buzz.35 女王のlabyrinth(迷宮)
「巣に入る前に、背中にこれを塗っておいて」
漆黒の縦坑を前にして、ミェリナが取り出したのは、年季の入った小さな蜂蜜の瓶だった。中には、少し結晶化の進んだ、いかにも品質の悪そうな賞味期限切れの蜂蜜が詰まっている。
「え、蜂蜜? スキンケアにでもするの?」
ユキオが首を傾げると、ミェリナは「まさか」と不敵に微笑んだ。
「直接肌に塗るには不向きだけど、砂糖や塩、重曹と混ぜてボディスクラブにすれば、ひじやかかとの角質ケアに最高なのよ。大さじ一〜二杯をお湯を張ったバスタブに混ぜるだけで、極上の保湿入浴剤にもなるんだから! ……まあ、私が新しい商品開発のために色々試作してた残り物なんだけどね」
ひとしきり美容うんちくを語ったミェリナは、瓶の蓋を開けて人差し指でべっとりと蜜をすくい取った。
「これをコートの背中に塗っておくと、あとで絶対に役に立つから。さあ、塗ったくって!」
「あ、ハイ……」
理由も分からぬまま、一人と三匹はお互いのダウンコートの背中にベタベタと格安蜂蜜を塗りつけ合うという、極めてシュールな儀式を執り行った。
「よし、仕上げにみんな、コートに付属のフードを深く頭から被って。――それでは、冥界ダンジョンへ出発よ!」
ミェリナの号令とともに、彼らは手探りで女王の部屋を目指し、地中の迷宮へと足を踏み入れた。
◇
「ふええぇ……暗いよぅ、お腹すいたよぅ……。ねえミェリナ、ミェリナの背中に塗った蜜、舐めてもいい?」
歩き始めてわずか数分。案の定、食いしん坊のクロが真っ先に根を上げた。早くも文字通りの「甘えモード」である。
「もう、しょうがないわねぇ。じゃあ、ちょっとだけ休憩にしましょう」
ミェリナは過保護な母親のようにため息をつくと、蜂蜜を自分の指先にちょいと纏わせ、クロの口元に差し出して、ペロペロとしゃぶらせ始めた。
そんな緊張感ゼロの二匹を尻目に、ツェンドリカの触角がピリピリと不穏に逆立つ。
「おい、休んでいる暇などないぞ。ここには長居は無用だ。ユキオ、俺たちは先に進むぞ!」
ツェンドリカはユキオの背中をドンッ!と力任せに押し、強引に歩を進めさせた。
ツェンドリカが焦るのも無理はなかった。
冬眠中とはいえ、ここは蟻の巣の深部だ。地表の寒さを免れたこのエリアでは、まだ一部の働き蟻たちがゆっくりと活動を続けている。そして蟻の世界のルールは冷酷だ。もし動かない者や異分子が見つかれば、それは即座に「ただの死体(肉塊)」とみなされ、バラバラに解体されて幼虫たちのタンパク源にされてしまうのがオチである。
つまり、この薄暗い泥の回廊は、一歩間違えれば貪欲な「屍食鬼」が徘徊するホラーハウスと化すのだ。
周囲に満ちる、ただならぬ死と捕食の気配――。
ユキオはゴクリと唾を飲み込み、ツェンドリカに後ろから急かされながら、複雑に入り組んだ分岐路を行きつ戻りつ進んだ。
だが、ここでユキオの「致命的な才能」が牙をむく。
「ユキオ、次はどっちだ?」
「ええと……この右の通路が怪しい、右かな!」
「よし――、やはり行き止まりだな」
ユキオが選ぶ選択肢は、見事なまでに一分のアリの隙もなく、すべて「行き止まり」か「罠のような泥壁」だった。あまりの勘の悪さと方向音痴ぶりに、ツェンドリカのイライラは最高潮に達する。
「……おい、ユキオ。次はどっちだ?」
「う、うーん、今度こそ直感で……"左"!」
「よし、ならば逆に、"右"へ進むぞ」
ツェンドリカが冷徹に決断を下し、右の通路へ進むと、驚くほど滑らかに一本道が開けた。
ツェンドリカはフッと鼻で笑い、ユキオの肩を叩いた。
「なるほどな、ユキオ。お前の正しい使い方がようやく分かったよ。お前の意見の『すべて逆』をいけば、確実に正解にたどり着く。ある意味、極めて有能な逆張りナビゲーターというわけだ」
「……それ、褒めてる? 盛大にディスられてない?」
ユキオが複雑な表情を浮かべていると、視界の先が開け、少し広い空間に出た。
そこには、先ほど置いてきたはずのミェリナとクロが、優雅に毛づくろいをしながら待っていた。どうやらユキオの最初の爆弾級の判断ミスが祟って、いつの間にか完全に追い抜かれていたらしい。
それを見た瞬間、ツェンドリカは立ち止まり、天を仰いだ。
そして――。
「はあぁぁぁぁぁぁっ……!!」
地底の空気をすべて吹き飛ばさんばかりの勢いで、大げさで、陰湿で、これ見よがしな「不機嫌なため息」を盛大に吐き出した。
これぞ現代社会において「フキハラ(不機嫌ハラスメント)」と呼ばれる、周囲に無言の圧力をかける最悪のモラルハラスメントの一種である。常識ある人間であれば決してやってはならないこの行為を、ツェンドリカは1ミリの躊躇もなく全力で披露していた。
(……うわぁ、めちゃくちゃ不機嫌アピールしてくるじゃん……)
ユキオはツェンドリカの冷たい視線からそっと目をそらし、心の中で「早く女王の部屋に着いてくれ!」と 神に祈るのだった。
―――そのとき、立ち止まっていたクロの背中をつんつんと突く感触があった。
「これ…振り向いたらアウトのやつじゃない?」
一匹のクロアリが、無機質な眼でクロを見つめていた。するとおもむろにクロをその場に押し倒した。
「ひええぇ!ミェリナ、こわいよう―――」
クロアリの触角は、侵入者の素性を取り調べるため、クロの全身をまさぐり始めた。
「クロ、大丈夫だから、うつ伏せになって、じっとしていて」ミェリナの指示が飛ぶ。そのとおりにじっとしていると、背後で――"ざーりざーり"――と音がして、すぐにクロアリは離れていった。
巣に侵入する前に背中にぬっておいた蜂蜜を舐めて、クロアリは満足して去ったのだ。ミェリナの予想通り、ロングダウンコートを着た姿が、シジミチョウの幼虫に見えたのだろう。アリの幼虫は、巣でアリに育ててもらう代わりに、背中から甘い蜜を出す。これを ”相利共生”という。
クロアリは、シジミチョウの幼虫がいると見て、いつものように甘味を摂りに来ただけだったのだ。
「私たちは、ここで飼われている"シジミチョウの幼虫"に擬態していたのよ。背中に塗った甘味を舐めされば"屍食鬼"どもを回避できるわ。今後、こういうことがあったら、クロが今やったような対応をして、決して立ち向かったりしないように」
ダウンコートにハチミツを塗ったのは、ここまで想定した、ミェリナの「防寒・防御」の合体作戦であった。
極寒でも数千匹の個体の生活圏を維持する都市を建設する土木技術。そこには、単独種の生物ではなく、様々な役割を持った他の生物種も共生している。これを数億年前から人類に先駆けて構築していたアリの世界は、既に一つの文明の様相を呈していた。
目的の女王の間は、巣の最深層にある。




