい人なの」


 書斎でうたた寝をしていた寺田耕一は、その声に、遠い記憶を呼び覚まされるように目を開けた。

ゆっくりと椅子から身を起こし、居間へ向かう。


 そこに佇む小さな来客を見た瞬間、

耕一の時間もまた、五十年以上巻き戻された。


 幼い理恵子の姿。

庭で蟻の巣を観察し、「生きるとは何か」を語り合った日々。

季節の匂い、土の温度、そして、あの小さな群れの静かな営み。それが自分の娘の姿をなぞり、目の前に顕現しているのだ。理論ではない、この世の(ことわり)なのだ


 クロ2は、畳の上で正座し、静かに言葉を続けた。


「母は、この庭を愛し、皆様のお心づくしに感謝しておりました。土の匂い、風の音、人の優しさ。

それらが、私たちの世界を支えていたのです。どうか、これからも――」


 耕一は深く頷いた。智恵子の手をそっと握り、静かに言葉を返した。


「もちろんだよ。この庭は、君たちの家でもある。30年の思いをよく伝えてくれた。」


 クロ2は、深く頭を下げた。

その仕草は、まるで人間の子どものようであり、同時に、ひとつの群れを背負う女王の威厳を宿していた。


 外では、冬の風が庭木を揺らしている。

枯れ葉が舞い、陽が傾き、時間がゆっくりと、しかし確かに流れていく。

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