buzz.39 厨子の隣家、第二の人生
時代は25年前に遡る。
2001年12月10日、長い大学生活にピリオドを打つ日が訪れた。
藤沢農業大学・特任教授、寺田耕一は、最後の講義を終えた。
教壇に立つのは今日が本当に最後だ。
学生代表から手渡された花束の重みが、長い年月の積み重ねを静かに語っていた。
電車を乗り継ぎ、厨子市の自宅に戻る。
玄関を開けると、土間のひんやりした空気が迎えてくれた。
この家は、かつてある小説家の邸宅だったものを、破格の安値で譲り受けたものだ。
広い土間、上がり框の黒い板の間、庭には湧水の池。
農家の屋敷の名残を色濃く残す、時代を感じさせる家であった。
「やっと終わったよ…」
旦那様の帰宅を受けて、上がり框の向こうから、妻の智恵子が顔を出した。
彼女は耕一より一足早く、六十歳で大学を退き、今は地元の婦人会のウォーキングに参加する毎日だ。
「お疲れさま。長かったわね」
「回顧録でも書こうかなと思ってね」
「誰が読むのかしら?」
「……それもそうだな。ジョギングでも再開するか」
智恵子は笑った。
「私はもう再開してるわよ。フィールドワークで鍛えた脚力、地元じゃ羨望の的なの」
この夫婦は、学界では“おしどり研究家”として知られていた。
共に生物学者で、結婚後も共著を重ね、
学生たちからは「夫婦でひとつの研究室みたいだ」と言われたものだ。
子どもは三人。
最後の娘が嫁いでいったとき、ようやく夫婦二人の生活が戻ってきた。
世は21世紀に入り、二人はこの厨子の家を終の棲家と決めていた。
夕食後、耕一が新聞を広げた。
「見たか、このニュース」
智恵子が覗き込む。
アリゾナ州で、遺伝子組み換えされた蛾が綿花畑に放たれたという。
ケージ内とはいえ、昆虫の遺伝子組み換えは前例が少ない。
「よろしいんじゃないですか?」
智恵子はあっさり言った。
「農薬で地球を汚すよりは、ずっとましよ」
耕一は首を振った。
「いや、技術そのものには反対じゃない。ただ……拙速すぎる気がするんだ」
記事には、研究者のコメントが載っていた。
ワタキバガの幼虫が綿花に与える損害は莫大で、農薬散布に頼るしかない現状を変えるための試みだという。
「大方、国際穀物メジャーあたりから研究資金が出ているんだろう。このへんで結果を出さないと打ち切りだとか、脅されたんじゃないかな…」
智恵子は肩をすくめた。
「理論上は安全よ。幼虫は繁殖年齢に達する前に死ぬよう設計されている。
遺伝子は一世代で途切れる。
もともと死ぬ運命の昆虫を放つだけなんだから」
「……まあ、そうなんだが」
こんな会話が自然にできるのも、寺田夫婦ならではだった。
夕食のあとに遺伝子組み換え昆虫の話題で盛り上がる夫婦など、そう多くはないだろう。
智恵子は湯呑みを置き、ふと、土間の方へ目を向けた。空いた牛乳パックで作った、野菜くずのコンポストが数本ある。
「明日、紙パックコンポストをひっくり返さないとね。庭木の追肥にちょうどいい頃合いだわ」
耕一は笑った。
「君は退職しても研究者みたいだな」
「だって、ここは最高のフィールドよ。
湧水の池もあるし、温室もある。
ハーブは庭に植えると雑草になるから、苗床は温室に置いてるの。
頂いた胡蝶蘭もシンビジウムも、もう10年もここで育てているのよ」
智恵子の声には、
この家と共に生きていく覚悟と喜びが滲んでいた。
耕一は今日学生から手渡された花束を見つめた。食卓に飾っている。
大学での時間は終わった。
だが、ここから始まる時間は、もっと長く、もっと深いものになる気がしていた。
「さて……明日からは、君と一緒に“生活の研究”でもするか……」
智恵子は微笑んだ。
「ええ。私たちの第二の研究生活、始めましょう」
厨子の家の土間には、夜の冷たい空気が静かに満ちていた。
その奥で、紙パックコンポストの微生物たちが、今日もゆっくりと働いている。
まるで、この家そのものが、二人の新しい人生を育てているかのようだった。
ーーー
時は流れて2026年。
厨子市の静かな住宅街。
寺田家の広い屋敷の隣に、ごく一般的な造りの高柳家が並んでいる。
その高柳家の居間では、湯気の立つ湯飲みと急須を挟んで、静江と久美子が向かい合っていた。
久美子は、ユキオの叔母である。
東京の出向元――N通信――への定期報告を終え、帰りに兄の家へ立ち寄ったのだ。
「久美子さんのおにぎり、ほんと美味しかったわ」
静江が笑う。
「今日はすみませんね、松島屋の豆大福で」
久美子も笑う。
義理の姉妹だが、険悪さは微塵もない。
むしろ、気心の知れた友人同士のようだった。
「ユキオが帰るとき、なんか思うところがあったようでね、すこしキリッとした感じになっていたわ」
「えぇ? あの萎れたレタスみたいな子がねぇ」
静江がキャハハッと笑い、久美子もつられて笑う。
「ほんと、変わったのよ。ほぼ毎日、誰かしらガールフレンドがウチに来てるし、夕飯も一緒なのよ」
「へぇー」
久美子は目を丸くした。
静江はさらに続ける。
「この前なんて、中学生ぐらいのお嬢さんまで来たのよ。その子のことを、ユキオは学校の後輩だって言ってるけど、そんなに人望があるように見えないんだけどね」
久美子は肩をすくめた。
「そうでもないわよ。ウチによく遊びに来ていたお姉ちゃんが、まさか兄貴のお嫁さんになるなんて、想像もできなかったもの。さすが、血は争えないというか――」
二人が笑い合っていると、玄関の戸が開き、ユキオが帰ってきた。
「ただいま。……あ、久美子さん、いらっしゃい。この夏休みは大変お世話になりました。邑人さんはお元気ですか?」
「それがね……国に帰ってしまったのよ。また夏までには戻るって言ってたけど」
ユキオは一瞬、表情を曇らせた。
クロ2のことを「中学の後輩」と紹介しているが、いずれはミェリナたちと同じようにマイナンバーカードとスマホを持たせてもらうつもりだった。
(しばらくは身元不明になってしまうな……)
クロ2の行動には、今後注意が必要だと考え直した。
ユキオは二階へ上がった。
今日はツェンドリカとクロが“出勤”のようだ。
「よかった、クロ2は今日は非番か」
そう言うと、クロが振り返った。
「クロ2は出かけているよ」
「何っ!」
ユキオは思わず声を上げた。
「この寒空をどこへ行くって言うんだ?今は12月初旬だぞ。蟻の活動時期じゃない」
ツェンドリカは淡々と答えた。
「俺のマフラーを貸してやった、隣の庭を見てくるんだってよ、あいつがもといた巣のある場所だ。
ホームシックになったんじゃないか?」
ユキオの背筋に冷たいものが走った。
(マズい……!)
隣の奥さんに会って、
「この庭は我が領土である。我は蟻の女王……」
などと言い出したらどうする。
ユキオは階段を駆け下りた。
応接間の前をドタバタと通り過ぎ、その後をツェンドリカとクロが追う。
居間に残された久美子は、甥がガールフレンドらしき二人を連れて走り去る姿を見て、ぽつりとつぶやいた。
「さすが、兄貴の息子というわけね。才能が開花したということか……」
久美子は、生命の不思議を見るようなまなざしで、見違えた甥の背中を見送った。
少し設定を直します。高柳 正平38歳、静江34歳。高柳久美子は正平の10歳下の妹で28歳、静江は近所の幼馴染で高柳家によく遊びに来ていました。25年位前、正平13歳、静江9歳、久美子3歳ぐらいからの付き合いです。正平22歳(妹はまだ12歳)、静江は18歳でユキオを生んだことになりますと、現実世界だと結構な案件だったと思われます。この物語はフィクションです。スルーしていただければ幸いです。




