buzz.36 冥界女王のaudience(謁見)
この地下迷宮の探索において、最大の被害者はクロであった。
「ふえぇ……押し倒されて、舐められて、もう限界だよぅ……」
なぜかシジミチョウの幼虫と誤認されやすいクロが、疲労困憊した様子で泣き言を漏らす。
ダウンコートの色合いのせいなのか、それとも中の人であるクロの挙動が偶然にも幼虫特有のぐにゃぐにゃした動きを再現してしまっているのか。行く先々で働きアリたちの熱烈な歓迎を受け、一行の中では最も頻繁に絡まれていた。
「あとでハチミツを舐めさせてあげるから、頑張りなさい」
ミェリナはそう励ましながら、クロがアリたちに囲まれている隙に、帰路の目印として用意していた蓄光テープを適当な長さに切り、要所要所へ貼り付けていく。ハチたちは黄色い光を認識しやすいのだ。
その間、ユキオとツェンドリカは、二手に分かれて周辺の探索を続けていた。
先に戻ってきたツェンドリカが報告する。
「整備された通路を発見した。おそらく女王の寝所へ通じているはずだ」
一方、戻ってきたユキオの報告は予想どおりだった。
「だめだ。こっちは行き止まり。もう疲れたよ……」
「お疲れさま。行き止まりも貴重な情報よ」
ミェリナはそう言うと、蓄光テープでバツ印を作り、その通路の入口へ貼り付けた。
ようやくアリたちから解放されたクロを連れ、一人と三匹は女王の寝所へと歩みを進める。
永遠に続くかと思われた迷宮を、行きつ戻りつ、苦心惨憺の末に踏破し――彼らはついに目的地である女王の寝所へとたどり着いた。
【謁見の間】
地上の喧騒が届かない暗き深淵、幾重にも分岐する土の迷宮をひたすらに下ったその最奥。漆黒の闇のなかに、ただならぬ威容を湛えた影が鎮座していた。
「お待ちしておりました。このような地の底まで、お尋ねいただいたその覚悟に答えねばなりません」
冷涼でありながら、圧倒的な質量を感じさせる声が響く。
その声の主は、冥府を統べる絶対者。
女王アリは静かに彼らを見下ろしていた
「私は"伊耶那美(いざなみ)"、この巣の長です」
他のアリとは一見して一線を画すその姿。
クロアリの女王は、この巨大な帝国において唯一、命を生み出し続けるために生きる存在である。
一般的なクロオオアリの働きアリの体長が七〜十二ミリほどであるのに対し、女王の体長は十六〜二十ミリにも達する。無数の卵を産み続けてきたその身体、とりわけ発達した胸部は生命力に満ち、どこか畏怖すら誘う威容をたたえていた。
十年から二十年、あるいはそれ以上とも言われる、昆虫としては破格の寿命。その長い歳月のあいだ、幾世代もの子らを生み育て続けてきた彼女は、まさしくこの迷宮に息づく無数の命の源泉であり、地下帝国の永遠なる母であった。
女王伊耶那美の両脇には、まるで影のように付き従う二体の重臣が控えている。
「紹介しましょう。私の右手に控えるのは"箕通(みつ)"、左手は"丹節(にぶし)"……。老いた私を支えてくれる、忠実なる重臣たちです」
迷宮の最奥、仄暗い玉座の間。
そこに君臨するは、すべての生命の源であり、絶対的な絶対君主――女王・伊耶那美。その巨大にして神聖な存在の左右には、影のように、しかし圧倒的な存在感を放つ二人の女官が控えていた。
右側に佇むのは、箕通。
艶やかな漆黒の装束を纏い、まるでそこだけ宮廷の雅が薫るかのような、物腰柔らかで上品な筆頭女官である。
「お初にお目に掛かります、皆様」
箕通は細い目をさらに細め、常に穏やかな微笑みを絶やさない。しかし、そのやんごとなき声の奥、一切笑っていない漆黒の瞳は、見る者に底知れない冷徹さを予感させた。
主水司(もんどのつかさ)の長官――それが彼女の表の顔。女王に供する飲料や粥を司る給仕責任者であるが、その本質は「歩く最高級カフェ」であった。彼女の体内(社会胃)には、常に極上の蜜が湛えられている。
「……少し、お疲れのようです。我が君」
伊耶那美がわずかに触覚を揺らし、疲労の気配を見せた瞬間。箕通は音もなく寄り添い、優雅な所作で女王の口元へと自らの唇を寄せた。社会胃から逆流させた、甘美極まる黄金の蜜が口移しで女王へと注がれる。
それだけではない。箕通は、自らの体内で殺菌薬剤や抗生物質をも調合する"医官"でもあった。女王の体調を瞬時に見抜き、その都度、最適な薬効を蜜に混ぜて提供する。その微笑みは、至高の癒やしであり、同時に宮廷を裏から支配する冷徹な医術の体現だった。
対する左側に佇むのは、丹節。
漆黒の武人装束に身を包み、長い髪をキリッと結い上げた、涼やかで凛々しい美麗の戦士。
「女王の御前である。無礼は許さぬ」
低く、刃のように鋭い声が玉座の間に響く。
彼女の職務は、人間界でいう行政長官。軍事、産業、偵察、巣の環境対策に至るすべてを統括する兵部大輔であり、女王寝所の警護長でもある。懐には、いつでも敵を絶命せしめる鋭い短刀(毒針)が忍ばされていた。
ーーー
丹節の任務は、女王の絶対的な護衛、そして伊耶那美が産み落とす「卵と幼虫」の防衛。そのためには、成長に不可欠な「タンパク質」の確保が最優先される。
「丹節。アブラムシの牧場で、やや生産効率が落ちている区域があるようですが?」
箕通が、蜜を湛えた唇を上品に歪めて問いかける。丹節は表情一つ変えず、冷徹に言い放った。
「問題ない。明日までに調整する。……役に立たぬ個体は、昨日までどれほど手をかけていようと、ぷちっと屠殺して幼虫たちの糧にするだけだ」
彼女らにとって、情などという曖昧なものは存在しない。すべては効率と、女王への忠誠のため。
冷厳なる判断をもってクロアリの軍団を統率する武人、丹節。
前線から「宿敵・シロアリの羽アリが境界線に侵入」との報が入った。丹節の涼やかな目が、一瞬だけ鋭く細められる。
「あれは羽の生えた、良質なタンパク源にございます」
真顔でそう呟くや否や、丹節は電光石火の速さで前線へと赴き、一撃のもとにシロアリを仕留めた。そして何事もなかったかのようにその肉塊を懐へ仕舞い込み、再び玉座の左側、影の定位置へと戻る。その手には、女王への輝かしい献上品(タンパク質)が握られていた。
糖分と医術で女王の命を内側から潤す、箕通。
“タンパク質”と武力で巣を支える丹節。その無骨な生き方を揶揄してやまない女官・箕通。
「ふふ……相変わらず血生臭いことで。でも、シロアリは私も好物ですのよ」
「ならば遠慮なく食え。蜜ばかりでは物足りんだろう。お前の医術には、こちらも世話になっている」
ーーー
左右の女官は、女王の御前で静かに視線を交わした。
四匹には敵意は見えない。だが、その胸中までは読み切れない。
二人は微かな警戒も緩めることなく、沈黙のまま来訪者たちを観察していた。
冥府の女王・伊耶那美を頂点とする完璧なる王国。その繁栄は、対極に位置しながらも互いを補完し合う二人の側近によって支えられ、今日もまた絶対の安泰を誇っていた。




