buzz.38 クロ2誕生
さすがにこの凍てつく寒空の下、蟻の新女王たちをそのまま生身で連れ出すわけにはいかない。
ユキオたちは地下宮殿の座標を厳密に確定させ、黒姫、箕通、丹節、そして千匹の働き蟻たちを巣の特定の数ブロックへ集中させるよう、女王・伊耶那美に伝えた。手筈を整え、ユキオと三匹の女王蜂たちはいったん地上へと帰還する。
ユキオは小さな体で、分子共鳴転移装置に手を触れ、一人と三匹が元の姿に戻るようイメージで操作する。一瞬、強い光が空間に発生したその直後、光は元のサイズでそれぞれの姿に還っていく。
全員急いで高柳家の中に飛び込むが、高柳夫妻を起こさないよう、階段をそおっと上がって、二階のユキオの勉強部屋に入っていく。
冷えていた部屋のエアコンのスイッチを入れて、一気に25℃まで上げた。しばらくすると、ゴォーという低い駆動音とともに、春の陽だまりを思わせる柔らかな風が吹き出してきた。凍えていた部屋の空気が、みるみるうちに解きほぐされていく。
「……ふぅ、生き返る」
部屋がぬくもりに満たされるのを見計らったように、一人と三匹は、それまで着込んでいたモコモコのダウンコートを脱ぎ始めた。
「うおーっ、暖けえ!これが人間が引き起こした『地球温暖化』かあ。悪くねえな」
「エアコンを点けたのよ。―――エアコン暖房の仕組み、気になってネットで調べてみたの。いったいどうやって部屋を暖めているのか。実はエアコンって、『熱を作っている』んじゃなくて、『外の熱を引っ張ってきている』だけなの。
まず、外の機械の中に「冷媒」っていう、熱を運ぶための特殊なガスが流れているんだけど、この冷媒の圧力を一気に下げて、外の気温よりもさらに冷たい状態にするの。想像してみて? どんなに冬の冷たい空気でも、それ以上にキンキンに冷えた冷媒から見れば、外の空気は『温かい』のよ。この温度差を利用して、冷媒が外気のわずかな熱を吸収して蒸発するの。
熱を仕込んだ冷媒は、次に機械の心臓部である「圧縮機」に送られるわ。ここで強力な力でギューッと圧縮されるの。気体を無理やり押しつぶすと温度が急上昇する現象を利用して、冷媒は一気に「高温・高圧のガス」に変身するのよ。効率的なエネルギーの濃縮ね。
超高温になった冷媒がパイプを通って部屋の中のコレ、室内機に送り込まれると、持っている熱を部屋の空気に向けて、ブワッと放出するの。その熱を回転する翅で送り出すから、私たちの部屋はポカポカに暖まるというわけ。ちなみに、ここで熱を奪われた冷媒は、冷まされて液体に戻るのよ。
最後の仕上げとして、熱を放出して冷たくなった冷媒を、今度は「膨張弁」という狭い通路に通して一気に減圧するの。ヘアスプレー缶をずっと噴射していると缶が冷たくなる感覚、分かるかしら? これで冷媒は再び「超低温・低圧の液体」に戻り、また次の熱を拾うために外の機械へと送り返されていくの。
以上を簡単にまとめると、「冷媒が外で熱を拾う ➔ 圧縮して熱々にする ➔ 部屋の中で放熱する ➔ 減圧して冷やす」―――この無限ループで私たちの快適な空間は守られているの。主に電気代がかかる所は、この冷媒をギューギューに『圧縮』するコンプレッサーなのよ……ふふ、私の説明で、ちゃんと理解できた? 」
「なるほどな!」と、ツェンドリカが膝を叩く。
「ミェリナの説明、すごく分かり易かったね!」とクロも目をキラキラさせる。
人間のユキオは、理系好きだが、アルゴリズムや物理法則は不得意分野であった。
「ああ?うう~ん」と、歯切れが悪い。
ミェリナは、そんなユキオに優しく手ほどきする。
「そうね、物事の表面的な観測をしたら、それを仮説でモデリングして、その流れを頭の中で再演してみるの。論理的な思考はその積み重ねで養われていくものよ。私たちハチ属はそれを群体として2億年も続けてきたの。これは面倒なことではなくて、ごはんの食べ方、歯の磨き方、どんなささいなことでも、フローチャートにしてみると、論理思考が習慣化されていくわ」
ひとしきり即席の講義を受けたような感じでいたユキオだったが、部屋も暖まってきたので、エアコンの設定を23℃に落として、クロアリの巣の受け入れを始めることにした。
ユキオは再び、鈍く輝く「分子共鳴転移装置」を両手に捧げて。装置をお隣の寺田さんの庭の方向へと向ける。
あの小さな石灯籠の下、およそ2メートルの地下。30年間、角砂糖と煮干が捧げられ続けたあの場所を強くイメージしながら、転移機能を起動させた。
「カチッ」
いつもと同じように、小気味よい一瞬の作動音が響き、カプセルが柔らかなピンク色に明滅する。分子の組み換えが完了した合図だ。ユキオたちが息を呑んで見守るなか、ミェリナがカプセルに語りかけた。
「……出たい、って強く思ってみて」
ミェリナの声に応じるように、カプセルが再び優しく明滅した。溢れ出した光の粒子が空中で静かに密度を増し、やがて一人の少女の姿を結ぶ。
見た目はちょうど、人間の中学生くらい。少し緊張した面持ちで、少女はユキオたちに挨拶する。
「クロヒメといいます。でも、なんだか偉そうなので……これからは『クロ』って呼んでください」
その自己紹介に、その場にいた先住の「クロ(クロマルハナバチの女王)」が目を丸くした。名前が自分と被ってしまう。しかし、クロはすぐに破顔して、少女の小さな手を包み込んだ。
「あはは、いいよ! じゃあ私のことは『クロおねえちゃん』って呼んで。――なんだか急に可愛い妹ができたみたいで嬉しい!」
それを聞いていたスズメ蜂の女王ツェンドリカが、むうっと口を歪め、心底困ったような声を出す。
「おいおい、呼ぶ側からすれば紛らわしくて敵わんぜ。おい、クロと区別するために、お前は今日から『クロ2(クロツー)』だからな」
容赦のない命名だったが、ミェリナは蟻の新女王へ、どこまでも敬意を込めて一歩進み出た。
「ようこそ、クロ2。あなたは群体の女王であり、群体はあなた自身と同じ一つの存在です。あなたに付き従った千匹の群体は、すべてあなた自身なのよ」
ーーー
その頃、静まり返った地下宮殿で、老いた女王・伊耶那美は、たった一匹で自らの命が尽きる瞬間をじっと待っていた。
実は、彼女が下した「千匹を同行させる」という号令の裏で、巣の中にいた残りすべての働き蟻——じつに二千匹に及ぶ働きアリ全てが、女王の意志を汲み、自発的に黒姫の群体へと合流していたのだ。
「余の思いは、すべて届けたかった。有り余るほどの温かな命を、希望をくれた人間の元へ、私のすべてが会いに行くのだ。これほど幸せな最後があるだろうか……」
今、アバターである「クロ2」の体内には、伊耶那美を除くすべての蟻たちの生命が結集していた。これによって、群体には一定の群体維持効果がもたらされる。たとえクロ2がすぐに卵を産まなくとも、彼女の群体は、ほぼ無限の寿命を持つ一つの巨大な生命体へと昇華されたのだ。
「静かね……。生まれて初めて、本当の一匹になったわ……。こんなにも安らかで、満ち足りた最後を迎えた女王は、蟻の歴史で私が初めてかしら」
伊耶那美の脳裏に、あの庭で過ごした30年の美しい記憶が走馬灯のように流れていく。
春の甘い角砂糖、夏の賑やかな清掃、秋の木漏れ日、そして隣家から優しく差し伸べられる人間の手。そのすべての愛おしいイメージが紡ぎ終わるより早く、老いた女王の意識は、穏やかな深い眠りの中へと溶けていった。
ーーー
ユキオの暖かい部屋の中で、ハチの女王たちと人間に囲まれたクロ2は、今までにない不思議な感覚に包まれていた。
「自分」という明確な輪郭がある。目の前にいる、自分とは違う他者という存在。
巣の中にいたときは、膨大な数の流れのなかで、ただぼんやりと流されるままでよかった。箕通が優しく甘い水を差し出してくれ、通路を走り回る働き蟻たちの前で、丹節が凛々しく自分を護ってくれている。けれど、これからは違う。
自分が女王として、この愛おしい群体を統べ、守っていくのだ。急激に芽生えた「新女王」としての圧倒的な責任感。
「女王として生きる、とは……こういうことなのですね」
緊張に小さく身を震わせるクロ2の肩に、ミェリナがそっと寄り添い、耳打ちした。
「わかるわよ。体の中から、すべての群体たちに注目されているあの心地よい重み。生きなくちゃいけない、私の大切な群体すべてのために。……自分が誇らしくて、愛おしくて、ものすごく勇気が湧いてくるでしょう?」
「うん……!」
クロ2の瞳に、確かな光が宿る。それを見て、クロもツェンドリカも嬉しそうに彼女の手を握りしめた。ミェリナがそのまま、近くで傍観していたユキオの手をぐいと引っ張る。
「ちょ、ちょっと待てよ! 俺はいいって。これ、女子会だろ?」
「いいから、ユキオも来なさい」
拒否権はなかった。一人と四匹は、お互いの体温を分け合うように、ぴったりと身体を寄せ合う。ユキオは至近距離に並ぶ少女たちの温もりに、一瞬で顔を真っ赤にした。
「ふふ、ミツバチの奥義『熱殺蜂球』っていうのよ。もちろん、ユキオが死なない程度に温度は抑えてあるけれどね」
「いや……別の意味で死にそうなんだけど……!」
バクバクと壊れそうなほど心拍数を上げるユキオを囲んで、女王蜂たちと、新しく仲間入りした蟻の新女王は、部屋いっぱいに温かな笑い声を響かせるのだった。外の木枯らしが嘘のように、その部屋だけは、一足早い春のようなぬくもりに満たされていた。




