buzz.37 新女王のdeployment(建国)
「前に申し上げましたとおり、私はもう、この巣の外に出ることはできません。けれど、箕通と丹節の二人がしっかり支えてくれたおかげで、こうして越冬する準備ができました」
そう語る宮殿の主、女王・伊耶那美の輪郭には、隠しようのない疲弊が滲んでいた。長い歳月を生き抜いてきた巨躯を、労わるようにその場へ横たえようとする。側近である箕通と丹節が、すかさずその高貴な体を支えようと両脇に歩み寄った。しかし、伊耶那美は静かに、しかし毅然とした仕草でそれを制した。客人の前でだけは、決して弱々しい姿を晒したくないという、絶対的な統治者としての矜持がそこにはあった。
「ですが、皆様方は、こうして私の深き寝所まで足を運んでくださいました。この誠意に、なにかお応えできないものかと考えたのです。……実を言いますと、私が他の蟻の女王よりも遥かに長き命を保ち、この帝国を維持してこられましたのも、地上の庭にあって、人間と心を通わせることで成し得た奇跡なのだと考えております。
――私は信じているのです、人間と昆虫は理解し合い、尊重し合い、手を取り合うことができるのだと」
地上の庭の主である「お隣さん」は、今年で90歳という長寿を保っているご夫婦であった。
この年齢にもなると、さすがに広い庭の手入れにも不自由が伴うようになり、ユキオの父である高柳正平が、見かねて色々と手伝いを買って出ている。
それでも、高齢の奥様は、毎年春先になると、小さな石灯籠の中に、決まって角砂糖と煮干をそっと供えるのだった。
冬の眠りから覚め、地上へと這い出してきたアリたちは、目ざとくその供物を回収する。それは早春の活動開始期における貴重なエネルギー源となり、卵から孵化したばかりの幼虫を育てるための貴重なタンパク源となった。
このささやかな循環が、驚くべき結果をもたらしていた。アリたちの巣の運営が人間の手によって助けられることで、彼女たちが生存のためにアブラムシを過剰に繁殖させる「アリマキ造営」の必要性が激減したのだ。結果として庭の木々の育成が阻害されることはなくなり、殺虫剤や園芸肥料の使用を最小限に抑えることができた。
さらに、夏場に増えがちな他の虫の死骸も、アリたちが完璧に清掃してくれるおかげで、死骸を食べようとする不快な毒虫(シデムシ、ヤスデなど)が大量発生することもない。お隣さんの住環境は、まさに人間と自然、そして昆虫の生態系が美しく噛み合った、穏やかに支えあう循環の好例となっていた。
それもそのはず、お隣さんのご主人である寺田耕一さんは、かつては大学に在籍した高名な教授であり、生物の研究と講義を行っていた人物であった。奥様の智恵子さんもまた同じ分野の第一線にいた研究者であり、退官後は夫婦で「環境に優しい生活」を目指し、培った知見に基づいた実験的な試みを庭に盛り込んでいたのだ。
「さすがに、これは無理か……」
今年の夏、耕一さんは勝手口の軒下にアシナガバチが営巣を始めているのを見落としてしまった。自分も妻も高齢だ。万が一刺されでもしたら、ご近所を巻き込む大騒動に発展しかねない。困り果てて隣家の高柳正平に相談したところ、正平は「お任せください」と進んでハチの駆除を引き受けてくれた。
今では寺田夫妻の子供たちは遠く離れた街に住み、いずれも60代以上の高齢となっている。庭の草取りなども、正平は「ついでですから」と笑って引き受けていた。夫婦の胸には、高柳家への尽きせぬ感謝があった。
だからこそ、奥様はあの小さな供え物をやめない。
「あの子たちと、どこかで心が通じているような気がするんです」
そう言って、30年もの間、春先から初夏にかけての「お供え」は欠かしたことはなかった。
ーーー
地下宮殿の薄暗い女王の間には、女王が果てしない年月を追憶するように、ぽつり、ぽつりと間を置きながら人間への思慕を語る声だけが響いていた。その間、重臣である箕通も丹節も、彫像のように身じろぎ一つしない。
ユキオ、ミェリナ、ツェンドリカ、そしてクロの脳裏には、声というよりは純粋な「思念」として、女王の心が直接流れ込んできていた。ユキオは、その不思議に驚くことさえ忘れていた。ただ、目の前の偉大な生命が、残された最後の命の灯火を振り絞り、自分たちに最も大切なメッセージを託そうとしているという、底知れない厳粛さに体中を支配されていた。ミツバチとスズメバチの女王たちも、その言葉の重みに静かに聞き入っている。
やがて、伊耶那美は、胸の奥に秘め続けていた決意を告げた。
「私はこのような、人間との正式な対話ができる日を、ずっと、ずっと心待ちにしていました。もし相見えることができたなら、どんな話をしようかと。この庭の主への深い感謝、そして、生態系への正しい理解こそが、人間と昆虫の未来に明るい光を投げかけるのだという確信。それを互いに語り合うことを……。けれど、お互いに年老いてしまい、ついに直接会うことは叶いませんでした」
女王伊耶那美が次に発した言葉。それは、昏い絶望の淵に灯される、最後の希望に繋がるものだった。
「私の後継者――新たなる女王を、あなた方に託したいと考えます。私の巣には、この冬に入る前、大空へ飛び立つタイミングを逸してしまった子がおります。……箕通、こちらへ呼んでください」
箕通が静かに闇の奥へと下がり、少しして、一匹の若い個体を連れて戻ってきた。
「黒姫と言います。まだ一度も巣の外に出たことがなく、結婚の飛行も済ませていません。とりあえずこの地下で越冬させ、来春に飛び立たせるつもりでしたが……この子を、私の代わりにお連れなさい」
一連の対話を聞いていたユキオは、黙って俯き、思考を巡らせていた。
女王が一度会いたいと願っていた人間の代わりに、この新女王がその架け橋となる。しかし、春になっても、未交尾のこの新女王は働きアリの卵を産むことができない。つまり、新たなる群体の成立(建国)は、すぐには不可能なのだ。
ユキオの胸中に渦巻く懸念を察したのだろう。伊耶那美は穏やかな微笑を浮かべ、静かに言葉を継いだ。
「私の側近である“箕通”と“丹節”を同行させます。さらに、この巣にいる二千匹の働きアリのうち、半数にあたる千匹を従わせましょう。それだけの数がいれば、一つの群体としての体裁も十分に整うはずです」
ユキオは思わず目を見開いた。
通常、新女王アリが巣立つ際に伴うのは雄アリだけである。働きアリを引き連れる種もあるが、群体の半数を従えて旅立つなど前例がなかった。
それは蟻社会の常識を覆す決断だった。
種に刻まれた本能にも、DNAに受け継がれた記憶にも存在しない。女王・伊耶那美が自らの意思で下した、かつてない選択だったのである。
女王は高齢だ。来春、彼女がどれだけの卵を産めるかは分からない。何より、残されたわずか半数の働きアリだけで、この過酷な冬を越すことができるのだろうか。
地上の常識に縛られた人間の心配を余所に、冥府の女王・伊耶那美は、昏い地下宮殿の天井を震わせるほどの威厳を以て、絶対の宣言を下した。
「――この巣の中で、余の決定は絶対である。そのように行え」
その一言に、箕通も、丹節も、一切の反論の権利を封じられた。
新女王・黒姫の守護は、自分たちに課せられた至上命題である。しかし、最高戦力であり、実務のすべてを担う自分たちが巣を離れてしまえば、残された伊耶那美は誰が支えるというのか。
引き裂かれるような忠義の沈黙のなか、伊耶那美はどこまでも優しい眼差しを向け、二人の側近と、まだ見ぬ世界に怯える黒姫を交互に見つめた。
「気にするな。お前たちの代わりなど、いくらでもいる」
その声は、冷徹な女王の仮面の奥にある、溢れんばかりの母の慈愛に満ちていた。命を繋ぐため、種を存続させるため。崩壊を厭わぬ女王の決断と共に、新たなる建国の扉が、いま厳かに押し開かれようとしていた。




