buzz.40 懐かしい面影
相模湾が近い厨子市の十二月初旬は、冬に入ったとはいえどこか柔らかい。日中は十二〜十五度ほどまで上がり、陽が差すと背中が温まる。しかし朝晩は五度前後まで冷え込み、吐く息が白くなる。ハーフコートを羽織り、すぐに脱ぎ着できる重ね着がちょうどいい季節だった。
そのほんのり暖かい空気の中を、クロ2は高柳家の近辺を歩いていた。
蟻だったころとは違い、今の身体は歩幅が大きい。速度そのものは遅いのに、一歩ごとに景色が大きく動いていくのが不思議だった。大股で歩くと、風が頬をかすめ、胸の奥が少しだけ高鳴る。
肩にはミェリナに“バイソー”で買ってもらったエコバッグをかけている。
手には同じ店で買ってもらったマジックハンド。
クロ2はそれらを使って、道に落ちている空き缶やペットボトルを拾い集めていた。
蟻には、地面に落ちている“資源”を見つけると収穫したくなる本能がある。ミェリナはそれを理解したうえで、念のためにこう言い聞かせていた。
「私たちが花を渡り歩くのと同じようなものね。でも、人間界では落ちている“食べ物”や“う○こ”は拾っちゃダメよ」
クロ2はその注意を真剣に受け止め、胸に刻んでいる。
マジックハンドで空き缶をつまみ上げながら、クロ2は小さくつぶやいた。
「今まで拾えなかった、缶やペットボトルを拾っていくです。蟻の体では出来なかったので、とてもいい気分です」
その声には、静かな喜びが滲んでいた。
かつては巨大な壁のようにしか見えなかったペットボトルも、今は軽々と持ち上げられる。蟻の視点では届かなかった世界に、ようやく自分の手が触れられるようになったのだ。
冬の光が差し込む道を、クロ2はゆっくりと歩き続けた。
拾い上げた缶がエコバッグの中で小さく鳴り、その音がどこか懐かしい記憶を呼び起こす。
蟻だったころの本能と、人間の姿で得た新しい感覚。その二つが胸の奥で静かに重なり合っていた。
ーーー
ユキオは隣家の玄関脇の庭を覗いた。
クロ2の姿は見えない。
「広い裏庭の方はどうだろうか……あのゲート、まだ生きてるかな?」
彼は高柳家と隣家を隔てる垣根へ向かった。
そこには古い引き戸がある。
見た目はただの木の板だが、ユキオは知っている。――これは“ドア”なのだ。
「一見、引き戸のようだけど……ここを押すと」
ユキオが戸の中央を軽く持ち上げて押すと、ギィと、と蝶番が鳴った。
戸がゆっくりと開く。
「やった、開いた!」
ツェンドリカが感心したように言う。
「人間って面白いこと考えるなぁ。つまり“智恵”がある者だけ入れる仕掛けか」
ユキオは扉をそっと閉めながら、昔を思い出して言う。
「智恵というより、懐かしさだよ。子どもの頃、ここを開けて入って、お隣の奥さんからお菓子もらったんだ。あの頃は、よかったなあ」
クロは眉間にしわを寄せて目を細めた。
「う~ん、まだ仕掛けがあるかもよ。ホトトギスの花みたいに、ハチの背中に花粉を乗せるような……」
「それは仕掛けじゃなくて植物の生存戦略だよ!」
ユキオがツッコミを入れる。
三人――いや、一人と二匹は、垣根のドアを抜けて隣家の庭へ侵入した。
「クロ2がここに来たってことは、領土の保全を確認しに来たのかもな」
ツェンドリカ呟く。
「おれたちハチ属にとってテリトリーの防衛は最重要事項だ。蟻にとっても当然だろう。
でも、もし隣の奥さんに見つかって“控えよ、我は蟻の女王なり!”とか言い出したらどうする?」
「やめてくれ、それ想像しただけで胃が痛くなる…」
ユキオは頭を抱えた。
ツェンドリカは真面目な顔で言う。
「でも、クロ2にしてみれば、この広大な庭は蟻の巣に最適な土壌と環境だし、おいそれとは手放せないだろう。人間の体となったこの機に、隣の家を一気に制圧してしまうという手もある」
「いや、そういう恐い展開やめて!」
ユキオは声を上げた。
そのとき、家の中から声がする。
「は~い、どちらさまですか?」
お隣の奥さんに気づかれたのだろうか。裏口から入ったのは、まずかった。
「どうする? 見つかったら“生態系の侵入者”扱いだぞ」
「とりあえず、静かに撤退だ!」
ユキオが指示を出す。
三人は忍者のように身を低くして、戻って垣根のドアをくぐり、そっと閉めた。
ギィ――蝶番が再び鳴る。
ツェンドリカが息をつきながら笑った。
「いやぁ、人間の家もなかなかの迷宮だな。智恵がある者しか入れないって、凝り過ぎだろ」
ユキオは苦笑した。
「智恵というより、懐かしさだな。子どもの頃の冒険している気分を思い出したよ」
クロがぽつりと言った。
「ホント、人間の体になってから“冒険”の連続だもんね」
ユキオは笑った。
「そうだな。……それより、クロ2を早く見つけないと。このあたりに自称"蟻の女王"が出没していないか、聞き込みして回るとするか」
冬の風が垣根を揺らし、三人の笑い声が静かな庭に溶けていった。
ーーー
その日の午後、寺田家の玄関に、ひとつの影が差した。
冬の光が薄く射し込む中、クロ2が静かに立っていた。
智恵子は、玄関に現れたその姿を見て息を呑んだ。
蟻の女王の出現に驚いたのではない。
彼女の記憶が、半世紀以上も巻き戻されたのだ。
そこに立っていたのは――ずっと昔に嫁にいったはずの理恵子。
それも、中学校から「ただいま」と言って帰ってきた、あの子供時代の姿そのものだった。
「理恵子……あなた、どうしてここにいるの?」
智恵子の声は、震えていた。
クロ2は小首を傾げ、傍らにエコバッグとマジックハンドを置くと、丁寧にお辞儀をした。
「母から言付かって参りました。
"三十年にわたるご親切に、心から感謝しております。
この世界を去るにあたり、一言気持ちをお伝えしたく、娘をご挨拶に伺わせました。"」
その言葉を聞いた瞬間、智恵子は理屈ではなく、直感で理解した。
この娘は――この庭で共に過ごした“蟻の女王”の子なのだ。
母親は天寿を全うし、次の世代がこうして訪ねてきたのだろう。
荒唐無稽な想像。
しかし、大学教授として長く理性を重んじてきた彼女の心に、それを受け入れることは、むしろ自然なことのように思えた。
「長生きしていると、こんなこともあるのね……」
智恵子は微笑み、クロ2を居間の座敷へと招き入れた。
そして、夫の書斎をそっとノックする。
「あなた、お客様よ。とても懐かしい人なの」
書斎でうたた寝をしていた寺田耕一は、その声に、遠い記憶を呼び覚まされるように目を開けた。
ゆっくりと椅子から身を起こし、居間へ向かう。
そこに佇む小さな来客を見た瞬間、
耕一の時間もまた、五十年以上巻き戻された。
幼い理恵子の姿。
庭で蟻の巣を観察し、「生きるとは何か」を語り合った日々。
季節の匂い、土の温度、そして、あの小さな群れの静かな営み。それが自分の娘の姿をなぞり、目の前に顕現しているのだ。理論ではない、この世の理なのだ
クロ2は、畳の上で正座し、静かに言葉を続けた。
「母は、この庭を愛し、皆様のお心づくしに感謝しておりました。土の匂い、風の音、人の優しさ。
それらが、私たちの世界を支えていたのです。どうか、これからも――」
耕一は深く頷いた。智恵子の手をそっと握り、静かに言葉を返した。
「もちろんだよ。この庭は、君たちの家でもある。30年の思いをよく伝えてくれた。」
クロ2は、深く頭を下げた。
その仕草は、まるで人間の子どものようであり、同時に、ひとつの群れを背負う女王の威厳を宿していた。
外では、冬の風が庭木を揺らしている。
枯れ葉が舞い、陽が傾き、時間がゆっくりと、しかし確かに流れていく。




